MINA:復讐の悲しき暗殺者 Part4「真実」
MINA: The Assassin’s Revenge
最初から、全部、俺だった。
監督 椎名拓郎
脚本 有村麻衣子
アクション監督 三上克己
音楽 南遼平
主題歌 硝子の月「悲哀」
製作 橘映画製作
配給 アークライト映像(架空)
MINA 柊華(20歳)
リュウ 水城蒼真(21歳)
ジン 倉持悠(23歳)
アカリ 野中澪(21歳)
テツ 桐島大和(22歳)
カイ 月岡迅(25歳)
扉が開いた。
地下の空気が、わずかに上がってきた。上の階より、ほんの一度、低いくらいの温度。生臭さはなかった。血のにおいもなかった。
金属製の階段が、下へ伸びていた。壁はコンクリートの打ちっぱなし、照明は足元の誘導灯だけ。白く点る緑色の矢印が、一段ずつ光の帯を作っている。MINAはナイフを右手に握ったまま、最初の一段に足をかけた。
踏み板が、わずかに沈んだ。
それが合図のようにも思えたが、誰も出てこなかった。MINAはそのまま降りていった。段の数を数える癖が、今夜は出なかった。数える必要を、身体が拒んでいるのが分かる。降りきった先にあるものが、何段目で待っているかを知りたくないそういう種類の拒否だった。
誘導灯の緑色は、一定の間隔で、壁に小さな影を落とした。MINAの靴底が、その影を一つずつ踏んでいく。踏むたびに、足裏の感触が、いつもより硬く感じられた。疲労ではなかった。疲労なら、逆に、鈍く感じるはずだった。今夜は、全部が、鮮明だった。コンクリートの冷たさも、換気扇の遠い低音も、自分の呼吸が肺に入って出ていく感触も。
過剰に鮮明な感覚は、身体の側が、何かに備えようとしているサインだった。備えている何か——その何かの輪郭を、MINAは、見ないようにしていた。
降りきったところで、MINAは一度、足を止めた。
正面に、両開きの扉。特別な意匠はない。事務用の鉄扉。どこの銀行の金庫室にも使われそうな、何の変哲もない扉。ただし、ノブの周りに、薄く、手の油のあとがあった。つい最近、誰かが触った。何度も。
MINAはその油の跡を、しばらく見ていた。
見てから、ノブに手をかけた。
扉は、鍵がかかっていなかった。
室内は、広かった。
天井までの高さが三メートル近くあり、床はコンクリートを磨いただけの灰色。壁際に、古いスチールデスクがひとつ。椅子がひとつ。奥の壁に、もうひとつ扉があった。換気口が、天井近くに細い帯状に並んでいる。
部屋の中央に、リュウがいた。
立っていた。
黒いパーカー。フードは下ろしたまま。いつも通りの格好。いつも通りの立ち方。体重は均等、重心はやや後ろ、いつでも動ける姿勢。ただ、右手には何も持っていなかった。左手も、空いていた。
MINAは、部屋に入って、数歩進んでから、止まった。
距離、七メートルほど。戦闘間合いとしては、中距離。ナイフは届かない、だが踏み込めば届く。
リュウは、MINAを見ていた。
見ていたが、驚いていなかった。
「来たな」
リュウの声は、いつもと同じだった。
任務から戻った夜、ソファの隣で「お疲れ」と言うときの、あの声。
MINAは何も言わなかった。
言えなかったのではなく、言う言葉が、まだ自分のなかで形になっていなかった。
リュウは、一度、床に視線を落とした。足元のコンクリートに、何か小さな傷でも探すような仕草。それから顔を上げて、MINAの目をまっすぐ見た。
「怪我はないか」
その問いが、MINAの胸の、どこか深いところを撫でた。
撫でた場所が、どこなのか、自分でも分からなかった。
「……ない」
MINAの声は、思ったよりも、低く出た。
「上の三人、相手にしたんだろう」
「……した」
「三人ともか」
「三人とも」
「そうか」
リュウは、小さく頷いた。
その頷き方が、MINAの知っているリュウの頷き方だった。「分かった」「了解した」という意味の頷き。任務の報告を受けるときの、上の立場の人間の頷き。今夜、それは、不自然だった。
MINAの右手のナイフが、わずかに揺れた。揺れを、MINAは自分で感じた。感じて、握り直した。
「リュウ」
「うん」
「なんで、いる」
リュウはしばらく、答えなかった。
答えずに、もう一度、部屋のどこかを見た。今度は奥の扉のほう。そこに何があるのか、MINAには分からなかった。リュウは分かっているような目をしていた。
「話せば、長い」
リュウが言った。
「短くでいい」
「短く、か」
リュウは、小さく笑った。その笑い方も、MINAの知っている笑い方だった。「仕方ないな」というときの、苦笑に近い表情。
「最初から、全部、俺だった」
MINAは、リュウの顔を見ていた。
見ていたが、意味が、すぐには入ってこなかった。
「全部、って」
「全部だ」
リュウは、視線を外さなかった。
「CAGEを壊したのも、ジンを殺したのも、アカリを殺したのも、テツを殺したのも」
リュウは、一息に言った。
一息に言って、それから、ゆっくりと、続けた。
「お前を残したのも」
MINAは、動かなかった。
動けなかった、というほうが近い。足の裏が、床に張り付いている感じがした。耳の奥で、かすかに何かが鳴っている。自分の、呼吸の音だった。呼吸が、普段より速い。測っていなくても、分かる。
リュウは、MINAの反応を待っていなかった。
待たずに、続けた。
「短くでいい、と言ったな」
「うん」
「短く言う」
リュウは、少し、息を吸った。
「——お前は、SERPENTの、研究所で、作られた」
MINAは、リュウの顔を見ていた。
見ていたが、言葉の意味が、輪郭として、入ってこなかった。作られた、という言葉が、音の塊として、耳の中に転がった。意味を伴わない音。意味を伴わない音が、ゆっくりと、意味に、戻ってくるのを、MINAは、待った。
「……作られた」
MINAは、繰り返した。
「正確には、選別された一人、と言うべきか」
リュウは、言葉を、選びながら、続けた。
「生まれは、普通だ。どこの親から生まれたかの、記録もある。ただ、ある段階で、SERPENTの研究所に、移された。移されたあと、長い育成プログラムの、対象になった」
「……いつから」
「物心つく前から、らしい」
「らしい、って」
「俺が、お前の担当になったのは、もっと後だった。初期の記録は、俺も、見ていない」
MINAは、自分の両足が床についているかどうかを確かめるために、一度、爪先に力を入れた。入った。入ったことを確認してから、息を、吐いた。
「育成プログラム、って」
「身体能力、認知、戦闘技能、言語。全部が、カリキュラムだった。年齢ごとに、到達目標が、設定されていた。お前は、全部、予定より早く、到達した。報告書の言葉で言えば、『良好な成長を示す個体』だった」
「……良好な、成長」
「そう書かれていた」
MINAは、リュウの視線を、受け止めていた。
受け止めながら、自分の身体のどこかで、小さく、何かが、ほどけていくのが分かった。ほどけたのは、たぶん、「自分」という輪郭の、一番外側にあった、薄い膜のようなものだった。膜がほどけた分だけ、MINAは、自分がどこまでが自分なのかが、分からなくなった。
リュウは、もう少し、続けた。
「戦闘技能は、施設内で鍛えられた。でも、『人間』として外に出すには、それでは足りなかった」
「……」
「感情。情緒。人との距離感。そういうものを、実地で、学ばせる段階が、必要だった。研究所の中では、教えきれない」
「だから、CAGE」
「そうだ」
リュウの声は、低くなっていた。
「CAGEは、SERPENTが設計した、最後の育成ステージだった。家庭に近いもの。仲間に近いもの。日常に近いもの。その、模造品の中で、お前に、最後の仕上げを、させる場所」
「ジンと、アカリと、テツは」
「全員、SERPENTの人員だ」
MINAは、一度、目を、閉じた。
閉じて、開けた。
開けても、リュウは、同じ場所に、立っていた。
「三人とも、お前が来る前から、CAGEに配置されていた。お前にとって、『自然に出会う、年上の仲間』として、機能するように。ジンは、口数が少ない先輩として。アカリは、おしゃべりな情報屋として。テツは、単純で優しい格闘家として」
「……役割、ってこと」
「役割、といえば、役割だ。ただ」
リュウは、そこで、視線を、少し落とした。
「あの三人は、役になりきっていただけじゃ、なかった」
「どういう意味」
「任務としては、演じていた。でも、演じながら、あの三人は、お前を、本当に、自分の後輩として、扱っていた。俺が、気づかなかったふりをしていたくらい、はっきりと」
MINAは、ジンの、最後の、血で書きかけの文字を、思い出した。
「り」「ゅ」。
あれは、警告だった。本当に、警告だった。
警告、ということは、ジンはリュウを敵として認識できていたということだった。認識できていたということは、ジンはリュウに手を出せる側にいたはずだった。
でも、出せなかった。
出せなかったから、血文字を、書こうとした。
——なぜ、出せなかったのか。
MINAは、そこで、この夜、上で戦った三人のことを、思い出した。
二階の女が、MINAを、殺せる位置に何度も入りながら、殺さなかった。一人目の男が、最初の一撃を外したあと、不思議なほど、詰めが甘かった。二人目が、撃つ前にMINAを止めようとしていた。
三人とも、MINAを、殺しに来ていなかった。
——三人だけじゃない。
「……三人は、私を、殺せない側にいたんだろう」
MINAは、小さく、言った。
「上で戦った、三人もそうだ。身体が、私を殺す動きに、入れていなかった」
「……気づいたか」
「気づいた」
リュウは、しばらく、黙った。
黙ってから、小さく、頷いた。
「——そうだ。そうなっていた」
「……言葉で、命じる、ではない。そういう種類の命令じゃ、なかった」
リュウは、少し、息を吸った。
「お前に対して、攻撃が、できないように、処置されていた」
「——処置」
「行動抑制。条件づけ。呼び方はいろいろある。要は、お前に対して、殺意をもった動きを取ろうとすると、身体が、自分の命令を、聞かなくなる」
MINAは、リュウの顔を見ていた。
見ていたが、意味はまだ、全部は届いていなかった。リュウがこれから続けるだろう言葉を聞かないと、届きようのない種類の話だった。
リュウは、続けた。
「女は、お前を殺せた。殺せる位置に、何度か入った。入ったところで、身体が止まった。『二度目は通じない』と、言ったらしいな」
「……言った」
「あれは、自分の技の話じゃない。自分の身体が、お前を殺す動きに入れなかった、という話だ」
MINAは、二階の執務室で女が最後に言った言葉を、思い出した。
「あの人は、知ってる人だ」。
女は、MINAを知っていた。MINAのほうは、女を知らなかった。でも、女はMINAの育成記録を知っている人間だった。女にとって、MINAは見知らぬ相手ではなかった。
「女は、研究所の上の方の、技術担当だった」
リュウは、続けた。
「お前の育成カリキュラムの一部を、設計した人間だ。だから、お前を殺せる位置にいても、殺せなかった」
「……知ってる人、だ、って」
「そう、言い残したか」
「言った」
「そうだな。女にとって、お前は見知らぬ相手じゃなかった」
MINAは、そこで、もう一つ気づいた。
「……『あの人は、知ってる人だ』って、言った」
「うん」
「『あの人』は、——あんたのことか」
リュウは、小さく頷いた。
「たぶん、な」
「女も、あんたを知ってた」
「同じ研究所にいた時期がある。直接の上下関係じゃない。でも、顔見知りだった」
MINAは、女の最後の口の動きを、もう一度思い出した。
「あの人は、知ってる人だ」。
あの言葉は、女がMINAに向けて残した警告だった。同時に、MINAの奥で、意味が分からないまま、自分にとっても知っている人の話として響いていた。響いていたから、MINAの呼吸は戦闘後に乱れたのだ。
女は、それを分かって言ったのかもしれなかった。
分かって言ったのだとしたら、女はMINAに、何かを伝えようとして死んだ。伝え方が、暗号じみていた。でも、MINAの身体のどこかには、確かに届いていた。
MINAは、リュウの顔から視線を外した。
外すのは、久しぶりだった。CAGEのあの夜から、ここまで、MINAはほとんどリュウを見続けていた気がした。気がしただけだったかもしれなかった。どちらでも、よかった。
リュウは、MINAの視線の動きを、待っていた。
待ってから、もう一つ、言った。
「お前にも、処置はかかっている」
MINAは、顔を上げた。
「……私にも」
「試してみろ」
「何を」
「俺を本気で殺しに来い」
MINAは、右手のナイフを握り直した。
握り直して、踏み込んだ。
——踏み込み、の、速度が、おかしかった。
自分が全力で動いているつもりだった。なのに、身体が思うように前に出ない。膝が、肩が、腰が、普段の戦闘速度の六割、いや七割くらいしか、出ていない。
MINAは、ナイフをリュウの首筋に向けた。
向けた刃の切っ先が、リュウの皮膚から三センチのところで、止まった。
止めたのは、MINAではなかった。
腕が、勝手に止まった。
MINAは、その三センチを見つめた。
見つめて、ゆっくりとナイフを引いた。
「——なに、これ」
MINAは、小さく、言った。
「身体が動かない」
「動かないんじゃない。動かせるのは、そこまでだ」
リュウは、静かに答えた。
「お前にも、同じ処置が施されている。SERPENTの工作員に対して殺意をもって攻撃すると、身体が半ば拒むようになっている。今夜、上の三人と戦えたのは、あの三人がお前に先に攻撃を仕掛けてきたからだ。先に攻撃された反撃は、処置の対象外だった」
「——私も」
「お前も、装置の一部だ。悪いな」
リュウは、そう言って、もう一度微笑んだ。
MINAは、リュウの微笑を見ていた。
見ていたが、その意味を整理する余裕は、まだなかった。
リュウは、しばらく、黙っていた。
黙ってから、もう一度、口を開いた。
「俺がCAGEに配置されたのは、お前が来る二ヶ月前だ。覚えてるな」
「覚えてる」
「あの二ヶ月で、俺はジンとアカリとテツと、顔を合わせた。三人は、お前が来るまでに揃っていた」
MINAは、リュウの顔を見ていた。
顔は、穏やかだった。悲しげでもなく、得意げでもなく、ただ、説明している顔。任務の報告を、部下にしているときの、あの顔に近かった。
それが、MINAの知っているリュウの顔だった。
その顔で、今、この話をしていた。
その事実がMINAの胸にじわりと染みてくるのに、少し時間がかかった。
「お前がCAGEに移されてきた時、俺はSERPENTに報告した。『順調。A級個体、予定通り最終段階へ』と」
「A級」
MINAは、その呼び方を繰り返した。
繰り返したが、意味は音としてしか届かなかった。
「そう書いた」
リュウは、目を逸らさなかった。
「SERPENTの報告書の上では、お前は個体だった。俺は、その育成担当だった」
「……笑い方を」
「教えたのも、仕事のうちだ」
MINAは、自分の口が開いたまま止まっているのに気づいた。
閉じた。
閉じてから、また、開こうとして——開ききらなかった。
「育成が順調だと、報告していた。月に一度、決まった曜日と時間に、CAGEの外の喫茶店から決まった番号に、決まったコードを送った」
リュウは、淡々と言った。
「お前が、外のパン屋を見に行った日も、送った」
「……パン屋」
「子供が笑っていた、って話してくれただろう。あの日、俺はその話を報告書にそのまま書いた。『被験個体は外部の社会的刺激に対して、感情的反応を示す段階に到達』と」
MINAは、ナイフを握る手に力が入っているのが分かった。
入れているつもりはなかった。勝手に、入っていた。
「全部、嘘だったの」
MINAは、小さく、言った。
「全部じゃない」
リュウは、そこで初めて、視線を少しだけ落とした。
「全部じゃないが、全部が嘘じゃない、わけでもない」
「どういう意味」
「お前に笑い方を教えたのは、任務だった。それは本当だ。でも、教えながら、俺は……」
リュウは、そこで言葉を探した。
探したが、見つからなかったらしい。
「——説明できない」
MINAは、それからしばらく動かなかった。
リュウも、動かなかった。
数秒経ってから、MINAはもう一つだけ訊いた。
「今夜の、三人は」
リュウは、一度、目を伏せた。
「育成ステージの終了時刻が、決まっていた。今夜が、その日だった」
「……今夜」
「SERPENTの予定表では、今夜の二十三時。MINAの最終育成期間、終了。同時に、CAGEの廃棄。お前を本部に回収」
「——廃棄」
「そういう言葉だ」
「——三人は、廃棄された」
「……廃棄された。そうだ」
リュウの声は、そこで少しだけ低くなった。
「三人は、役目を終えた装置だった。使い終わったら、捨てる。そういう発想をSERPENTはしていた。俺は、それを止められなかった」
「止めようと、したのか」
MINAは、リュウの顔を見ていた。
リュウは、答えなかった。
答えないのが、リュウの答え方だった。それが、本当に答え方だったのかは、MINAには分からなかった。ただ、リュウの顔から一瞬、何かが抜けていった気がした。抜けていった何かの名前を、MINAは今、知らなかった。知らないまま、記憶した。
リュウも、動かなかった。
二人のあいだに、沈黙が落ちた。その沈黙のなかで、MINAはいくつかのことを思い出した。思い出すというより、頭が勝手に映像を再生した。
リビングのソファの四十センチの距離。
任務から戻ったあとの「お疲れ」。
「生きてたな、っていう確認だ」と言った、ある朝の、リュウの声。
「分かった時点で、言葉にしなくてもいいことだから」と、皿を洗いながら言った、あの背中。
全部が、嘘だった。
全部が、嘘だったなら、なぜ今、自分の胸のここが、こんなに重いのか。
「リュウ」
「うん」
「今日、私を呼んだのは」
「呼んだ」
「なんで」
リュウは、少し間を置いてから、答えた。
「一緒に来い」
MINAは、リュウの顔を見た。
顔は、穏やかだった。穏やかで、だからこそ、MINAには、分からなかった。
「一緒に」
「本部に戻れ、ということだ。SERPENTの。お前を次の段階に運ぶための、回収だ。育成ステージを終えた個体は、作戦ステージへ移る。お前は、今夜、そこに戻る予定だった」
「戻る、って。——初めて、行くところでしょう」
「お前の記憶の上では、そうかもしれない」
「記憶の上、ね」
MINAは、その言い方を小さく繰り返した。
記憶の上、とリュウは言った。それは、MINAが覚えていないだけで、かつてそこにいた可能性がある、ということだった。
「覚えていないのは、処置のせいだ。幼い頃の記憶は、意図的に、消されている。消した方が、育成に都合がよかったから」
「——そう」
MINAは、短く言った。
短く言った声が、自分でも冷たく聞こえた。
冷たく聞こえたのと同時に、MINAの目から水が一粒だけ落ちた。
頬に流れる前に、手の甲でMINAはそれを拭った。拭ったのは、涙を見られたくなかったからではなかった。涙が何を意味しているのか、自分でも分からなかったからだった。意味の分からないものを、そのままリュウの前に差し出したくなかった。
リュウは、MINAの手の動きを見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
「リュウ」
「うん」
「私、お前と行かない」
「……そうか」
「戦う」
「……だろうな」
リュウは、初めてわずかに目を伏せた。
「お前は、そう言うと思った」
MINAは、ナイフを構え直した。
右手に本体、左手は予備のナイフを靴の内側から抜き取って握った。両手持ちは、リュウとは一度もやったことがなかった。やる必要が、なかったから。
両手に刃の重みを感じながら、MINAは一度だけ呼吸を整えた。
リュウのほうは、それを待っていた。待ちながら、MINAの構えを目で確認していた。確認の仕方が、訓練中にMINAの姿勢を直してくれていた時と、同じだった。
「構え、右肩が下がってる」
リュウが、低く言った。
MINAは思わず、右肩の位置を意識した。
意識してから、その意識を振り払った。
今夜、あれは助言ではなかった。助言のふりをした、別の何かだった。
リュウは、それでも、丸腰のままだった。
「リュウ、武器」
「いらない」
「……そう」
MINAは、踏み込んだ。
最初の一合で、分かった。
リュウは、受けることしかしていない。
MINAの右手のナイフが、リュウの左肩口を掠った。掠らせたのは、MINAではなくリュウだった。わざと紙一重で、布地だけを切らせた。返しで左手のナイフが、リュウの腹を狙う。リュウは身体を捻ってナイフの軌道を外した。外したが、外す角度が、MINAの知っているリュウの角度よりもわずかに甘かった。
甘く反応した。
わざとぎりぎりで避けた。
「……戦えよ」
MINAは低く言った。
言いながら、左足で床を蹴った。踏み込みから回転。ナイフの二段突き。リュウはそれを手のひらで軌道を逸らした。逸らしただけ。掴もうとはしなかった。つまり、こちらの腕を極めに来ることも、逆手を取ることもしていなかった。
リュウの知っている技は、その十倍くらいある。
MINAは、それを知っていた。CAGEの訓練室で、何度もリュウに組まれたことがあった。リュウの関節技に、MINAは一度も勝てなかった。あの時の滑らかで、容赦のない動きが、今のリュウの動きにはない。
「なんで」
MINAは、息を吐きながら、また踏み込んだ。
右、左、右。三連の刺突。リュウは、一つずつ身体を引いて避けた。避けただけ。反撃はしなかった。
「なんで戦わない」
「戦ってる」
リュウは息を乱さないまま、言った。
それが、余計にMINAの何かを刺した。
息が乱れないのは、本気で動いていないからだった。本気で動いていないのに、戦っていると言う。その言い方が、MINAの耳の内側を冷たく撫でた。
——いや、違う。
MINAは、さっきの自分の踏み込みを思い出した。
六割の速度で、勝手に落ちた踏み込み。止まったナイフ。自分の身体が自分の意志に従わなかった、あの感触。
リュウにも、同じことが起きている。
攻撃しようとすれば、身体が止まる。
殺そうとすれば、動きが遅れる。
リュウが「戦ってる」と言ったのは、嘘ではなかった。戦っているのは、MINAに対してではなかった。自分の身体の内側の何かに対して、リュウは戦っていた。戦って、それでも攻撃に転じられないでいた。
MINAの中で、何かが少しだけ崩れた。
崩れたのは、「戦わないリュウへの、怒り」だった。怒りが崩れた場所に、別の感情が入ってきた。入ってきた感情の名前を、MINAはまだ知らなかった。知らないまま、ナイフを握り直した。
MINAは、ナイフを持ち替えた。右手に両方、左手はフリー。左手でリュウの襟を掴みにいった。掴めた。掴めた時点で、リュウは振りほどけた。リュウの腕力なら、MINAの握力程度、一秒で解除できる。解除しなかった。
「リュウ」
MINAは、襟を掴んだまま顔を寄せた。
「これ、戦ってる、っていうの」
「うん」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「受けてるだけだ」
「受けるのが、今日の俺の戦い方だ」
MINAは、リュウの顔を見ていた。
穏やかな顔だった。
その顔を、MINAは何度もCAGEの夜に見ていた。スープを飲みながら、「後から来る」と言った顔。「時々、できなくてもいい」と言った顔。「分かった時点で、言葉にしなくてもいいことだ」と言った、あの顔。
同じ顔だった。
同じ顔で、今、MINAの正面に立っていた。
その顔のまま、死のうとしていた。
MINAに、殺させようとしていた。
気づいた瞬間、MINAの握った襟の指先が、一瞬力を失いかけた。
失いかけたが、失わなかった。
失えば、終わらなかった。
終わらせに来たのは、MINAのほうだった。
MINAは、襟から手を離した。
離して、一歩下がった。
呼吸を整えた。整えながら、ナイフの柄を握り直した。
「四分」
MINAは、自分に小さく言った。
「四分で、終わらせる」
終わらせる、という言葉の意味を、MINAは言いながら自分で受け止めた。受け止めたのと同時に、胸のどこかがひとつ折れるような音を立てた。その音は、外には聞こえない音だった。自分にだけ聞こえる、静かな音だった。
MINAは、踏み込んだ。
今度は、速度を上げた。
上げられるだけ上げた。
一合、二合、三合——リュウは全部受けた。受けるたびに、身体の軸をわずかにずらす。ずらし方が、巧い。巧いが、返してこない。返す力を、自分で殺している。MINAの右手のナイフが、リュウの右脇腹を掠った。血がわずかに、パーカーの黒い布地に滲んだ。
リュウは、気にしなかった。
「あとどれくらい、やる気だ」
リュウが言った。
息は、まだ乱れていなかった。
「私が、納得するまで」
「納得、か」
「納得できない」
「——そうだな」
リュウは、わずかに笑った。
笑った顔を、MINAはナイフで崩しに行った。
踏み込み、左下から右上への斬り上げ。リュウは頭を引いた。引いたが、今度は引き方が、一瞬遅れた。
一瞬遅れたのは、わざとか、本当に疲れたのか、MINAには分からなかった。
分からないまま、MINAの刃がリュウの首筋を掠めた。
掠めて、通り過ぎた。
血が一筋、リュウの首から胸に向かって垂れた。
リュウは、初めて手で首に触れた。
触った指先を、自分で見た。
見て、頷いた。
「MINA」
「うん」
「うまく、なったな」
MINAは、その言葉を聞かなかったふりをした。
聞いてしまったら、立っていられない気がしたからだった。
四分のうち、三分半が過ぎた。
あと三十秒、とMINAは自分に言い聞かせた。
言い聞かせたのと、ほぼ同時に、リュウが口を開いた。
「そろそろ、いいか」
「何が」
「俺の、最後の一手だ」
MINAは、ナイフを構え直した。
リュウは、初めて両腕を、身体の脇に下ろした。
防御をやめた。
「……リュウ」
「うん」
「本気でやれ」
「やってる」
「やってない」
「……やってない、と見えるなら、それでいい」
リュウは、そう言って、一歩、前に出た。
——踏み込んできた。
MINAの身体が、その一歩を攻撃として認識した。
認識した瞬間、身体の中で何かが、すっと解けた。解けたのは、さっき踏み込んだ時に身体を六割の速度に抑え込んでいた、あの見えない枷だった。枷が、今、外れていた。先に攻撃を仕掛けてきた相手に対する反撃は、処置の対象外だった。リュウ自身が、そう言っていた。
リュウは、それを知っていて、一歩出た。
MINAは、下がらなかった。
下がれば、リュウに最後のチャンスを与えたことになる。与えるつもりはなかった。
MINAは、踏み込んだ。
踏み込む速度が、今夜初めて本来の速度で出た。
右手のナイフを、リュウの首筋の左側へ向けた。
頸動脈の真上。
リュウは、避けなかった。
避けようとした動きが、一瞬あった。一瞬あったが、止めた。
止めたのを、MINAは見た。
見たが、刃は止めなかった。
止められなかった、のほうが正確だったかもしれない。
刃が届いた。
リュウの首から、血が噴いた。
リュウは、二歩後ろに下がった。
下がって、膝をついた。
膝をついてから、もう一度MINAを見上げた。
目が、まだ光っていた。
光のなかに、MINAは自分の顔が映っているのを見た。映っている自分の顔は、ナイフを持ったまま、口の端が震えていた。震えているだけだった。泣いてもいなかったし、笑ってもいなかった。
リュウは、その顔を見ていた。
見ながら、口を開いた。
「MINA」
「……」
「お前のことを、妹、だと思ったことは」
リュウの声は、低くなり始めていた。
血が、気道にも回り始めている。
「……一度も、」
そこで、リュウは少し咳き込んだ。
咳き込んで、それでも続けようとした。
「……一度も、」
二回目の「一度も」の続きを、リュウは言わなかった。
言おうとした口が、そのまま止まった。
止まった唇の端が、わずかに上がった気がした。
気がしただけかもしれなかった。
リュウは、そのまま前のめりに倒れた。
MINAは、動かなかった。
ナイフを持った右手が、身体の横で止まっていた。
リュウの倒れた床から、血がゆっくりと広がっていった。
コンクリートの目地のあいだを、赤い筋が何本か伝っていく。
MINAは、しゃがんだ。
しゃがんで、リュウの顔を見た。
リュウの目は、開いたままだった。
MINAは、右手を伸ばした。
伸ばして、リュウの瞼を閉じようとした。
閉じようとして——指が、止まった。
止まったのは、リュウの唇の端の、あのわずかな上がりを、崩したくなかったからだった。
上がりを崩せば、リュウの最後の表情が消える。
消したくなかった。
MINAは、手を引いた。
引いて、膝を床についた。
そのまま、しばらく、そこにいた。
——お前のことを、妹、だと、思ったことは、一度も、……
続きの言葉を、MINAは頭のなかで何通りも並べた。
「思ったことは、一度も、なかった」なら、それは関係の否定だった。
でも、リュウが本当に妹だと思っていなかったのなら、なぜ「思ったことはない」と、わざわざ言い残そうとしたのか。
思ったことがないなら、言う必要がない。
言う必要があったのは、思っていたからだ。
「思ったことは、一度も、なかった。それ以上の何か、だった」——
そう続くつもりだったのかもしれない、とMINAは思った。
思ったが、確かめる相手はもう、いなかった。
MINAは、リュウの動かなくなった右手の指先を見た。
爪は、きれいに切り揃えられていた。
CAGEにいたあの朝、アカリが「リュウって、爪、いつも短いね」と言ったのを、MINAはぼんやり思い出した。
リュウは笑って、「武器を握るからな」と答えていた。
でも、MINAは今、知っていた。
武器を握るから、ではなかった。
爪を引っかけないようにするためだった。
人に何かを渡すときに。何かを受け取るときに。誰かに触れるときに。
リュウは、そういう人だった。
そういう人、だった。
MINAは、立ち上がった。
立ち上がって、リュウの傍を離れた。
離れる時、MINAの右手のナイフは、まだリュウの血で濡れていた。
MINAは、その血を自分の服で拭わなかった。
拭わないまま、奥の扉のほうへ歩いた。
歩きながら、MINAは一度だけ振り返った。
振り返った視界のなかに、倒れたリュウと、コンクリートの床と、広がっていく血と、換気口から差し込むわずかな光があった。
その光景を、MINAは覚えた。
覚えて、前を向いた。
奥の扉は、鍵がかかっていなかった。
開けた先には、もう誰もいなかった。
SERPENTの東京支部長は、すでにこの場所を引き払ったあとだった。
逃げたか、あるいは、最初からいなかった。
MINAには、どちらでもよかった。
今夜、MINAが会いに来た相手は、もう後ろの部屋で倒れていた。
それ以外は、全部付け足しだった。
MINAは、奥の扉の向こうの薄暗い通路を少し歩いて、それから戻った。
戻って、もう一度リュウの傍に膝をついた。
「……朝まで、いる」
MINAは、小さくそう言った。
返事は、なかった。
返事のないことを確認する、儀式だった。
コンクリートの床は、冷たかった。
MINAは、そこにただ座っていた。
自分の呼吸が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。戦闘後の心拍数の下がり方。MINAが身体で覚えていた、あの下がり方。今夜も、同じように下がっていく。
下がりきった先に、何が残るのかは、MINAにはまだ分からなかった。
分からないまま、MINAはリュウの傍で、膝を抱えた。
抱えたことが、自分でも意外だった。
CAGEに来てから、こんな姿勢で座ったことは一度もなかった。
リュウが、いたら。
そう考えかけて、MINAはその思考を止めた。
止めるのは、上手になっていた。リュウが半年かけて、MINAに色々なことを教えてくれた。そのなかに「考えを止める」技術も、確かに含まれていた。
含まれていたものを、MINAは今、リュウの傍で使っていた。
使わせているのは、リュウだった。
MINAは、少しだけ笑いそうになった。
笑いそうになって、笑わなかった。
笑い方は、リュウに教わった。
教わったから、今夜は使わなかった。
今夜だけは。
それが、今のMINAにできる精一杯の、弔い方だった。
換気口から、夜明け前の空気が、ゆっくりと流れ込んでいた。
MINAは、その空気のわずかな温度の変化を、肌で感じた。
夜が、もうすぐ終わる。
終わりを、MINAは待つことにした。
待ちながら、リュウの動かない手を、もう一度見た。
爪は、きれいに切り揃えられていた。
短く。
きれいに。
誰かに触れるために。




