第15話「大作への挑戦」
水曜日の午前。
都内、大手映画制作会社の会議室。
華はマネージャーと並んで座っていた。
向かいには、プロデューサーと監督、そして配給会社の担当者。
三人が、華を静かに見つめている。
「柊華さん。今日お呼びしたのは、他でもありません」
プロデューサーが口を開いた。
「来年春公開予定の映画、『春を告げる鐘』の主演をお願いしたい」
華は少し息を止める。
主演。
前回の小規模映画での主演とは、規模が違う。
大手映画会社。
全国ロードショー。
配給規模も、予算も、プレッシャーも——
何もかもが、桁違いだ。
「主演……ですか」
「はい」
監督が頷く。
三十代半ばの、穏やかな表情の男性だった。
「華さんの演技を、いくつかの作品で見させてもらいました。感情の振り幅が広い。でも、それが押しつけがましくない」
「ありがとうございます……」
「今回の映画は、高校生の主人公が難病の友人を支えながら、自分の人生を見つめ直す話です」
華は資料を見た。
ページをめくる。
あらすじ、キャラクター設定、主題。
どれも丁寧に作り込まれている。
そして——
配給規模。全国三百スクリーン以上。
製作費も、前回の小規模映画とは比較にならない。
「プレッシャーは大きいと思います。でも、華さんなら、この役を生きた人間にできると信じています」
監督の言葉が、華の胸に刺さった。
生きた人間に。
華は静かに頷いた。
「……やらせてください」
「本当ですか?」
「はい」
華は真っすぐ監督を見た。
「精いっぱい、やります」
午後一時。
事務所を出た華は、マネージャーと一緒に車に乗り込んだ。
静かな車内。
窓の外に、東京の街並みが流れていく。
「華ちゃん、すごいね。大作映画の主演だよ」
マネージャーが優しく言った。
「……うん」
「大丈夫?」
「大丈夫……だと思う」
華は少し笑った。
でも、その笑顔の裏に、不安がある。
大作映画の主演。
前回の小規模映画とは、何もかもが違う。
宣伝の規模。
観客の期待。
メディアの注目。
全部、自分にかかってくる。
助演なら、主演の人に引っ張ってもらえる。
脇役なら、自分のシーンだけに集中すればいい。
でも主演は、全体を背負う。
華にできるんだろうか。
車の窓に、自分の顔が映っていた。
二十歳の、まだ若い顔。
この顔が、映画のポスターに大きく載る。
その重さを、初めて実感した。
夕方、柊家のリビング。
凛が帰宅すると、華がソファに転がっていた。
いつもと違う。
元気がない。
「華、どうしたの?」
「……お姉ちゃん」
「何かあった?」
華は起き上がった。
凛の隣に座った。
「今日ね、映画の主演のオファーもらったんだ」
「え!? 本当!?」
凛の声が大きくなった。
「大手の映画会社で、全国ロードショー!すごいじゃん!おめでとう!」
「ありがとう……」
華は少し笑った。
でも、すぐに表情が曇る。
「でも……」
「でも?」
「できるかな、って」
華は膝を抱えた。
「前の映画とは規模が全然違うんだよ。配給も大きいし、予算もすごいし」
凛は少し黙った。
それから、華の頭を撫でた。
「華は天才だよ」
「お姉ちゃん……」
「本当に。私が言うんだから間違いない」
凛は優しく笑った。
「私は、どんな役でも七十点は出せる。でも華は、百点を出せる時がある」
「でも、それがいつも出せるわけじゃない……」
「それでいいんだよ」
凛が言った。
「華は、全部を百点にしようとしすぎ。でも、映画は長い。全部百点なんて無理」
「……」
「大事なところで百点を出せばいい。それができるのが、華だから」
「でも、前の映画より期待されてるし、プレッシャーも大きくて……」
「だからこそ、華なんだよ」
凛は華の肩を抱いた。
「華は、プレッシャーの中で輝ける。前の映画でそれを証明したじゃない」
華は少し泣きそうになった。
でも、こらえた。
凛の前で泣くのは、なんだか悔しい。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「うん」
凛は華の肩を抱く。
二人で、しばらくソファに座っていた。
その時、玄関のドアが開いた。
遼が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
凛と華が同時に言った。
遼はキッチンに向かう。
冷蔵庫を開ける。
麦茶を取り出す。
「遼」
華が声をかけた。
「何」
「今日ね、大手の映画会社から主演のオファーもらったんだ」
遼はコップに麦茶を注ぎながら、少し止まった。
「大手の?」
「うん。全国ロードショー」
「すごいな」
「……うん」
華は少し笑った。
遼は麦茶を飲み、それから華のところに来た。
ソファに座る。
遼は何かに勘づく。
「で、どうなんだ」
「え?」
「やりたいのか、やりたくないのか」
華は少し考えた。
「……やりたい」
「じゃあやればいいだろ」
「でも、できるか分からなくて……」
「できるかどうかなんて、やってみないと分からない」
遼は淡々と言った。
「できなかったら?」
「その時考えればいい」
「……そんな簡単に言うけど」
「簡単だろ」
遼はもう一口麦茶を飲んだ。
「華がやりたいなら、やればいい。それだけだ」
華は少し黙った。
それから、笑った。
「遼、相変わらずだね」
「何が」
「なんでもない」
華は少し元気が出た気がした。
凛のように、丁寧に励ましてくれるわけじゃない。
ただ、「やればいいだろ」と言うだけ。
でも、それが——
なんだか、一番しっくりくる。
夜、華の部屋。
華はベッドに横になって、天井を見ていた。
大作映画。
怖い。
正直に言えば、怖い。
前の映画とは、何もかもが違う。
期待される規模が違う。
注目される大きさが違う。
でも——
やりたい。
この大きな舞台で、どこまでできるのか。
自分の限界を、確かめたい。
華はスマホを取り出した。
監督からのメッセージが来ていた。
「台本、明日お渡しします。楽しみにしていてください」
華は返信した。
「ありがとうございます。楽しみにしています」
送信。
それから、スマホを置いた。
やろう。
やるしかない。
華は目を閉じた。
不安はまだある。
でも、少しだけ、前を向けた気がした。
同じ頃、遼の部屋。
遼は卒論の最終ページを見つめていた。
完成した。
明日、提出する。
あとは印刷して、製本して、教授に渡すだけだ。
遼は椅子の背にもたれた。
長かった。
途中、何度か行き詰まった。
でも、なんとか形になった。
遼はふと、華のことを思い出した。
大作映画の主演が決まったらしい。
不安そうな顔をしていた。
前とは規模が違うから、プレッシャーも大きいんだろう。
でも、やると決めたんだろう。
まあ、華なら大丈夫だ。
そういう人間だ。
遼はパソコンを閉じた。
スマホに手が伸びた。
特に理由はない。
LINEを開く。
詩織との画面。
最後のメッセージは昨日の昼だ。
「卒論、明後日提出でしょ。大変だろうけどちゃんと寝なよ」
遼は少し笑った。
そういえば、一昨日の深夜に愚痴っていた。
参考文献の書式がどうとか、そういう話だった。
詩織は「それは大変」とだけ言って、十分後に「がんばれ」と送ってきた。
たぶん、一度寝てから起きて送ったんだろう。
遼はメッセージを打った。
「できた」
送信。
三秒後に既読がついた。
「お疲れ様。ちゃんと寝てた?」
「寝てた」
「本当に?」
「本当に」
「……どうせ三時間くらいでしょ」
遼は少し止まった。
正確だった。
「まあな」
「やっぱり」
遼は短く笑った気がした。
笑ったかもしれないし、笑っていないかもしれない。
よく分からない。
「一段落したね」とメッセージが来た。
「ああ」
「次どうするの?」
「まだ決めてない」
「そっか」
それで終わった。
詩織は、それ以上聞かない。
必要なことだけ聞いて、あとは待つ。
昔からそういう人間だ。
遼は画面を閉じた。
明日は朝一で印刷に行こう。
それで、卒論は終わる。
その後のことは——
まあ、その時考えればいい。
遼は部屋の電気を消した。
静かな夜。
東京の夜は、いつも静かだ。
翌朝、木曜日。
華は早起きして、リビングで台本を読んでいた。
昨夜、事務所から届いたものだ。
主人公の名前は「日向 葵」。
高校三年生。
明るくて、前向きで、でも心の奥に寂しさを抱えている。
華はページをめくる。
台詞を読む。
情景が頭に浮かんでくる。
「……これ、いい」
華は小さく呟いた。
台本が、本当にいい。
登場人物が生きている。
感情が動いている。
華はもう一度、最初から読み始めた。
その頃、大学の印刷室。
遼は卒論を印刷していた。
ページが一枚ずつ出てくる。
表紙、目次、本文、図表、参考文献。
全部で百二十ページ。
遼はそれを丁寧に揃えて、製本機にかけた。
十分後、完成した卒論が手元にあった。
遼はそれを見た。
表紙に、自分の名前が書いてある。
「自律制御ドローンの障害物回避アルゴリズム最適化に関する研究」
柊 遼。
遼は少し笑った。
これで、終わりだ。
四年間の集大成。
遼は卒論をバッグにしまった。
教授室へ向かう。
田中教授の研究室。
遼がノックすると、「どうぞ」と声がした。
入ると、教授が机に向かっていた。
「柊くん。おはよう」
「おはようございます」
「提出か?」
「はい」
遼は卒論を机の上に置いた。
田中教授は手に取って、ぱらぱらとめくった。
目次を見る。
図表を見る。
参考文献を見る。
「……よくできてる」
教授は静かに言った。
「ありがとうございます」
「提出、受理する」
「ありがとうございます」
遼は頭を下げた。
田中教授は遼を見た。
「柊くん」
「はい」
「よく頑張った」
「……ありがとうございます」
「で、これからどうする?」
遼は少し考えた。
「……まだ、決めてません」
「TechVisionの件は?」
「話を聞くつもりです」
「そうか」
田中教授は少し笑った。
「焦らなくていい。ゆっくり考えろ」
「はい」
遼は研究室を出た。
廊下を歩く。
卒論が終わった。
四年間が、終わる。
次に何をするのか。
まだ、分からない。
でも——
まあ、何とかなるだろう。
遼はそう思いながら、大学を後にした。
夕方、柊家のリビング。
三人が夕食を食べていた。
「遼、卒論出した?」
凛が聞いた。
「ああ」
「おつかれ! どうだった?」
「普通」
「普通って……」
華が笑った。
「遼らしいね」
「そうか?」
「そうだよ」
凛も笑った。
「で、これからどうするの?」
「まだ決めてない」
「企業の話は?」
「話を聞く」
「いつ?」
「分からない」
遼は淡々と答える。
凛と華は顔を見合わせた。
「……遼、本当にマイペースだよね」
「そうか?」
「そうだよ!」
二人が同時に言った。
遼は首を傾げる。
よく分からないが、まあいいか。
遼は食事を続けた。
いつも通りの夜。
三人で、笑いながら。
何も変わらない日常。
でも、少しずつ。
それぞれの未来が、動き始めていた。
その夜、都内のホテル。
ロバートは窓の外を見ている。
東京の夜景。
何度見ても、飽きない。
スマホが鳴った。
森からのメッセージだ。
Hiiragi has submitted his thesis.
He's ready to meet whenever convenient.
(柊が卒論を提出しました。
いつでも面談可能とのことです)
ロバートは、そのメッセージを読んだ。
そして、静かに笑った。
「Finally.」(ついに)
ロバートは返信した。
Arrange it. As soon as possible.
(設定しろ。できるだけ早く)
送信。
ロバートは窓の外を見た。
どこかで、柊遼も同じ夜空を見ているのだろうか。
面談で、何を話すべきか。
ロバートはもう、決めていた。
条件の話はしない。
会社の話も、後回しだ。
まず、聞く。
あなたは何がしたいのか、と。
それだけだ。
ロバートは静かに、その時を待った。




