SILENT AEGIS ──TechVision特殊部隊、東京作戦記録── 第七話「THE NIGHT BEFORE」
六月。
深夜二時十七分。
足立区の、廃ビル屋上。
鮎川翔は、仰向けに寝ている。
防水シートを一枚、コンクリートの上に敷いて、その上に横になっている。背中にコンクリートの冷たさと硬さが伝わってくる。不快ではない。慣れている。
東京の夜空。
明るい。
光害で星が見えない。ビルの明かりと、遠くの高速道路の光と、どこかのネオンが夜空を染めている。地方の夜空とはまったく違う。
鮎川は空を見ている。
何も考えていない。
正確には——考えないようにしている。
明日のことを、今夜考えても意味がない。
鮎川翔、三十一歳。
元海上自衛隊特別警備隊《※1》。
※1【海上自衛隊特別警備隊(SBU)】Special Boarding Unitの略。2001年9月に設置された海上自衛隊最精鋭の特殊部隊。不審船への対処、海賊対処、要人警護などを任務とする。訓練の厳しさは国内最高水準とされ、年間の訓練時間は通常部隊の数倍に達する。
SBUに入ったのは二十三歳のとき。
海自に入隊して三年、狙撃の適性評価で部隊内最高スコアを叩き出して、引き抜かれた。
選抜訓練は七ヶ月。途中で脱落する人間を何人も見た。鮎川は脱落しなかった。特に理由はない。脱落する理由がなかっただけ。
SBUで六年。
任務はいくつかある。詳細は言えない。言える範囲で言えば——一度だけ、引き金を引いたことがある。
標的は倒れた。
鮎川は報告書を書いて、翌日には次の訓練に出た。
以上。
TechVisionのオファーが来たとき、迷いはなかった。
自衛隊は組織だ。組織の論理がある。鮎川はその論理に不満があったわけではない。ただ——もっと少ない人数で、もっと直接的に動ける場所がある、ということを知った。
その一点で、移った。
屋上に来たのは、昨夜だ。
エリックとマルクスが現地確認に入った翌夜、鮎川は一人でこの廃ビルに来た。
ヴィクターの指示は「確認だけ。長居するな」だったが、鮎川はその夜から屋上に留まっている。
ヴィクターには報告していない。報告する必要がないと判断したから。
屋上への非常階段、鍵はかかっていなかった。
エリックの事前情報通り。
屋上に出ると、倉庫が見えた。
二百七十九メートル先。
東京の夜の中に、低く沈むように建っている。
鮎川はその夜、ライフルを持ち込まなかった。
機材は明日の作戦前に搬入する。今夜は目だけを使う。
風を読んだ。
体感と、持参した小型の風見計《※2》と、スマートフォンの気象データを照合した。
※2【風見計】風向と風速を計測する機器。狙撃手は弾道に影響する風の状態を精密に把握するため、現地での実測を欠かさない。気象アプリのデータは広域の平均値であり、建物間の気流の乱れまでは反映されない。
北北西、二・三メートル。
建物の影響で、屋上の端と中央で若干の差がある。端の方が強い。ポジションは中央寄りに取る。
倉庫の正面シャッターまでの距離を、レーザー距離計《※3》で測った。
※3【レーザー距離計】レーザー光を対象物に当てて反射時間から距離を算出する機器。現代の狙撃手が標準的に携帯する。暗所での使用も可能なものが多い。
二百七十九メートル。
事前情報は二百八十メートル。一メートルの誤差。許容範囲。
鮎川は数字を手帳に書いた。
手書き。デジタルには残さない。
翌朝、ヴィクターに報告した。
「昨夜から屋上にいます」
少しの間があった。
「……報告が遅い」
「すみません」
「次からは事前に連絡を」
「わかりました」
ヴィクターはそれ以上何も言わなかった。叱責でも称賛でもない。次からはそうするように、という確認。
鮎川はそれを、信頼として受け取った。
そして今夜、また屋上にいる。
仰向けで、空を見ている。
Xデー前夜。
明日の作戦を頭の中で一度通した。
通したら、終わりにした。
繰り返し考えても、考えすぎても、精度は上がらない。
準備は済んでいる。あとは実行するだけ。
鮎川の仕事は、ある意味でシンプルだ。
決めた場所に、決めた時間にいる。
風を読む。距離を測る。呼吸を整える。
引き金を引くか引かないかを、状況が決める。
「撃つことを決めるのは自分じゃない。状況が決める。自分がするのは、その状況に備えることだけだ」
SBU時代に先輩の狙撃手から言われた言葉。
当時は意味が半分しかわからなかった。
今はわかる。
引き金を「引きたい」という感情で撃つ人間は、狙撃手には向かない。
「撃たなければならない」という義務感で撃つ人間も、長くは続かない。
「状況がそれを求めている」という静かな認識で動ける人間だけが、この仕事を続けられる。
鮎川はその種類の人間だと思っている。
自分でそう断言するわけではない。ただ、続いている。
ライフルは傍らにある。
AI AXMC《※4》。.308 Win仕様。
※4【AI AXMC(Accuracy International AXMC)】英国Accuracy International社製のボルトアクション狙撃ライフル。AXMCはAdvanced eXact Multi Calibreの略で、バレルの交換により.308 Winと.338 Lapua Magnumの二つの口径に対応できる。各国の特殊部隊・狙撃チームに広く採用されている。
スコープはSchmidt & Bender《※5》のPMII、5-25倍。
※5【Schmidt & Bender PMII 5-25×56】ドイツの光学機器メーカーの製品。軍用スコープとして世界最高水準のひとつとされる。倍率5倍から25倍まで可変。56mmの対物レンズは暗所での光量確保に優れる。
これらの機材を、鮎川は今日の午後に屋上に搬入した。
ソフトケースに収めたままで、まだ組み立てていない。
明日の夜明け前に組み立てる。
機材の確認はすでに終わっている。
スコープのゼロイン《※6》は昨日の段階で確認した。狂いはない。
※6【ゼロイン(Zeroing)】狙撃ライフルのスコープの照準を実際の弾着点に合わせる調整作業。使用弾薬、気温、高度によって弾道は変化するため、使用前に現地での確認が必要とされる。
あとは、使う日まで待つだけだ。
鮎川はTechVisionに移ってから、一つだけ確認したことがある。
「射撃権限はどこが持ちますか」
民間部隊では、交戦規則《※7》の扱いが組織によって異なる。自衛隊では厳密な規則の下で動いていたが、民間に来てからは別の基準で考える必要があった。
※7【交戦規則(ROE:Rules of Engagement)】いつ、どのような状況で、武力の行使が許可されるかを定めたルール。軍や特殊部隊が従う法的・倫理的な基準。
ヴィクターはすぐに答えた。
「俺が持つ。でも、あなたが撃てると判断した瞬間、俺の指示を待たずに撃っていい。あなたを、そこまで信頼している」
鮎川は少し間を置いてから言った。
「わかりました」
他に言葉がなかった。
信頼というのは、言葉で表現するより、任せることで示す方が重い——そういうことを、鮎川はSBU時代に学んでいる。ヴィクターも、同じ種類の人間だ。
だから、この答えで十分だった。
深夜三時を過ぎた。
倉庫の方向を見る。
建物は暗い。灯りが一つ、二階の窓にある。誰かが起きている。
鮎川は目を閉じた。
明日、何かを撃つかもしれない。
撃たないかもしれない。
今夜の段階では、わからない。
わからないことは、わからないままにしておく。
眠ることにした。
コンクリートの屋上に横になったまま、目を閉じる。
眠れるかどうかはわからない。
ただ、目を閉じて、呼吸を整えて、体を休める。
それが明日のための準備。
東京の夜空は明るい。
目を閉じても、まぶたの裏が少し橙色だ。
風が変わった。
北北西から、真北に近くなった。
目を閉じたまま、感じる。
風速は落ちている。一・五メートル前後。
手帳に書こうと思ったが、やめた。
夜明け前にまた測る。そのときに書けばいい。
眠気が来た。
鮎川は静かに、それに従った。
夜明け前、午前四時四十三分。
鮎川は目を覚ました。
アラームはかけていない。体が覚えている時間に起きる習慣は、SBU時代から変わらない。
起き上がって、膝を立てて座った。
空が少し白んでいる。
東の方向、ビルの隙間から夜明けの光。
風見計を取り出した。
測定した。
真北、一・八メートル。
手帳に書いた。
日時。風向。風速。気温。湿度。
弾道計算を頭の中でやった。
距離:二百七十九メートル。
弾薬:.308 Win、ホーナディー《※8》ELD Match 168gr。
初速:約八百四十メートル毎秒。
気温:十九度。湿度:六十二パーセント。
風:真北一・八メートル毎秒。
※8【ホーナディー(Hornady)ELD Match】アメリカのHornady Manufacturing社が製造する競技用・狙撃用弾薬。ELDはExtremely Low Drag(極低抗力)の略で、長距離での弾道安定性に優れる。168グレインは.308 Win弾の標準的な重量。
二百七十九メートルでの弾道降下量:約九センチ。
真北一・八メートルの横風による偏流:約一・二センチ(右方向)。
スコープの修正値を計算した。
手帳に書いた。
これだけあれば、あとは引き金を引くだけ。
ケースからライフルを取り出した。
組み立ては三分かからない。手が覚えている。バレルを取り付け、スコープを載せ、マガジンを確認する。空だ。弾は作戦直前に装填する。
スコープを覗いた。
倉庫の正面シャッターが、視界の中央に入った。
25倍。鮮明。
シャッターは閉まっている。
二階の窓、まだ灯りがついている。昨夜から消えていない。
鮎川はスコープを一度外した。
組み立てたライフルをケースに戻した。
まだ使わない。
ただ、確認した。
問題がないことを確認した。
今朝の仕事はそれだけ。
日が昇り始めた。
東京の空が、灰色から橙色に変わっていく。
どこかで、鳥が鳴いた。
工業地帯に鳥がいることを、鮎川は少し意外に思った。
スマートフォンにメッセージが届いた。
ヴィクターからだ。
「全員、六時に集合。最終確認。鮎川さん、間に合いますか」
鮎川は返信した。
「間に合います」
立ち上がった。
シートを折りたたんだ。ケースを持った。
屋上から最後に倉庫を見た。
二百七十九メートル。
正面シャッター。
北からの風。
全部、頭に入っている。
非常階段を下りた。
工業地帯の朝が始まっている。
次回、第八話「INTERCEPT」――河野とサラ、動く瞬間を捉える。




