SILENT AEGIS ──TechVision特殊部隊、東京作戦記録──第三話「THE OLD FOX」
六月。
午後九時十一分。
港区の、高層マンション二十三階。
エントランスにコンシェルジュがいる。廊下に防犯カメラが並んでいる。駐車場には外車が並んでいる。そういう建物だ。
二十三階の角部屋。表札はない。
笠置文雄、六十歳。
ソファに深く腰を沈めて、グラスを持っていた。
スコッチ。銘柄はマッカラン《※1》の十八年。ロックは入れない。常温で飲む。氷を入れると香りが逃げると思っている。三十年以上そうしてきた。
※1【マッカラン(The Macallan)】スコットランド・スペイサイド地方の蒸留所が生産するシングルモルトウイスキー。熟成年数が長いものほど希少で高価。十八年物は一本数万円から。
テーブルの上に、A4用紙が十数枚並んでいた。
フェルナンド・クルスが用意したレポートだ。
表題はない。日付だけある。
笠置はゆっくりとページをめくった。
急がない。急ぐ必要がない。
笠置文雄という人間について、少し書いておく。
二十代の頃は組の末端にいた。
三十代で頭角を現した。
四十代で組を実質的に仕切るようになった。
五十代で表の顔を作り、不動産業者として登記した。
現在は「笠置不動産コンサルティング」の代表取締役だ。
法人登記も、納税記録も、問題がない。事務所には従業員が三人いて、毎朝九時に出勤してくる。
その実態については、書かない方がいい。
業界では「老狐」と呼ばれている。
暴力を使わない、という意味ではない。必要なときには使う。ただし——暴力は最後の手段だという信念を持っている。情報の方が安くて確実で、後腐れがない。そういう思想の持ち主だ。
長く生き延びてきた理由の一つは、欲の出し方を知っていることだ。
欲を出しすぎる人間は消える。欲を出さない人間は浮かび上がれない。ちょうどいい量の欲を、ちょうどいいタイミングで出す——それが笠置の流儀だった。
今回の案件は、その流儀で言えばギリギリの線だと自覚していた。
レポートの三ページ目に、対象の情報があった。
柊凛。二十四歳。女優。
柊華。二十歳。女優。
二人の写真が貼り付けてある。
雑誌から切り抜いたものではなく、街頭で撮影したと思われる画像だ。クルスの部下が撮ったのだろう。
笠置はその写真をしばらく見た。
評価するような目ではない。分析する目だ。
柊凛。
TechVisionのグローバルアンバサダー候補として名前が出ている。情報源は業界の関係者の雑談——つまり確度は高くない。しかし、相撲観戦の件でCEOとの関係が実質的に公になった。業界の見立てでは、契約は時間の問題だという。
柊華。
姉とは別に、独立して事務所オーディションに合格した経歴を持つ。姉の七光りではない、ということだ。こちらはTechVisionとの直接の接点は今のところない。ただ姉と行動を共にすることが多い。
二人同時の確保。
笠置はグラスを口に運んだ。
スコッチが喉を流れる。
無理ではない。難しいが、無理ではない。
インターフォンが鳴った。
笠置は立ち上がらなかった。
「入れ」とだけ言った。
ドアが開いた。
フェルナンド・クルスが入ってきた。
クルス、四十四歳。フィリピン系マレーシア人。
背は高くない。170センチ程度。だが体が厚い。首が短く、肩幅が広い。脂肪ではなく筋肉の厚みだ。
顔に笑いの皺がある。人懐っこい顔に見える。それが仕事上で有利に働いてきたことを、本人はよく知っている。
元戦場カメラマンだ。
二十代から三十代にかけて、東南アジア・中東・アフリカの紛争地帯を渡り歩いた。カメラを持ちながら、別の仕事もしていた。武器の調達。物資の輸送。人員の移動。そういう「物流」に精通した人間だ。
カメラは十五年前に置いた。
「笠置さん、読みましたか」
クルスは流暢な日本語を話す。訛りはほとんどない。
「読んだ」
「どうですか」
「悪くない」
笠置はレポートをテーブルに伏せた。
「座れ」
クルスがソファの端に腰を下ろした。
「スコッチはいるか」
「いりません。仕事の前に飲みません」
「そうか」
笠置はもう一口飲んだ。
部屋に少しの間、沈黙があった。
高層階の静けさだ。外の音がほとんど届かない。遠くに東京湾の光が見える。
「実行日は木曜か」
「はい。木曜の夕方を考えています。柊凛が渋谷の撮影スタジオから移動するタイミングと、柊華が代官山の事務所から出るタイミングが、週に一度だけ重なる。木曜の十七時から十八時の間です」
「同時に動けるか」
「車両を二手に分けます。それぞれ四名ずつ。合計八名です」
「移動ルートは」
「凛の方は首都高の入口手前。華の方は代官山の路地。どちらも人通りが少なくなる場所があります」
笠置はグラスをテーブルに置いた。
「ハイエースか」
「改造済みです。後部の窓を塞いで、内装に防音材を入れています。外から見れば普通の業務用車両です」
「ナンバーは」
「盗難車をベースにした偽造です。追跡されても一時間は稼げます」
「岸谷の方は」
「警察の無線チャンネルをリアルタイムで提供してもらいます。緊急配備《※2》が出るタイミングが分かれば、退避ルートを変えられます」
※2【緊急配備】警察が重大事件発生時に行う、管内の警察官を一斉に配置する措置。犯罪者の逃走を防ぐため、短時間で道路の封鎖や検問が実施される。
「岸谷は信用できるか」
「お金には正直な人間です」
「それは信用できる、という意味ではない」
クルスが少し笑った。
「そうですね。ただ——岸谷は自分が損をする選択はしません。今回も、リスクより報酬が大きいと判断すれば動きます」
「動かなかった場合は」
「その場合は、岸谷自身が困ることになります。岸谷が今まで売ってきた情報の記録が、どこかに残っていますので」
笠置が少し目を細めた。
「用意がいいな」
「仕事ですから」
笠置は立ち上がって、窓の前に立った。
東京の夜景。
この街のどこかに、目的の人間がいる。
今夜は眠っているだろう。明日も仕事をするだろう。何も知らないまま。
六十年生きてきた。
その中で、いくつかの原則を持つようになった。
一つ。標的は慎重に選べ。
二つ。欲を出す前に、出口を考えろ。
三つ。相手を過小評価するな。
今回の案件で、最も気になっているのは三つ目だ。
「クルス」
「はい」
「TechVisionは払うと思うか」
「払います」と即答した。「ためらわないと思います。あの規模の企業が、関係者一人のために払える金額です。しかも公表を求めない条件なら、払う理由しかない」
「なぜ公表しないと思う」
「企業イメージです。守れなかった、という事実が出れば、株価に影響します。スポンサー契約にも影響する。払って黙らせる方が、はるかに安上がりです」
笠置は窓の外を見たまま言った。
「TechVisionは払う。絶対に払う。あの会社の規模と、守りたいものの大きさを考えれば、迷わん」
「同意します」
「問題は——払うまでの間に、向こうが何をするかだ」
「警察には言えません。言えば公表と同じことになる」
「そうだな」
「弁護士を通じた交渉を求めてくるかもしれませんが、それはこちらも想定内です」
笠置が振り返った。
「一つだけ聞く」
「はい」
「TechVisionに守備部隊がいたら、どうする」
クルスが少し間を置いた。
「……守備部隊、というのは」
「民間警備ではなく、実力のある部隊だ。元軍人、元特殊部隊、そういう類の」
「TechVisionは情報系の企業です。ソフトウェアとハードウェアの。警備部門があるとしても——」
「ないとは言い切れないだろう」
「……規模の大きな企業は、CEOの身辺警護くらいはしています。ただ、今回の対象は本社のCEOではなく、日本の関係者です。そこまで警護が届くかどうか」
「届かないと思うか」
「可能性は低いと思います」
笠置はしばらく、クルスを見た。
「お前の答えは『可能性は低い』だ。ゼロではない」
「……はい」
「そのゼロではない部分に、俺は少し引っかかっている」
クルスが静かに言った。
「笠置さん、TechVisionはITの会社です。銃は持っていません」
笠置は少し間を置いてから、頷いた。
「そうだな」
グラスを持って、ソファに戻った。
「進めろ。ただし——向こうが想定外の動きを見せたら、即座に引け。人質は使い捨てじゃない。交渉材料だ。傷つければ価値が下がる」
「わかっています」
「本当にわかっているか」
「わかっています」
クルスの目は笑っていなかった。
「よし」
笠置はスコッチを一口飲んだ。
「木曜まで、三日ある。その間、岸谷との連絡は最小限にしろ。接触の回数が多いほど、尾を引く」
「了解です」
「車両の最終確認は明後日。それまでは各自動くな」
「わかりました」
クルスが立ち上がった。
「笠置さん、一つだけ」
「何だ」
「成功報酬の割合なんですが——」
「契約通りだ」
「はい、わかりました」
クルスは頭を下げて、部屋を出た。
ドアが閉まった。
部屋に一人になった。
笠置はグラスを持ったまま、しばらく動かなかった。
TechVisionはITの会社だ。銃は持っていない。
クルスはそう言った。
笠置も、そう思っている。
ただ——六十年生きてきた人間の、名前のつかない勘が、ひっかかっている。
何かが、どこかで、動いている。
その感覚の正体が何なのか、笠置には分からない。
分からないまま、グラスを傾けた。
マッカランの十八年。
スコッチが喉を流れた。
窓の外、東京の夜が広がっている。
この街のどこかで、誰かが動いている気がした。
自分たちではない、誰かが。
その正体は分からない。根拠もない。
ただ、六十年生きてきた人間の勘が、静かに鳴っていた。
グラスを傾けた。
夜が深くなっていった。
次回、第四話「GHOST FOOTPRINT」——サラ・キム、東京の闇を追う




