第29話「高瀬の告白」
高瀬悠斗は、迷わない人間だ。
それが長所でもあり、たまに短所にもなる。
作家さんの原稿が三週間遅れても「待ちます」と一言で済ませる。部署内で誰かが詰まっていたら「俺やりましょうか」と声をかける。感情を乗せすぎず、でも冷たくもない。人と話すときの温度の調節が、自然にできる人間だ。
そういう人間だから、「この人と気が合う」と思ったら、迷わず伝える。
桜井詩織のことが好きだ、と自覚したのは、映画の帰り道だった。
映画館を出て、五月の夕方の空を二人で見た。詩織が「夕暮れって、本のラストページみたいですね」と言った。たとえ話が作り込まれていない人間の言葉で、それが面白かった。面白い、と思ったその瞬間に、高瀬の中で何かが確定した。
そういう人間だ、高瀬は。
告白の機会を作ることに、二週間かけた。
二週間、というのは迷っていたわけではなく、詩織が忙しそうだったことと、タイミングを選んでいたことが重なった結果だ。夕方の退勤後がいい。二人きりになれる場所がいい。詩織が驚かなくていい状況がいい。
ある火曜日の夕方。
部署のほとんどが帰り始めた頃、高瀬はデスクの詩織に近づいた。
「桜井さん、少しいいですか」
「はい」
「帰り道、一緒に歩いてもいいですか」
「……はい」
詩織の返事が、少し間があった。気づいていたかもしれない。それでも断らなかった。
二人で会社を出て、夕方の道を歩いた。
高瀬は「先日の映画、面白かったですよね」と話した。詩織が「登場人物の選択が丁寧で」と答えた。そういう話をしながら、二人の歩幅が自然に揃う。
横断歩道で信号が赤になった。
止まる。
高瀬が正面を向いたまま、言った。
「桜井さんのことが好きです」
詩織は動かなかった。
信号が青になる。
詩織がまた歩き始めた。高瀬も隣を歩いた。
「少し考えさせてください」
詩織の声は、落ち着いていた。乱れていない。でも高瀬には、その落ち着き方が「答えを決めながら時間を置こうとしている」種類のものに聞こえた。
「もちろん」
「ありがとうございます」
「急ぎじゃないので」
「……ありがとうございます」
二度目の「ありがとうございます」。
高瀬は、それ以上は言わなかった。
二人は少しの間、黙って歩いた。別れ際に「おつかれさまでした」と詩織が言って、「また明日」と高瀬が返した。
それで、今日の話は終わった。
詩織は一人で歩いていた。
夕方の東京、人が多い。でも詩織の頭の中は静かだった。
静かで、澄んでいる。こういう感覚を、詩織は知っている。何かが決まったとき、感情より先に静けさが来る。感情はあとからついてくる。
高瀬さんが好きだと言った。
誠実な人だ。声のトーンが揺れていなかった。迷った跡がなかった。「桜井さんのことが好きです」の一文に、余分なものが一切入っていなかった。
断る、と詩織は思った。
すでに思っていた。「少し考えさせてください」と言いながら、その瞬間にもう分かっていた。
でも、なぜ断るのか。
高瀬が悪い人間だから、ではない。嫌いだから、でもない。感情がないから、でもない。一緒にいると楽で、話しやすくて、悪い感じが一ミリもない。
でも、という言葉が、また出てくる。
スマホを取り出した。
遼のトーク画面を開いた。
開いて、すぐ閉じた。
(何を送ろうとしてたんだろ)
自分でも分からない。「告白された」と送ったら何と返ってくるか。「よかったな」か。「そうか」か。
どちらでもない答えが欲しかった。でもどちらでもない答えを遼に期待するのは、遼という人間の使い方が間違っている気がした。
スマホをしまう。
駅のホームで電車を待った。
人が流れていく。乗客が増えて、電車が来て、ホームが動く。
詩織は窓際の席に座って、外を見た。
暗くなりかけた空。夕暮れと夜の境目。
高瀬悠斗は正しい人間だ。正しくて、優しくて、誠実で、詩織の「今」を見てくれる人間だ。
でも、詩織の「今」だけ見てくれる人間が、欲しいわけじゃない。
詩織には、「ずっと前から知っている」人間が、もういる。
——(あ)
詩織は窓の外を見たまま、少し止まった。
そういうことだ、と思った。思った瞬間に、何かが、静かにはっきりと、輪郭を持った。
名前を呼ぶような感覚で、確認した。
遼のことが好きだ。
「たぶん」じゃない。「かもしれない」じゃない。
高校二年の夏に「恋だ」と思った、あのときから、ずっとそこにある。なくなったことはない。薄まったことも、別の何かに変わったこともない。変わらないまま、ただそこにある。
それを今夜、高瀬の告白をきっかけに、改めて確認した。確認した、というより——確認するまでもなかったと気づいた。
分かっていた。ずっと分かっていた。
電車が揺れる。
詩織は目を閉じた。
夜。
部屋に帰って、照明をつけて、鞄を置いて、コートを脱いだ。
その一連の動作をしながら、頭の中が不思議なほど落ち着いていた。
泣いてもいいのかもしれない、とふと思った。でも泣けなかった。泣くような感情の種類じゃない。どちらかと言えば、ずっと探していたものがちゃんとそこにあったと分かったときの、「ああ、あった」という感覚に近い。
机の前に座って、スマホを見た。
遼のトーク画面。
最後のやり取りは昨日の夜、「おやすみ」「おう」という、いつもの形。
スマホを持ったまま、窓の外を見た。
夜の東京。マンションの灯りが並んでいる。遼のいる棟。遼のいる階。窓を見れば、灯りがついているかどうか分かる。
ついている。
いる。今夜も、あそこにいる。
詩織はスマホを机に置いた。
何も送らない。今夜は。
送れない、ではなく、送らない。
高瀬に「少し考えさせてください」と言った。それが先にある。
誠実な人間への誠実さとして、先にきちんと答えを出す。それから、次のことを考える。
今夜の詩織には、そういう順番が必要だった。
窓の外を、もう少し見ていた。
東京の夜は明るい。どの窓にも誰かがいる。誰かが眠って、誰かが起きている。遼も今夜、あの窓の向こうで作業していると思う。プログラムか、部品か、何かを直しているか。
「直せるなら直すだけ」という声が、耳の奥にある。
壊れても終わりにしない人。そばにいることが当たり前になりすぎて、どれほど当たり前かを最近まで測ろうともしなかった人。
測ろうとしなかった理由を、詩織は知っている。
測ったら確定するから。
確定したら、怖くなるから。
確定してしまったから、今夜は少し怖い。
でも同時に、怖くて当然だと思う。ずっと前からそこにあったものに、今夜初めてちゃんと向き合った。怖くない方がおかしい。
一時間ほど、部屋の灯りをつけたまま窓を見ていた。
やがて机に戻って、文芸部の仕事で持ち帰った原稿を開いた。
読み始める。
文字が目に入ってきた。内容が頭に入ってきた。今夜の詩織は、驚くほど冷静だった。
高瀬への答えは、出ている。
遼への気持ちは、確認した。
どちらも、逃げない。きちんと対処する。
詩織はそういう人間だ。感情を静かに持って、静かに処理する。表に出さない。でも内側では、ちゃんと全部受け取る。
原稿を読みながら、ふと思う。
高瀬に「好きな人がいるんですか」と聞かれたら、なんと答えるか。
「……たぶん」と言うだろう。
「たぶん」の意味は、もう分かっている。「たぶん」じゃなくて「確かに」だ。でも「確かに」と言うのは、まだ早い。
確かにある、という自覚を、まずは自分の中に落ち着かせる時間が必要だ。
誰にも言わない。遼にも言わない。何も変えない。
ただ、知った。
当たり前のことが一番、確かなのかもしれない——
詩織は少し笑った。ずっとそこにあったのに、当たり前のことになっていた。
当たり前のことが一番、確かなのかもしれない。
原稿に戻った。
同じ夜、柊家のリビング。
遼はモニターの前にいた。
プログラムのデバッグ。エラーが一箇所残っている。どこだ、とコードを上から追っている。
集中している。部屋は静かだ。凛と華は、それぞれの部屋に戻っている。
コードを追いながら、ふと手が止まった。
特に理由はない。
スマホを手に取った。
詩織のトーク画面を開いた。
昨日の「おやすみ」「おう」で終わっている。
……何か送ろうとしていた気がする。気がしていたが、何を送ろうとしていたか分からない。
別に何もない。
ただ、ふと開いた。
遼はスマホをテーブルに置いて、コードに戻った。
エラーを探す。見つかる。直す。
また走らせる。
今度は通った。
「……よし」
小さく言って、コーヒーを飲んだ。
冷めていた。
スマホはそのままテーブルに置いてある。
詩織に何かを送ることなく、遼は次のブロックに移った。
翌朝。
詩織は職場に着いた。
高瀬が「おはようございます」と言った。普通の顔だった。
詩織も「おはようございます」と返した。
何も変わっていない。
昼休みに、高瀬が詩織のデスクに来た。
「桜井さん、急かすわけじゃないんですが」
「あ、はい」
「返事、いつでも大丈夫なので。本当に」
「……ありがとうございます」
「仕事に影響させたくなくて」
「大丈夫です」
高瀬が自分の席に戻った。
詩織は手元の書類を見た。
今日の午後に返事しよう、と思った。
午後、昼の休憩が明けて、少し落ち着いた頃。
詩織が高瀬のデスクに近づいた。
「少しいいですか」
「どうぞ」
「昨日のことなんですが」
「はい」
「ごめんなさい。気持ちに応えられないです」
高瀬はしばらく黙った。
でも、驚いた顔ではなかった。
「……そうですか」
「はい」
「好きな人がいるんですか」
詩織は少し間を置いた。
「……たぶん」
「たぶん、か」
高瀬が小さく笑った。笑い方が、穏やかだった。
「なんとなく、分かってました」
「え」
「詩織さん、誰かのことを考えているときの顔してたので」
「……そんなに出てましたか」
「出てなかったですよ。でも、なんとなく」
詩織はどう返せばいいか少し迷った。
「すみません」
「謝らなくていいです」
「でも」
「本当に。ちゃんと伝えてくれてよかった」
高瀬が「仕事、頑張りましょう」と言って、また自分の作業に戻った。
詩織は自分のデスクに戻った。
後味が悪くない。高瀬という人間は、ここでも誠実だった。
帰り道。
詩織はひとりで夕方の道を歩いた。
昨日と同じ道。でも昨日と空気が違う。昨日は何かを抱えながら歩いていた。今日は、少し軽い。
「たぶん」と言った。
高瀬に「たぶん」と言った。
でも詩織の中では「たぶん」じゃない。確かにある。昨夜に確認した。
「たぶん」と言ったのは、まだ自分の外に出す準備ができていないからで、それは嘘でも逃げでもなく、ただの順序だ。
スマホを出した。
遼のトーク画面。
何かを送ろうとして——また、止まった。
何を送る。「今日会社で告白された」?「断った」?「断ったのはあなたのことが好きだから」?
全部送れない。全部今ではない。
詩織はスマホをしまった。
言える日が、いつかくるかもしれない。来ないかもしれない。
でも今夜は、ただそこにいてくれればいい。
灯りが、ついていればいい。
変わらずそこにいてくれれば、今の詩織にはそれで十分だ。




