SILENT AEGIS ──TechVision特殊部隊、東京作戦記録──第十話「THE LOOSE THREAD」
六月。
午後六時四十二分。
港区、TGSアドバイザリー九階。情報セルの部屋。
河野誠は、モニターの前に座っていた。
倉庫の制圧が完了したという連絡が入ったのは、一時間前だ。ヴィクターからの短いメッセージ一行——「終わった」——一行だけだった。河野はそれを読んで、制酸剤を飲まなかった。今日は珍しく、飲まなかった。
ただ、仕事が一つ残っている。
岸谷冬馬。
元公安。現在はOuroborosの情報ブローカーとして動いていた男だ。今回の件で、凛の移動ルートを含む警護シフト情報を外部に流した。それが証明できれば——証明できる。河野は証拠を持っている。
問題は、岸谷が警察内部の人間だという点だ。
ECHOは手を出せない。処理班も動かない。岸谷に動くとすれば、法だけだ。
河野の仕事は、その法を動かすための火をつけることだった。
夏目澪が、隣のデスクでキーボードを叩いていた。
今日は朝の六時から来ている。昼食も取らずに作業していた。河野も同じだ。二人ともコーヒーだけで動いていた日だった。
夏目が作っていたのは、「ファイル」だ。
岸谷が過去十年間に外部流出させた情報の記録——SIGINT《※1》で捉えた通信パターン、OSINT《※2》で収集した公開情報との照合、そしてHUMINT《※3》経由で確認した事実の断片。それらを一つの文書にまとめる作業を、夏目は夕方からずっとやっていた。
※1【SIGINT(Signal Intelligence)】通信傍受による情報収集。電話、無線、インターネット通信などを解析する。
※2【OSINT(Open Source Intelligence)】公開情報からの情報収集。新聞、SNS、登記情報、裁判記録など、誰でもアクセスできる情報を組み合わせて分析する。
※3【HUMINT(Human Intelligence)】人的情報収集。実際に人間が現地に出向いたり、情報提供者を通じて収集する情報活動。
河野はその作業を横目で確認しながら、送り先のことを考えていた。
警視庁の内部監察部門。
その中に、一人だけ「本物だ」と思える人間がいる。GSOC《※4》時代から知っている男で、名前は出せないが——この男なら、受け取った情報を正しく使う。私利のためでも、組織防衛のためでもなく、ただ正しいことのために動く。
※4【GSOC(Government Security Operation Centre)】内閣情報集約センター。日本政府の情報収集・分析機能を担う機関。河野はここに在籍した後、TechVisionに転籍した。
長年、河野はその男の存在を「非常口」として持っていた。使うつもりはなかった。でも今日、使う日が来た。
午後七時十五分。
夏目が言った。
「河野さん、ファイル、完成しました」
河野は椅子を引いて、夏目のモニターを見た。
文書が一つ。三十二ページ。
岸谷が外部に流した情報の記録が、時系列で並んでいた。最初の案件は十一年前だ。そこから今回の件まで、一つずつ証拠がある。
河野はページをゆっくりスクロールした。
読んでいると、少し気分が悪くなった。
十一年間。警察の中で、これだけのことをやっていた。情報を売って、それで誰かが傷ついて、でも岸谷は今日もどこかで普通に生きている。
河野は制酸剤を取り出した。やっぱり飲むことにした。
「匿名で送ります。送り先は——」
「言わなくていいです」と夏目が言った。「河野さんが決めた人なら、それでいいと思います」
河野は夏目を見た。
夏目はモニターを見たままだった。
河野はファイルを暗号化した。送信経路を三段階で匿名化した《※5》。送り先のアドレスを打ち込んだ。
※5【匿名化された送信経路】送信元の特定を困難にするため、複数の中継サーバーを経由して情報を送る技術。TorネットワークやVPNの多段接続が代表的。送り先には届くが、送り元はほぼ特定できない。
送信ボタンの前で、一秒止まった。
これは正義かどうかわからない。TechVisionの利益のための行動だ。岸谷が今回の件でOuroborosに情報を売っていなければ、河野はこのファイルを使わなかったかもしれない。
でも——使える正義というものがある。正しい目的のために使われるなら、動機が何であっても、結果は正しい。
そう思うことにしている。思わないと、この仕事はできない。
送信した。
夜の九時を過ぎていた。
二人はまだ部屋にいた。
河野は椅子に深く腰を落として、天井を見ていた。夏目はコーヒーを飲みながら、モニターの通知を確認していた。
送信したファイルへの反応は、すぐには来ない。内部監察が動き始めるまで、時間がかかる。月単位かもしれない。でも——動く。あの男は必ず動く。
河野は夏目に言った。
「送った」
「後は向こうが動くんですね」
「動く。時間はかかるけど」
夏目がコーヒーカップを置いた。少し間を置いてから言った。
「柊さんたち、今日も普通に仕事してたんですね」
河野は少し考えてから答えた。
「そうらしい」
「……知らない方が、いいですよね」
「絶対に」
沈黙があった。
夏目が窓の外を見た。東京の夜景が広がっている。
「河野さん、今日——倉庫で、人が死にましたよね」
河野は答えなかった。
「ECHOの人たちじゃなくて、向こう側の人が」
「……そうだ」
「それは——」夏目が少し言葉を選んでいた。「私たちの仕事のせいでもありますよね。情報を上げたから、ECHOが動いた」
河野は天井から視線を下ろして、夏目を見た。
夏目は窓の外を向いたままだった。
「そうだ」と河野は言った。「でも、俺たちが情報を上げなければ、柊さんたちが拉致されていた」
「わかってます」
「わかっているなら——」
「わかっていても、思うことはありますよね」
河野は何も言わなかった。
夏目が振り返った。
「すみません、変なこと言いました」
「変じゃない」
河野は立ち上がって、コーヒーメーカーの前に行った。今日の三杯目だ。胃に悪いのは分かっているが、今夜はそういう夜だ。
コーヒーを注ぎながら言った。
「この仕事で、何も思わない人間にはなりたくない」
夏目は何も言わなかった。
河野はコーヒーを持って、自分のデスクに戻った。モニターには、通知が一つも来ていなかった。
来るはずがない。今夜は来ない。
それでいい。
午後十時過ぎ。
夏目が帰り支度を始めた。
「河野さん、今日はもう上がらないんですか」
「もう少しいる」
「……明日も早いですよ」
「わかってる」
夏目はコートを着た。ドアを開けてから、振り返った。
「河野さん」
「何ですか」
「今日、お疲れ様でした」
河野は少し間を置いてから言った。
「夏目さんも」
ドアが閉まった。
部屋に一人になった。
河野はモニターを見た。通知はない。岸谷についてのニュースも、もちろんない。今夜は何も起きない。
でも——ファイルは届いた。あの男は読む。読んで、動く。
時間はかかる。でも正しい方向に動く。
それでいい。
河野は制酸剤をもう一錠飲んだ。今日だけで四錠だ。珍しく多い日だった。
窓の外に東京の夜が広がっていた。どこかで、柊凛が眠っているか眠れないでいる。柊華も、柊遼も。
三人は今日、何が起きていたか知らない。
知らないまま、明日が来る。
それが、この仕事の全てだ。
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次回、第十一話「DEBRIEF」――ヴィクターとロバート、報告。




