「柊遼、サーキットに行く」前編
発端は桜井詩織のひと言だった。
「サーキット、行ってみたくて」
土曜日の朝、柊家のリビング。遼がコーヒーを飲みながらノートパソコンを開いているところに詩織が来て、開口一番そう言う。
「サーキット」
「うん。凛ちゃんと華ちゃんがイベントで出るじゃない。近親者として招待されてるんでしょ、遼も。一緒に行こうよ」
「行かなくていいって言ってた」
「行こう」
「俺が行く必要ある?」
「一緒に行きたいから行こうよ」
詩織が「行こう」と言った。
これはもう決定事項だ、ということを、遼は経験上知っている。詩織が「行こう」と言ったとき、断れた試しがない。断れないというより、断る理由がそこまで強くない。
「……まあ」
「やった」
「でもレースは特に興味ない」
「私は興味あるから大丈夫」
それが遼の、今日この日への関わりの始まりだった。
当日。
サーキット場は思ったより大きい。
駐車場から入場ゲートまでの道、すでに人が多い。色とりどりのチームウェアを着た人間が歩いている。遠くからエンジンの試走音が聞こえてくる。
詩織がきょろきょろしながら歩いている。
「すごいね、人が多い」
「そうだな」
「遼、興味ない?」
「あんまり」
「エンジン音とか聞いたらどう?」
「……まあ」
遼は正直に言えば、エンジン音には少し興味があった。内燃機関のチューニングは電子制御と密接に絡む。でもそれを詩織に言うと「じゃあ興味あるじゃん」と言われて、断った理由が崩れる気がして、黙っていた。
スタッフに案内されて、近親者エリアに入る。仮設のスタンドと、テントとテーブルが並んでいる。飲み物と軽食が置いてある。
「いい席だね」と詩織が言った。
「まあ」と遼が言った。
凛と華のイベントが始まった。
ステージで二人がマイクを持って話している。レースの開幕を盛り上げるトークイベントで、司会者と掛け合いをしながら観客を沸かせている。
外の凛と華は、家の凛と華とまったく別の生き物だ。
遼はそれを客観的に認識しながら、どこか遠くに見えるような気がして、詩織の隣に立ったまま飲み物を飲んでいた。
「凛ちゃん、かっこいいな」と詩織が言った。
「家ではプリンで大騒ぎするけどな」
「それが好きだから言ってるんだよ」
詩織が笑った。遼も少し笑った。
ステージの華がちょうどこちらを見た瞬間、気づいてにっこりした。遼は小さく手を上げた。華がまたにっこりして、すぐ司会者の方に向き直る。
プロだ、と遼は思った。外にいるときの二人は、ちゃんとプロだ。
イベントの合間、遼は少し歩き回った。
特に目的はない。ただその場に立ち続けるのが少し苦手で、動いている方が楽だ。
近親者エリアの端が、ピットロードに面している。フェンス越しに、各チームのクルーが機材を確認しているのが見える。
遼は立ち止まった。
フェンスの向こう、あるチームのピットが目に入った。マシンのカラーリングに見覚えがある——というほど詳しくはないが、ピット周りの規模が他と違う。クルーの人数が多い。機材の量も多い。国内ではかなり大きいチームだろう、という気はした。
そのチームのクルーが何かと格闘している。小型のモニタリング機器——マシンのデータを受信するやつだ——の前で、二人が困った顔で画面を見ていた。
遼には何が問題か、五秒で見当がついた。
アンテナの角度が悪い。受信感度が落ちていて、データが途切れ途切れになっている。あと、コネクタが少し浮いている。あそこの接触が甘い。
気づいてしまった。
気づいてしまったので、少し迷う。
でも困っている人間を前にして、解決策が分かっているのに黙っているのは、なんとなく落ち着かない。
「あの、すみません」
フェンス越しに声をかけた。
クルーの一人が顔を上げた。怪訝な顔。当然だ、どこの誰とも分からない人間に声をかけられたのだ。
「そのモニタリング機器、アンテナの角度を十五度くらい変えて、コネクタを一回抜いて差し直すと受信が安定すると思います」
クルーが遼を見た。
「……誰ですか」
「通りすがりです」
「通りすがり」
「近親者エリアにいます。気になったので」
クルーが「は?」という顔をした。もう一人のクルーが寄ってくる。
「試してみましょうか?」と遼が言った。
「……まあ、困ってるし」とクルーの一人が言った。
フェンスのゲートが開いた。
遼は入った。
詩織が気づいたのは、三分後だった。
ふと横を見ると、遼がいない。
「……遼?」
いない。
さっきまでそこにいたのに。
詩織はスタンドを見回した。飲み物コーナーを見た。トイレの方向を見た。
いない。
まさか帰った? いや、それはないはずだが、遼に関しては「まさか」が「まさかじゃなかった」ことが何度かある。
スマホを取り出してLINEを送った。
「遼、どこ?」
既読がついた。
「ちょっとそこにいる」
「そこってどこ」
「フェンスの向こう」
「フェンスの向こう」
「ピットの方」
「なんでピットにいるの」
「機材が気になったので」
詩織はスマホを持ったまま少し止まった。
「気になったので、って何?」
「困ってたので教えたら中に入れてもらえた」
「勝手に入ったの?」
「誘われたので」
「誘われたの!?」
「コネクタの接触不良を直しました」
「直しちゃったの!?」
詩織がフェンスの方を見ると、遼がクルーに囲まれて何か話している。クルーが三人に増えていた。全員が遼の方を向いている。
遼が「普通だろ」という顔をしていた。
問題はここからだった。
コネクタを直した遼は、「ありがとうございます」と言われて帰ろうとした。
帰ろうとしたのだが、クルーの一人が「ちょっと待って」と言った。
「あなた、エンジニアですか」
「いや、学生です」
「何専攻」
「電子制御」
クルーたちが顔を見合わせた。
「うちのチームの計測システムが昨日からずっと不安定で。ECUのログが飛んで、データが欠損してて」
「ECU」と遼が繰り返した。
エンジン制御ユニット。
遼の中で何かが動いた。
「ちょっとだけ見てもいいですか」
「見てもらえるんですか?」
「見るだけです。直せるかは分からないですけど」
遼はこのとき「見るだけ」と言ったことを後から思い出して、「見るだけじゃなかったな」と思うことになる。でもその時点では、本当に見るだけのつもりだった。
「少し待って」
クルーが何かを話した。チームのエンジニアが来た。別のスタッフが来た。総勢五人になった。
「ピットまで来てもらえますか」
「……え」
「ここよりデータが全部ある」
「あの、俺は一応——」
「本当に助かります!! 実はうちのチーフエンジニアとデータエンジニアが昨日からインフルエンザで、今日は二人抜けてて……」
「インフルエンザ」
「よりによってレース当日に。だからもう、本当に助かります!!」
全員の顔に「頼む」と書いてあった。
遼は断るタイミングを完全に失った。
詩織が再びLINEを送ったのは、その五分後だった。
「遼、戻ってこられる?」
「少しだけ待って」
「少しって?」
「ECU見てる」
「ECU……それ何」
「エンジン制御ユニット」
「な ん で」
「データが飛んでて」
「それを遼が見てるの?」
「ちょっと気になったので」
「気になったので!?」
詩織は返信する手が止まった。
「遼、イベント中だよ。レース前だよ。なんで見知らぬチームのエンジン制御ユニット見てるの」
「困ってたので」
「困ってたらなんでもいいの!?」
「……まあ、直せるなら直すだろ」
詩織は頭を抱えた。
ピットの中は、外より静かだった。
静かというのは音が少ない、ということではない。エンジン音は聞こえる。チームのスタッフは動いている。でも遼の周りだけ、少し集中した静けさがある。
遼はモニターの前に座って、データを見ていた。
パソコンの前に座らされて、ECUのログデータが並んでいる。確かに欠損がある。一定の周期で飛んでいた。
「これ、センサーの問題じゃないな」と遼が言った。
「え」
「ログの欠損が周期的すぎる。センサー故障ならランダムに飛ぶ。これは制御側の問題だと思う」
「制御側?」
「ソフトウェアのタイマー割り込みが、どこかで衝突してる」
エンジニアが少し固まった。
「そんな、レースメーカーのECUがそんな基本的なバグ……」
「バグじゃなくて、設定の話だと思いますよ。誰かが最近、ログ取得の間隔を変えませんでしたか」
「……昨日、変えました」と別のエンジニアが言った。
「その値が、別のプロセスと衝突してる。元に戻すか、どちらかを少しずらせばいい」
しばらく沈黙。
「……本当ですか」とエンジニアが言った。
「試してみれば分かります」
「試します!!」
エンジニアが素早く設定を変えた。ログを走らせた。
データが欠損しなくなった。
全員が画面を見た。
「……直った」とエンジニアが言った。
「直りましたね」と遼が言った。
「直った!!」
ピットが少しだけ静かになって、それから一斉にざわめいた。
「すごい」「誰この人」「学生って言ってた」「電子制御の学生」「天才じゃないの」という声が、あちこちから来た。
遼は「普通に見れば分かりますよ」と言って立ち上がった。
「ありがとうございます!! では——」
「ちょっと待って!!」
また全力で言われた。
詩織がスタンドに戻ったのは、ちょうど凛と華のイベントが終わる頃だった。
隣に遼はいない。
スマホを確認すると、最後のLINEから三十分が経過している。
「とりこんでる」
「とりこんでるって何に」
返信がない。
詩織は天を仰いだ。




