表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

125/161

第29話「高瀬の告白」

 高瀬(たかせ)悠斗(ゆうと)は、迷わない人間だ。


 それが長所でもあり、たまに短所にもなる。


 作家さんの原稿が三週間遅れても「待ちます」と一言で済ませる。部署内で誰かが詰まっていたら「俺やりましょうか」と声をかける。感情を乗せすぎず、でも冷たくもない。人と話すときの温度の調節が、自然にできる人間だ。


 そういう人間だから、「この人と気が合う」と思ったら、迷わず伝える。


 桜井(さくらい)詩織(しおり)のことが好きだ、と自覚したのは、映画の帰り道だった。


 映画館を出て、五月の夕方の空を二人で見た。詩織が「夕暮れって、本のラストページみたいですね」と言った。たとえ話が作り込まれていない人間の言葉で、それが面白かった。面白い、と思ったその瞬間に、高瀬の中で何かが確定した。


 そういう人間だ、高瀬は。


   


 告白の機会を作ることに、二週間かけた。


 二週間、というのは迷っていたわけではなく、詩織が忙しそうだったことと、タイミングを選んでいたことが重なった結果だ。夕方の退勤後がいい。二人きりになれる場所がいい。詩織が驚かなくていい状況がいい。


 ある火曜日の夕方。


 部署のほとんどが帰り始めた頃、高瀬はデスクの詩織に近づいた。


「桜井さん、少しいいですか」


「はい」


「帰り道、一緒に歩いてもいいですか」


「……はい」


 詩織の返事が、少し間があった。気づいていたかもしれない。それでも断らなかった。


 二人で会社を出て、夕方の道を歩いた。


 高瀬は「先日の映画、面白かったですよね」と話した。詩織が「登場人物の選択が丁寧で」と答えた。そういう話をしながら、二人の歩幅が自然に揃う。


 横断歩道で信号が赤になった。


 止まる。


 高瀬が正面を向いたまま、言った。


「桜井さんのことが好きです」


 詩織は動かなかった。


 信号が青になる。


 詩織がまた歩き始めた。高瀬も隣を歩いた。


「少し考えさせてください」


 詩織の声は、落ち着いていた。乱れていない。でも高瀬には、その落ち着き方が「答えを決めながら時間を置こうとしている」種類のものに聞こえた。


「もちろん」


「ありがとうございます」


「急ぎじゃないので」


「……ありがとうございます」


 二度目の「ありがとうございます」。


 高瀬は、それ以上は言わなかった。


 二人は少しの間、黙って歩いた。別れ際に「おつかれさまでした」と詩織が言って、「また明日」と高瀬が返した。


 それで、今日の話は終わった。


   


 詩織は一人で歩いていた。


 夕方の東京、人が多い。でも詩織の頭の中は静かだった。


 静かで、澄んでいる。こういう感覚を、詩織は知っている。何かが決まったとき、感情より先に静けさが来る。感情はあとからついてくる。


 高瀬さんが好きだと言った。


 誠実な人だ。声のトーンが揺れていなかった。迷った跡がなかった。「桜井さんのことが好きです」の一文に、余分なものが一切入っていなかった。


 断る、と詩織は思った。


 すでに思っていた。「少し考えさせてください」と言いながら、その瞬間にもう分かっていた。


 でも、なぜ断るのか。


 高瀬が悪い人間だから、ではない。嫌いだから、でもない。感情がないから、でもない。一緒にいると楽で、話しやすくて、悪い感じが一ミリもない。


 でも、という言葉が、また出てくる。


   


 スマホを取り出した。


 遼のトーク画面を開いた。


 開いて、すぐ閉じた。


 (何を送ろうとしてたんだろ)


 自分でも分からない。「告白された」と送ったら何と返ってくるか。「よかったな」か。「そうか」か。


 どちらでもない答えが欲しかった。でもどちらでもない答えを遼に期待するのは、遼という人間の使い方が間違っている気がした。


 スマホをしまう。


 駅のホームで電車を待った。


 人が流れていく。乗客が増えて、電車が来て、ホームが動く。


 詩織は窓際の席に座って、外を見た。


 暗くなりかけた空。夕暮れと夜の境目。


 高瀬悠斗は正しい人間だ。正しくて、優しくて、誠実で、詩織の「今」を見てくれる人間だ。


 でも、詩織の「今」だけ見てくれる人間が、欲しいわけじゃない。


 詩織には、「ずっと前から知っている」人間が、もういる。


 ——(あ)


 詩織は窓の外を見たまま、少し止まった。


 そういうことだ、と思った。思った瞬間に、何かが、静かにはっきりと、輪郭を持った。


 名前を呼ぶような感覚で、確認した。


 遼のことが好きだ。


 「たぶん」じゃない。「かもしれない」じゃない。


 高校二年の夏に「恋だ」と思った、あのときから、ずっとそこにある。なくなったことはない。薄まったことも、別の何かに変わったこともない。変わらないまま、ただそこにある。


 それを今夜、高瀬の告白をきっかけに、改めて確認した。確認した、というより——確認するまでもなかったと気づいた。


 分かっていた。ずっと分かっていた。


 電車が揺れる。


 詩織は目を閉じた。


   


 夜。


 部屋に帰って、照明をつけて、鞄を置いて、コートを脱いだ。


 その一連の動作をしながら、頭の中が不思議なほど落ち着いていた。


 泣いてもいいのかもしれない、とふと思った。でも泣けなかった。泣くような感情の種類じゃない。どちらかと言えば、ずっと探していたものがちゃんとそこにあったと分かったときの、「ああ、あった」という感覚に近い。


 机の前に座って、スマホを見た。


 遼のトーク画面。


 最後のやり取りは昨日の夜、「おやすみ」「おう」という、いつもの形。


 スマホを持ったまま、窓の外を見た。


 夜の東京。マンションの灯りが並んでいる。遼のいる棟。遼のいる階。窓を見れば、灯りがついているかどうか分かる。


 ついている。


 いる。今夜も、あそこにいる。


 詩織はスマホを机に置いた。


 何も送らない。今夜は。


 送れない、ではなく、送らない。


 高瀬に「少し考えさせてください」と言った。それが先にある。


 誠実な人間への誠実さとして、先にきちんと答えを出す。それから、次のことを考える。


 今夜の詩織には、そういう順番が必要だった。


   


 窓の外を、もう少し見ていた。


 東京の夜は明るい。どの窓にも誰かがいる。誰かが眠って、誰かが起きている。遼も今夜、あの窓の向こうで作業していると思う。プログラムか、部品か、何かを直しているか。


 「直せるなら直すだけ」という声が、耳の奥にある。


 壊れても終わりにしない人。そばにいることが当たり前になりすぎて、どれほど当たり前かを最近まで測ろうともしなかった人。


 測ろうとしなかった理由を、詩織は知っている。


 測ったら確定するから。


 確定したら、怖くなるから。


 確定してしまったから、今夜は少し怖い。


 でも同時に、怖くて当然だと思う。ずっと前からそこにあったものに、今夜初めてちゃんと向き合った。怖くない方がおかしい。


   


 一時間ほど、部屋の灯りをつけたまま窓を見ていた。


 やがて机に戻って、文芸部の仕事で持ち帰った原稿を開いた。


 読み始める。


 文字が目に入ってきた。内容が頭に入ってきた。今夜の詩織は、驚くほど冷静だった。


 高瀬への答えは、出ている。


 遼への気持ちは、確認した。


 どちらも、逃げない。きちんと対処する。


 詩織はそういう人間だ。感情を静かに持って、静かに処理する。表に出さない。でも内側では、ちゃんと全部受け取る。


 原稿を読みながら、ふと思う。


 高瀬に「好きな人がいるんですか」と聞かれたら、なんと答えるか。


 「……たぶん」と言うだろう。


 「たぶん」の意味は、もう分かっている。「たぶん」じゃなくて「確かに」だ。でも「確かに」と言うのは、まだ早い。


 確かにある、という自覚を、まずは自分の中に落ち着かせる時間が必要だ。


 誰にも言わない。遼にも言わない。何も変えない。


 ただ、知った。


 当たり前のことが一番、確かなのかもしれない——


 詩織は少し笑った。ずっとそこにあったのに、当たり前のことになっていた。


 当たり前のことが一番、確かなのかもしれない。


 原稿に戻った。


   


 同じ夜、(ひいらぎ)家のリビング。


 (りょう)はモニターの前にいた。


 プログラムのデバッグ。エラーが一箇所残っている。どこだ、とコードを上から追っている。


 集中している。部屋は静かだ。(りん)(はな)は、それぞれの部屋に戻っている。


 コードを追いながら、ふと手が止まった。


 特に理由はない。


 スマホを手に取った。


 詩織のトーク画面を開いた。


 昨日の「おやすみ」「おう」で終わっている。


 ……何か送ろうとしていた気がする。気がしていたが、何を送ろうとしていたか分からない。


 別に何もない。


 ただ、ふと開いた。


 遼はスマホをテーブルに置いて、コードに戻った。


 エラーを探す。見つかる。直す。


 また走らせる。


 今度は通った。


「……よし」


 小さく言って、コーヒーを飲んだ。


 冷めていた。


 スマホはそのままテーブルに置いてある。


 詩織に何かを送ることなく、遼は次のブロックに移った。


   


 翌朝。


 詩織は職場に着いた。


 高瀬が「おはようございます」と言った。普通の顔だった。


 詩織も「おはようございます」と返した。


 何も変わっていない。


 昼休みに、高瀬が詩織のデスクに来た。


「桜井さん、急かすわけじゃないんですが」


「あ、はい」


「返事、いつでも大丈夫なので。本当に」


「……ありがとうございます」


「仕事に影響させたくなくて」


「大丈夫です」


 高瀬が自分の席に戻った。


 詩織は手元の書類を見た。


 今日の午後に返事しよう、と思った。


 午後、昼の休憩が明けて、少し落ち着いた頃。


 詩織が高瀬のデスクに近づいた。


「少しいいですか」


「どうぞ」


「昨日のことなんですが」


「はい」


「ごめんなさい。気持ちに応えられないです」


 高瀬はしばらく黙った。


 でも、驚いた顔ではなかった。


「……そうですか」


「はい」


「好きな人がいるんですか」


 詩織は少し間を置いた。


「……たぶん」


「たぶん、か」


 高瀬が小さく笑った。笑い方が、穏やかだった。


「なんとなく、分かってました」


「え」


「詩織さん、誰かのことを考えているときの顔してたので」


「……そんなに出てましたか」


「出てなかったですよ。でも、なんとなく」


 詩織はどう返せばいいか少し迷った。


「すみません」


「謝らなくていいです」


「でも」


「本当に。ちゃんと伝えてくれてよかった」


 高瀬が「仕事、頑張りましょう」と言って、また自分の作業に戻った。


 詩織は自分のデスクに戻った。


 後味が悪くない。高瀬という人間は、ここでも誠実だった。


   


 帰り道。


 詩織はひとりで夕方の道を歩いた。


 昨日と同じ道。でも昨日と空気が違う。昨日は何かを抱えながら歩いていた。今日は、少し軽い。


 「たぶん」と言った。


 高瀬に「たぶん」と言った。


 でも詩織の中では「たぶん」じゃない。確かにある。昨夜に確認した。


 「たぶん」と言ったのは、まだ自分の外に出す準備ができていないからで、それは嘘でも逃げでもなく、ただの順序だ。


 スマホを出した。


 遼のトーク画面。


 何かを送ろうとして——また、止まった。


 何を送る。「今日会社で告白された」?「断った」?「断ったのはあなたのことが好きだから」?


 全部送れない。全部今ではない。


 詩織はスマホをしまった。


 言える日が、いつかくるかもしれない。来ないかもしれない。


 でも今夜は、ただそこにいてくれればいい。


 灯りが、ついていればいい。


 変わらずそこにいてくれれば、今の詩織にはそれで十分だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ