第31話「おう」
桜井詩織の朝は、思ったより普通だった。
断った翌日というのは、もっと気まずいものかと思っていた。高瀬悠斗は出社すると「おはようございます」と普通に言ってきた。詩織も「おはようございます」と返した。
午前中、高瀬が「この原稿の修正箇所、確認してもらえますか」と声をかけてきた。詩織が「はい」と答えた。仕事の話。普通の会話。昼休みも、午後も、退勤前も、ずっとそうだった。
(いい人だな)
外でサンドイッチを食べながら思った。断った相手がこれだけ自然に接してくれるのは、高瀬が誠実だからだ。それが分かっているから、余計に、今日の普通さがありがたかった。
帰り道、一人で歩いていた。
五月の夕方。空が少し赤くなっていて、街の色が少しだけ変わる時間帯。人がたくさん歩いている。詩織も歩いている。別にどこへ急ぐわけでもないのに、足は勝手に動く。
昨日、「たぶん」と言った。
高瀬に「好きな人がいるんですか」と聞かれて、「たぶん」と答えた。
でも「たぶん」じゃない。詩織の中では最初から、ずっと前からそこにある。「たぶん」と言ったのは逃げとか嘘とかじゃなくて——外に出す前に、もう少しだけ自分の中に置いておきたかっただけだ。今でもそれは変わっていない。
スマホを取り出して、開いて、しまった。
送ることがない。送れることがない。高瀬を断った理由を遼に報告する気にもなれないし、「実は好きでした」なんて送れるはずもないし、かといって「普通のLINE」を送る気持ちの余裕も今日はない。
足が止まった。
横断歩道の前。信号が赤。
向こうに見えるマンションの群れ。どれかの棟に、遼がいる。どの窓かは昼間は分からないが、夜になれば分かる。夜になれば灯りがつく。
ついてる、いる、大丈夫。
その確認を、詩織はいつの間にかずっと続けていた。高校のころからずっと続けていた。
信号が青になった。
詩織は歩き始めた。
名前をつけるとするなら、とっくについている。
言葉にしなくても、場所は分かっている。変わらずそこにある。
今日の夕暮れは、悪くない気がした。
同じ日の午後、柊家。
アリア・マクナマラが今日もリビングにいた。
テーブルを挟んで、遼の向かいに座っている。今日の話題は制御系の誤差補正で、アリアが「この計算の意味がどうしても分からない」と言って持ってきた技術書が三冊、開いたまま並んでいる。
遼が説明する。アリアが聞く。「もっと」と言う。遼がもう少し説明する。これが一時間以上続いていた。
*"Ryo."*
(遼)
*"What."*
(なに)
*"You just said 'ありがとうございます' on the phone earlier."*
(さっき電話で「ありがとうございます」って言ってたじゃない)
*"I said that."*
(言いました)
*"But you've never said that to me."*
(私には言ってくれない)
*"......Well, yes."*
(……そうですね)
*"Don't 'そうですね' me. That's not what I mean."*
(「そうですね」って言わないで。そういうことじゃなくて)
遼が少し首をかしげた。アリアが続ける。
*"Use casual speech with me. The polite form feels weird between us."*
(私に対しては丁寧語やめて。なんか変な感じがして)
*"......Why?"*
(……なんで?)
*"Because we talk every day! We're practically friends."*
(毎日話してるじゃない! ほぼ友達でしょ)
*"......Well."*
(……まあ)
*"'まあ' is not an answer."*
(「まあ」は答えじゃない)
*"......Fine."*
(……まあ、分かった)
*"Wait, you actually agreed!?"*
(ちょっと待って、本当に承諾したの!?)
*"It's not really agreeing."*
(承諾した、というより)
*"......If you put it that way."*
(そこまで言うなら)
*"That counts!!"*
(これでいい!!)
アリアが両手を上げた。遼はモニターに目を戻した。
十分後。
アリアが帰り際に玄関で靴を履いていた。
*"See you tomorrow."*
(また明日)
遼が「どうも」と言いかけて——
止まった。
「……おう」
アリアが振り返った。
顔が一瞬、輝いた。
*"You did it!"*
(やった!)
*"Just this once."*
(一回だけです)
*"Doesn't matter! Once is enough to start!"*
(関係ない! 最初の一回が大事なの!)
*"......Well."*
(……まあ)
*"Don't 'まあ' me!"*
(「まあ」って言わないで!)
ドアが閉まった。
遼はしばらく玄関を見ていた。
「……」
よく分からない、という顔のまま、作業台に戻った。
夕方、凛が帰ってきた。
ソファに倒れ込みながら「今日も来てたの」と言った。
「来た」
「毎日だね」
「まあ」
「まあって何よ」
華が台所から「アリアさんって背高くて可愛いよね」と言った。凛が「それはそう」と答えた。
「遼」と凛が言った。
*"What."*
(なに)
「アリアさんのこと、どう思ってんの。正直に」
「技術の話ができる」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど、主にそれ」
「……それ以外は?」
「まあ……楽しい。話が続く」
凛がしばらく遼を見た。遼はモニターに向かっている。
「あの子、本気っぽいよ。気づいてる?」
「……何が」
「何が、ってそういうことだよ」
遼が少し止まった。
「……ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる。でも、判断できない」
「なんで」
「判断する情報が揃っていない」
凛がため息をついた。
「情報が揃ったとき、どうするつもり?」
「そのとき考える」
「今から考えておきなさい」
「……まあ」
「まあって言うな!!」
華がリビングから「お姉ちゃん遼に言っても無駄だよ」と言った。
「あなたは黙ってなさい」
「なんで私が」
遼はモニターに戻った。
凛と華がまだ言い合っている。いつもの夜。
遼はコードを開いて、プログラムの続きに向かった。
深夜。
遼の部屋に灯りがついていた。
コーヒーが二杯分、冷めた状態でデスクの端にある。キーボードの音が続いている。
今日の作業は調子がよかった。バランス補正のアルゴリズムで詰まっていた部分に、今夜ようやく手がかりが見えた。まだ完成ではないが、山の形が分かった感じ。どこに向かって登ればいいか、見えてきた。
ログを走らせる。数値が流れる。
……いける。
遼はもう一度コードを見た。修正を一箇所入れて、また走らせる。数値。
「……まあ」
小さく言った。
今日はここまで。完成ではないが、今日分の仕事は終わった。
スマホを手に取った。
詩織のトーク画面。最後は三日前の「おやすみ」「おう」。
……送ろうとして、やめた。
何を送るか分からない。「プログラムが進んだ」と送っても「そうか」「よかった」で終わる。悪いわけじゃないが、何かが違う気がして。
何が違うのかも分からないので、スマホを置いた。
コーヒーを飲んだ。冷めていた。
もう一度モニターを見た。
明日も続ける。それで十分だ。
一方、アメリカ。
ロバート・チェンはオフィスの自席で日報を書きながら、今日の東京オフィスのログを確認していた。
遼関連の進捗レポート。「順調」と一言だけ書いてある。「順調」の一言を書いたのはロバート自身だが、改めて見ると何も分からないな、と思った。
デイビッドに短いメッセージを送った。
*"Today was also uneventful. Aria visited Hiiragi again."*
(今日も特に何もありませんでした。アリアさんが今日も柊を訪問しました)
返信は三十秒で来た。
*"I know."*
(知ってる)
*"You know?"*
(知ってたんですか)
*"Aria texted me."*
(アリアから連絡が来た)
*"What did she say?"*
(なんて)
*"'He said おう to me today.'"*
(「今日、遼が「おう」って言ってくれた」)
ロバートは画面を見た。
*"……What does that mean?"*
(……それはどういう意味ですか)
*"Casual speech, apparently."*
(タメ口、らしい)
*"That is… a development?"*
(それは……進展なんですかね)
*"According to Aria, yes."*
(アリアによると、そうらしい)
*"I see."*
(そうですか)
ロバートはしばらく考えた。
*"Sir."*
(サー)
*"What."*
(なんだ)
*"Are you not… a little worried about this situation?"*
(この状況、少し心配ではないですか?)
*"About what."*
(何が)
*"Aria is clearly emotionally invested. And Hiiragi doesn't seem to fully understand what's happening."*
(アリアさんが明らかに感情的に動いていて、柊はその状況を完全には把握していなさそうで)
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes?"*
(はい)
*"Aria is twenty years old."*
(アリアは二十歳だ)
*"……Yes."*
(……そうです)
*"She is allowed to like someone."*
(好きな人を作っていい)
*"That's true, but——"*
(それは正しいですが——)
*"And Hiiragi is not responsible for managing her feelings."*
(そして柊は、彼女の感情の管理に責任を負っていない)
ロバートは言葉に詰まった。
*"That is also true."*
(それも正しいですが)
*"So there's nothing to worry about."*
(だから心配することは何もない)
*"But what if Aria gets hurt——"*
(でもアリアさんが傷ついたら——)
*"Then she gets hurt."*
(傷つくなら傷つく)
*"Sir."*
(サー)
*"It's her life, Robert. Not mine. Not yours."*
(彼女の人生だ。私のものでも、あなたのものでもない)
ロバートはしばらく画面を見た。
*"……You're unusually philosophical tonight."*
(今夜はいつになく哲学的ですね)
*"I always am."*
(いつもそうだ)
*"……Yes, sir."*
(……そうですね)
デイビッドからの返信はなかった。
ロバートはスマートフォンを置いて、日報の続きに向かった。
「今日も特に何もありませんでした」という一文を、「今日も順調に進行中です」に書き直した。
意味はほぼ同じだが、少し前向きに聞こえる。
それでいい気がした。
翌朝、柊家。
凛と華が朝食を食べていた。遼がソファに倒れていた。
「また徹夜か」と凛が言った。
「まあ」
「できた?」
「山が見えた」
「山が見えた、ってどういうこと」
「道が分かった」
「……完成はまだ」
「まだ」
凛がお茶を飲んだ。
華が「頑張って!」と言って遼の肩を叩いた。遼が「痛い」と言った。
「起きてから痛いって言って」
「起きてる」
「目が閉じてた」
「考えてた」
「寝てた」
「考えてた」
凛が「どっちでもいい。朝ごはん食べなさい」と言った。
遼がゆっくり起き上がった。
いつもの朝。
遼はご飯をよそって、座って、黙って食べ始めた。
窓の外に、五月の空。




