間幕「遼と田中教授の雑談:タイムマシン」
※この話を読まなくても本編は成立します。個人的な見解なので深夜に配信しました。
かといって読まないでくださいと言っているわけでもありません。
五月の午後。
田中教授の研究室は、いつもより静かだった。
学期が始まって間もない頃。
学生はまだ授業と課題に追われていて、教授室に顔を出す者は少ない。
田中教授はコーヒーを飲みながら、何か考え込んでいた。
遼が資料を届けに来たのは、そのタイミングだった。
「失礼します。先週頼まれていた参考文献のリスト、まとめました」
「ああ、ありがとう」
田中教授は書類を受け取りながら、ふと顔を上げる。
「柊くん、少し時間あるか」
「昼までなら」
「座って」
遼は椅子に座った。
田中教授は机の上の一枚のメモを遼に向けてひらひらとさせる。
「来月、市の小学生向け公開授業を頼まれていてな」
「はい」
「事前に子どもたちから質問を募ったんだが」
遼はメモを見た。
走り書きで、一行。
「タイムマシンはできますか?」
「……なるほど」
「どう答えるべきか、少し考えている」
遼はメモを置いた。
「できません、でいいと思いますが」
「根拠は」
「ホーキングが2009年に実験をしています。タイムトラベラー向けのパーティーを開いて、招待状は後日送った。誰も来なかった」
「うん」
「来なかった、という観測事実は、将来もタイムマシンが完成しない可能性を示唆している。少なくとも、過去に戻れる形のタイムマシンは」
田中教授は少し間を置いた。
「柊くん」
「はい」
「未来ある小学生に向かって、その説明でいいと思うか」
遼は少し止まった。
田中教授の顔を見た。
責めているわけではない。
ただ、問うている。
「……」
遼は少し考えた。
メモをもう一度見る。
「タイムマシンはできますか?」
これを書いた小学生の顔は知らない。
でも、この質問を書いた時の気持ちは、少し分かる気がする。
「……一つ、確認していいですか」
「どうぞ」
「ホーキングのパーティーに誰も来なかった理由として、タイムマシンが完成しないこと以外の可能性を潰せているか、という問題があります」
「続けて」
遼は組んだ指を膝の上に置いた。
「まず構造的な制約として、ソーンらのワームホール型タイムマシンの場合、機械が完成した時点より以前には戻れない。つまり、2009年のパーティーに未来人が来ないのは、タイムマシンが2009年以降に発明されるからかもしれない。これは何も証明しない」
「なるほど」
「次に、法律的な制約の可能性があります」
「法律?」
「将来、過去への干渉を全面的に禁止する条例か国際条約ができた可能性がある。タイムマシンは完成したが、使用が厳しく規制されていて、2009年のパーティーに来ることは法的に許可されなかった、というケースです」
田中教授は少し眉を上げた。
「面白い発想だな」
「あるいは、来ているが観測されていない可能性もある。パーティー会場の外から確認だけして、接触しなかった。または別の時間軸に干渉するタイプのタイムマシンで、ホーキングのいる時間軸には物理的に来られない構造だった」
「つまり」
「つまり、来なかったという事実は、できない証拠にはならない。できたけど来なかった理由が、少なくとも三つ四つすぐに出てくる」
田中教授はコーヒーを一口飲んだ。「ふう」と少し息を吐いて続ける。
「では、できると思うか」
「できるとも言えない」
遼は少し首を傾げた。
「エネルギー条件の問題が残っています。時空を繋げるワームホールを安定させるには、負のエネルギー密度を持つ物質、エキゾチックマターが必要になる。カシミール効果で負のエネルギーが生じることは実験で確認されていますが、必要な量とは何十桁も違う。現時点では、素材の調達の見通しが立っていない」
「素材不足、か」
「はい。設計の問題ではなく、素材の問題です。工学的には、保留中のプロジェクトという整理になります」
窓から午後の光が差し込んでいる。
しばらく、静かだった。
「柊くん」
「はい」
「小学生への答えは、何になる」
遼は少し考えた。
ホーキングのパーティー。
来なかった理由の候補。
エキゾチックマター。
保留中のプロジェクト。
「……『まだできていない』が、正確だと思います」
「できない、ではなく」
「できない、は言いすぎです。できる保証もないですが、できない証拠もない。現時点では素材が足りないので作れていない、というのが正確な状況です」
「それを小学生に分かるように言うと」
「……今は材料が足りないので作れていません。でも、材料の問題なので、いつかできるかもしれません」
田中教授は少し笑った。
「それでいい」
「……そうですか」
「うん。それが一番正直な答えだ」
遼は少し間を置いた。
「あの、一つ聞いていいですか」
「何だ」
「最初から、その答えを知っていたんじゃないですか」
田中教授は答えなかった。
ただ、コーヒーを飲んだ。
冷めたコーヒーを、静かに飲んだ。
「……失礼します」
遼は立ち上がった。
「ああ。ありがとう」
ドアが閉まった。
田中教授は、窓の外を見た。
五月の空。
なるほどと頷いた。
そこまで答えを用意していなかった。
「……助かった」
小さく、呟く。
誰にも聞こえない声で。
この話に登場する物理概念は、すべて実在する理論および実験結果に基づいています。
なお、ホーキングが2009年に開いたタイムトラベラー向けパーティーは実話です。招待状は後日送付。参加者はゼロでした。
遼の「エキゾチックマターが量産できれば作れる」という発言は、工学的に正しい保留の仕方です。




