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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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第28話「ストレート」

 (ひいらぎ)家のインターフォンが鳴ったのは、午後二時を少し回ったころ。


 (りょう)がモニターから顔を上げもせずに「はい」と押した。


"It's me."

(わたしです)


 アリアの声。


"Come in."

(どうぞ)


 鍵を開けて、また画面に戻る。今日の作業目標はモジュールの接続テスト。アリアが来ても関係ない。来ても来なくても、作業は続く。


 玄関のドアが開く音。廊下を歩く足音。リビングに人の気配が入ってくる。


"Hi."

(こんにちは)


"Come in."

(どうぞ)


"You always say 'dozo' first."

(いつも最初に「どうぞ」って言うね)


"What else would I say?"

(他に何を言えばいいですか)


"Something like... 'glad you're here.'"

(「来てくれてよかった」とか)


"...I don't think that, so I can't say it."

(……思ってないので言えないです)


"Ryo!"


 アリアが笑った。怒ってはいない声だったので遼は特に気にしなかった。


 アリアはいつもの位置——作業台の斜め後ろの椅子——に荷物を下ろして、タブレットを取り出す。三日前から続いているやり取りの延長として来ている。技術書の読み込みで詰まったところを持ってきて、遼に確認する。それが今のパターン。


 遼には、それで十分だ。


   


"Can I ask something before I start?"

(始める前に聞いていい?)


"Go ahead."

(どうぞ)


"Yesterday, when I sent you that long message about the circuit—you replied with two lines. Is that normal for you?"

(昨日、回路の長いメッセージ送ったら、遼の返信が二行だったんだけど。あれって普通?)


"I only wrote the key points."

(要点だけ書きました)


"The reply was two lines, but it answered everything."

(二行で全部答えてた)


"It was enough."

(それで足りてたので)


"...That's not normal."

(それ、普通じゃない)


"I think it's normal."

(普通だと思いますが)


"It's not!"


 アリアが身を乗り出して言った。日本語で。遼は少し首をかしげる。


"Is that so."

(そうですか)


"Yes, so."

(そうです)


 二人の間に、技術の沈黙が戻る。アリアがタブレットをスクロールして、メモを確認し始める。遼もモニターに向かう。


 この種の静かさに、アリアはもう慣れてきている。最初の頃は「何も話さなくていいの?」と思っていた。今は、作業中の遼の隣で自分も調べ物をするのが、なんとなく落ち着く。


 落ち着く理由は、アリア自身もまだ整理していない。


   


 三十分ほど経って、アリアが口を開いた。


"Ryo. This part—"

(遼、ここなんだけど)


 タブレットの画面を向ける。信号処理の設計図。ある箇所に赤い丸。


"Which part?"

(どこですか)


"This feedback loop. I read three papers about it and they all say different things."

(このフィードバックループ。論文を三本読んだんだけど、全部違うことを言ってて)


 遼がタブレットを覗き込んだ。二秒見て、言う。


"The design philosophy is different. All three are correct."

(設計思想が違います。三本とも正しい)


"They're all correct!?"

(全部正しいの!?)


"It depends on the use case. If you don't decide that first, you can't choose any design."

(用途によって変わります。どの用途で使うかが最初に決まってないと、どの設計も選べない)


 アリアがペンを止めた。


"...So I was asking the wrong question."

(……質問の立て方が間違ってたってこと)


"Exactly."

(そういうことです)


"That's the most important thing and you told me so easily."

(一番大事なことをそんなにあっさり言う)


"I think it's something anyone would notice."

(普通に気づくことだと思いますが)


"It's not!"

(普通じゃない!)


 遼は少し首をかしげて、また画面に戻る。


 アリアはノートに「用途を決めてから設計を選ぶ」と書いた。その横に「Ryo says 'normal'(普通)」と書いて、その隣に「it's NOT」と書いた。


 こういう記録が、最近増えている。


   


"Hey, Ryo."


"Yes?"

(なんですか)


"When you explain things, you never make me feel stupid."

(遼が説明するとき、バカにされてる感じがしない)


 遼がキーボードの手を止めた。少し考えてから言う。


"I'm not making fun of you."

(バカにしてないので)


"That's not what I mean. Some people who are smart make you feel like they're doing you a favor by explaining. You don't do that."

(そういうことじゃなくて。頭がいい人って、教えてあげてる感じを出す人がいるんだよね。遼はそれをしない)


"...Explaining is just sharing information."

(……説明はただの情報共有なので)


"See, that! 'Just information sharing.' That's exactly it."

(それ! 「ただの情報共有」。それなんだよ)


"Is that so."

(そうですか)


"It's a really rare thing, you know?"

(それって、すごく珍しいことだよ)


 遼は少し黙った。


"Maybe, but I've never really thought about it."

(そうかもしれないですが、あまり意識したことがないです)


"I know. That's why it's good."

(知ってる。だからいいんだと思う)


 また沈黙が戻る。今度はアリアが画面を見ながら、少し笑った。


 自分でも笑った理由が分からなかったけれど、笑えた。


   


 窓の外で日差しが動いた。午後三時を過ぎたころ。


 アリアが椅子から立ち上がった。


"Where are you going?"

(どこか行くんですか)


"Kitchen. Is it okay if I make coffee?"

(台所。コーヒー作ってもいい?)


"Go ahead."

(どうぞ)


"Do you want some?"

(遼も飲む?)


"...Yes, please."

(……いただきます)


 アリアが台所に向かう。コーヒーメーカーの場所はもう知っている。豆の場所も、カップの場所も。三日来ると、人は台所を覚える。


 コーヒーが落ちる音。湯気の匂いが来る。


 アリアが二つのカップを持ってリビングに戻ってきた。


 遼の分を、テーブルに置けばいい。テーブルはそこにある。でもアリアは直接手渡しにいく。遼の作業台のそばまで行って、画面を見ている遼に向かって差し出す。


 遼はモニターを見たまま、無意識に手を出した。


 カップが渡される。アリアの手と遼の手が、一瞬近い。


 遼は受け取って、コーヒーを一口飲んで、画面に戻る。


「Thanks.」


 それだけ言った。


 アリアは自分の椅子に戻った。


 (……ありがとうだけ)


 別にそれ以上を求めていたわけではない。求めていたわけではないが、「ありがとう」だけで終わったことに、何かが引っかかった。引っかかった理由が、少し分からない。


"Ryo."


"Yes?"

(なんですか)


"Do you know why I handed it to you directly, instead of just putting it on the table?"

(テーブルに置かなくて、直接渡したの、なんでだと思う?)


 遼がモニターから少し顔を上げた。


"...The table was far?"

(……テーブルが遠かったですか)


 アリアは三秒、遼の顔を見た。


 本気で言っている。


"...You're right. Never mind."

(……そうだね。なんでもない)


"Is that all?"

(そうですか)


「そう」


 アリアはコーヒーを飲んだ。


 テーブルは全然遠くない。どう見ても遠くない。でも遼は「遠かったですか」と言った。悪意も、計算もない。ただそう思っただけの顔だった。


 (なんでこんなに鈍いのに、一緒にいると楽しいんだろ)


 その答えは、まだアリアの中で出ていない。


   


 同じ頃、東京都内某所。


 ロバート・チェンは、ホテルの一室で日報を書いていた。


 画面を見ながら、文章を組み立てていく。


「アリアさんの本日の訪問先:(ひいらぎ)家。滞在時間:三時間十五分。これで四日連続——」


 ロバートの手が止まった。


 四日連続。


 CEOの娘が、遼の家に四日連続で訪問している。


 どう考えても、業務ではない。


 業務だとしたら、どんな業務か。技術交流? 市場調査? 文化的交流?


 全部違う。明らかに全部違う。


 ロバートはため息をついた。


 スマホを取り出して、デイビッドへの報告メッセージを打ち始める。


"Sir, about Aria—"


 打ちかけて、止まった。


 何を報告する。「娘さんが毎日柊のアパートに行っています」? 「業務ではないようです」?


 デイビッドが「そうか」と言って終わる未来が見える。


 ロバートは少し考えて、打った。


"Sir, Aria seems to be enjoying her time in Japan."

(サー、アリアさんは日本での時間を楽しんでいるようです)


 返信は三十秒で来た。


"Good."

(そうか)


 ロバートは画面を見た。


 もう少し聞いてほしい。


 もう少し「大丈夫か」と言ってほしい。


 ロバートは返信した。


"Aria visited Hiiragi's apartment again today. Four consecutive days."

(アリアさんが今日も柊のアパートを訪問しました。四日連続です)


"I see."

(そうか)


"Sir, is that... okay?"

(サー、それは……大丈夫ですか)


"What about it?"

(何が?)


 ロバートは天井を見た。


 何が、じゃない。何がって何だ。そういう問いに答えられる言葉が思い当たらない。


"...Nothing. Never mind."

(……なんでもないです)


"Good. How's the project?"

(そうか。プロジェクトの方は)


 ロバートはため息をついて、日報に戻った。


 しばらくして、デイビッドからもう一件来た。


"Robert."


"Yes?"


"Don't worry too much. It's Aria's life."

(心配しすぎるな。アリアの人生だ)


 ロバートはスマホを置いた。


 心配しすぎるな。


 そう言われても、心配している。仕事上の立場として心配している。でも、もう一つ別の心配もしている。


 柊遼が、完全に気づいていない可能性。


 あの人は本当に、分かっているのか。分かっていないのか。


 ロバートには判断できない。できないまま、日報の文章を再開した。


   


 夕方。


 (りん)が撮影から帰ってきて、着替えを済ませて、リビングのソファに倒れ込んだ。


 テーブルにアリアの荷物の名残——コーヒーカップが二個、洗われて乾燥棚に立っている——を見て、少し眉を上げた。


「今日もいたの」


「来た」


「何時間」


「三時間くらい」


「……毎日来てるね」


「まあ」


「まあって何よ」


「来る理由がある人は来る」


 凛がソファから遼の方を向いた。遼はモニターに向かっている。背中に目がない。


「遼」


「なに」


「アリアさんのこと、どう思ってるの」


「どう、というのは」


「普通に聞いてる。印象とか」


「……技術の話ができる人」


「それだけ?」


「何かある?」


 凛は少し息をついた。この会話の先を、どう続けるか。


「なんか、嬉しそうに見えたよ。あなたが」


「……技術の話をしてる時間は楽しい。普通に」


「普通に、ね」


「そう言ってる」


 凛は何も言わなかった。しばらくソファに寝転んで天井を見ていた。


 そのうち(はな)が帰ってきて、「お姉ちゃんお疲れ! アリアさん来てた?」と台所を覗きながら言った。凛が「来てた」と答えると、華が「コーヒーカップ二個あるね」とあっさり言って冷蔵庫を開けた。


 遼はモニターに戻った。


   


 その夜。


 凛は電話した。相手は桜井(さくらい)詩織(しおり)


 月に一、二回は連絡する。近況報告のような、昔話のような会話。


「最近どう」


「職場慣れてきた。文芸部の仕事、やっぱり好きだと思う」


「良かった。仕事合ってるなら」


「凛ちゃんは? 神崎さんの現場」


「いろいろある。そっちは話すと長くなる」


「長くていいよ」


「まあ、そのうち」


 少し話して、凛がふと言った。


「そういえば、最近うちにアメリカの子がよく来てるんだけど」


「……アメリカの子」


アリア(Aria)さんって。遼が仕事でつながった会社の、CEOの娘らしい。技術の話が好きで、遼と話したいって毎日来る」


「……毎日」


 詩織の声が、少し変わった。


 凛はそれに気づいた。気づいたが、黙っていた。


「まあ、遼は相変わらず普通にしてるけど。技術の話できる人が来ること自体は嬉しいみたいで」


「……そうなんだ」


「うん」


 また少し話して、電話は終わった。


「またね」


「うん、また」


 凛はスマホを置いて、天井を見た。


 詩織の「そうなんだ」の声。


 ふだんと、違う。


 何がどう違うかは、説明しにくい。ただ、何かが違う。


 (言わなきゃよかったかな)


 でも、隠しておくのも変だ。事実として話しただけで、別に悪意はない。詩織に知らせるべきでない理由も、特にない。


 (……でも、あの声は)


 凛はソファの上で少し腕を組んだ。


 詩織が遼のことをどう思っているかは、凛にはなんとなく分かる。分かっているから、今夜の「そうなんだ」の意味も、だいたい分かる。


 でも、だから言わなければよかったかというと——それも違う気がする。詩織が知らないまま何かが進む方が、もっと違う。


 (詩織ちゃん、大丈夫かな)


 答えが出ないまま、凛は目を閉じた。


   


 一方、詩織。


 電話を切って、スマホをベッドの上に置いた。


 毎日来る。


 部屋の灯りが白くて、少しまぶしい。


 アメリカの子。技術の話が好き。遼と話したくて毎日来る。


 詩織には、それが何を意味するか、一瞬で分かった。一瞬で分かって、分かったことを、しばらく受け止めようとした。


 受け止めた。


 受け止めた、と思う。


 スマホをまた手に取る。遼との会話画面を開く。


 最後のやり取りは昨日の夜。「寝る」「おう」という、ゼロ情報の往復。


 打ちかけた。


 何を打つつもりだったか。


 「元気?」は噓くさい。「最近どう」は間がある。「アリアって子のこと、知ってる?」は—絶対に打てない。


 詩織は画面を消した。


 窓の外、対面のマンション。いつもの棟、いつもの階。


 遼の部屋の灯り。白くて、四角くて、今夜もついている。


 変わらない。何があっても、そこにある灯り。


 詩織はスマホを持ちなおして、一文字打った。


「おやすみ」


 送信した。


 既読がついた。数秒後。


「おう」


 詩織はスマホを枕の横に置いた。


 「おう」。


 返事はいつも通り。遼は何も知らない。何も変わっていない。


 それが、少し安心で、少し、苦しい。


 その苦しさの名前を、詩織はもうずっと前から知っている。知っていても、出さない。


 灯りが、まだついていた。

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