「桜井詩織、秋葉原に行く」前編
なぜこういうことになったのかを、詩織は後から何度も反芻することになる。
始まりは一本のLINEだった。
土曜日の朝。
詩織のスマートフォンに遼からメッセージが来た。遼からLINEが来ること自体は珍しくない。来ても大体「起きてる?」か「今日会える?」か「飯食った?」のどれかだ。この三択でほぼ全パターンをカバーしている。
今日は違った。
「今日アキバ行くけど、来る?」
詩織はしばらくスマートフォンを見た。
来る? と聞かれた。
遼から「来る?」と聞かれた。
遼から自発的に誘いが来るのは年に数回ある。それも「暇ならついてきてもいいけど」とか「一人でも行くけど」みたいな温度感のやつが多い。でも今日のは「来る?」だった。比較的シンプルに、来る?、だった。
「行く」と打って送信した。
「了解」と返信が来た。
三秒で了解が来た。
詩織は布団をはねのけた。
集合は昼の一時、秋葉原駅の改札前。
遼はすでにいた。Tシャツにジーンズ。エコバッグを一つ持っている。部品を入れて帰るやつだ。何度か見たことがある。
「来た」と遼が言った。
「来た」と詩織が言った。
「じゃあ行こう」
「どこに?」
「部品街」
詩織はそうですか、と思いながらついて行った。
聞けばよかった。「部品街って何するの」と、最初に聞けばよかった。でも遼が「じゃあ行こう」と歩き始めたので、詩織も歩き始めた。
これが間違いの第一歩だったかもしれない、と後から思う。
中央通りから一本入ると、空気が変わった。
電子部品の店が並んでいる。プラスチックのケースにびっしり入った小さな金属の粒。ケーブル。基板。抵抗。コンデンサ。ラベルのない箱に型番だけが書いてある。
詩織には何が何なのか全く分からない。
遼は分かっている。
最初の店に入ってすぐ、遼の歩き方が変わった。外では少し無造作だったのに、部品棚の前に立った瞬間、動作が全部静かになった。棚を見る。手を伸ばす。部品を取る。確認する。戻す。また取る。戻さない。
その一連に一切の迷いがない。
詩織はその横で、棚のラベルを読もうとしていたが、型番の羅列が全部同じに見えた。
「遼、これ何の部品なの?」
「コンデンサ」
「何に使うの」
「電荷を蓄える」
「……どこに?」
「回路に」
「回路って」
「電流が流れるとこ」
詩織は「そうですか」と思いながら黙った。
説明してくれているが、説明されるたびに質問が増える構造になっていた。
遼は気づかずに次の棚に移動している。
二軒目の店は少し広かった。
遼は入口の棚を一瞥して、奥に直進した。目的のものがどこにあるか分かっているらしかった。詩織はついて行く。
奥の棚の前で、遼が止まった。
箱を手に取る。少し傾けて見る。戻す。別の箱を取る。こちらを手に持ったまま、次の棚に移動する。
三分ほど経った。
詩織は棚の間の狭い通路に立ちながら、少しずつ自分の存在意義について考え始めた。
来て、良かったのだろうか。
いや、良かった。遼と一緒にいる。遼の横にいる。それで今日は十分だった。
でも遼は今、詩織のことを一ミリも考えていない。
それはいつものことで、いつものことなので、詩織は慣れていた。慣れているはずだった。
「遼」
「うん」
「何個買うの」
「まだ分からない」
「いつ分かるの」
「全部見てから」
「全部っていくつぐらい」
「この通りの店を全部」
詩織は「この通りの店を全部」という言葉を咀嚼した。
中央通りから一本入ったこの路地に、電子部品の店は何軒あるのだろう。五軒か、十軒か。
「どのくらいかかるの」
「二時間くらい」
「二時間」
「速い方だと思う」
詩織はエコバッグを持っていない自分の手を見た。
三軒目に入ったとき、外で声が聞こえた。
「——サイバーさんが今日来てるらしい」
詩織は店の外に目をやった。二十代くらいの男性二人が路地を歩いていた。
「マジで? どこ?」
「三軒目あたりってさっき聞いた」
「行こ行こ」
三軒目、というのはここだった。
詩織は遼を見た。
遼は棚の前で部品を選んでいる。まったく気づいていない。
しばらくすると、先ほどの男性二人が店に入ってきた。店の中を見渡して、遼を見つけた。
「いた」と片方が小声で言った。
「本当だ」ともう片方が言った。
二人はそのまま遼に近づこうとして、詩織に気づいた。足が止まった。
「……連れの方ですか」
「はい」
「サイバーさんと一緒に来たんですか」
「サイバーさんが遼のことなら、そうです」
二人が顔を見合わせた。小声で「連れいる」「初めてじゃないか」と言い合っている。
遼は気づかずに部品を手に取っている。
四軒目を出たあたりで、路地の空気が少し変わっていた。
人が増えた、というほどではない。ただ、ちらちらと遼の方を見る人がいた。すれ違いざまに「今日来てる」と小声で言う人がいた。
遼は全部気づいていない。
詩織は気づいていた。
五軒目の前で、遼が足を止めた。ショーウィンドウを見ている。静止している。
後ろから声がした。
「——サイバーさんだ」
別の方向から。
「あ、ほんとだ」
「今日まだいた」
「また良いの見てる」
「いつものやつ」
詩織は振り返った。
いつの間にか、遼の周囲に少し人が集まっていた。誰も声をかけない。ただ、それぞれの距離から、サイバーさんが部品を選ぶのを見ている。
野鳥の観察、みたいな感じだった。
「ねえ」と詩織は遼の袖を引いた。
「うん」と遼は言ったが、ショーウィンドウから目を離さなかった。
「周りに人が集まってるんだけど」
「そう?」
「そうなの。なんか見てる」
「……俺を?」
「遼を」
遼がようやく振り返った。周囲を確認した。
「……なんで」
「分かんないけど、サイバーさん? って言ってた」
「サイバーさん」と遼が繰り返した。「誰ですか」
「遼のことじゃないの」
「俺がサイバーさん?」
「多分」
遼はしばらく考えた。
「…………そうか」
特に動揺していなかった。
詩織は「この人はこういう人だ」と思いながら、遼の横に少しだけ近づいた。
そのとき、後ろから声がかかった。
「あの、連れの方ですか?」
振り返ると、二十代の男性が二人立っていた。さっきとは別の人だった。
「はい」
「サイバーさんのお知り合いですか」
「……まあ、知り合いというか」
「彼女さんですか」
詩織は一瞬止まった。
「違います」
「あ、そうですか。すみません」
男性たちは少し引いた。
でもすぐに別の方向から声が来た。
「ねえ、連れがいる」
「え、いつもひとりで来るのに」
「サイバーさんに連れがいる」
「どんな人?」
詩織はすごい速度で情報が共有されていくのを感じた。
遼は部品を選んでいる。
詩織は「この人と来て良かったのかどうか、だんだん分からなくなってきた」と思いながら、遼の横に黙って立っていた。
六軒目の店を出たところで、遼が「そろそろ一回休憩する」と言った。
詩織はほっとした。
「どこで?」
「PC坊主んとこ」
「PC坊主」
「コーヒーがうまい店。スキンヘッドのおじさんがいる」
「行ったことあるの」
「高校のときから」
「そんなに前から」
「うん。コーヒーがうまいので」
遼は迷いなく路地を曲がった。詩織はついて行く。
細い路地の奥、雑居ビルの二階に電球の灯り。手書きの「OPEN」の紙。
階段を上がって、ドアを開けた。
コーヒーの匂いがした。
カウンターに、スキンヘッドにサングラスの男がいた。
「……来たか」とその男が言った。遼を見た。それから詩織を見た。「連れか」
「幼なじみです」と詩織が言った。
「そうか」と男は言った。「座り」
二人分のコーヒーが出てきた。
詩織が飲んだ。
「……おいしい」
「そやろ」と男が言った。
遼はコーヒーを飲みながら、エコバッグの中を確認していた。買った部品を整理しているらしかった。
詩織はカウンターに座って、コーヒーを飲みながら、今日ここに来た理由を考えていた。
遼が「来る?」と聞いた。詩織が来た。それで十分だった。
たぶん。
「おじさん」と詩織が言った。
「PC坊主と呼べ」とその人が言った。
「PC坊主さん、遼ってアキバではよく知られてるんですか」
PC坊主がサングラス越しに遼を見た。遼は部品を整理している。
「知られてるかどうかは本人に聞け」とPC坊主が言った。
「知らないの、自分のことを」と詩織が遼に聞いた。
「サイバーさん、らしいけど」と遼が言った。「誰のことかよく分からなかった」
「自分のことじゃないの」
「そうみたいだけど」
「そうみたいだけど、じゃなくて」
「なんで俺がサイバーなんですか」と遼がPC坊主に聞いた。
PC坊主がコーヒーを一口飲んだ。
「さあな」
「由来は?」
「知らん」
「誰が言い出したんですか」
「知らん」
「知ってるでしょ」
「……コーヒーでも飲め」
遼は「そうか」と言って部品の整理に戻った。
詩織はその会話を聞きながら、コーヒーをもう一口飲んだ。
おいしかった。
休憩が終わって、また路地に出た。
七軒目。八軒目。
遼のエコバッグの中身が少しずつ増えていく。
詩織は遼の三歩後ろをついて行きながら、路地の景色を眺めていた。電子部品の看板。型番が書かれたケース。棚の奥に光る基板。
よく分からない。でも悪くない。
遼がここに来るとき、こういう景色の中にいるんだ、と思う。毎週か、月に何回か。この路地を歩いて、棚を見て、部品を選んで、PC坊主のコーヒーを飲んで。
そういう時間が遼にある。
詩織は自分がその時間の中に初めて入ったんだ、ということに、少しだけ気づいた。
「来る?」と聞かれたのは、そういう意味だったのかもしれない。
もしかしたら違うかもしれない。
でも、来て良かった。
そう思ったとき、前方の路地から人の声がした。
「すみません!!」
外国語のアクセントだった。
英語だった。
詩織が前を見ると、五、六人の男性たちが路地の向こうから歩いてきていた。全員が外国人観光客らしい。地図を見ながら何かを探しているようだった。
遼は少し先の棚を見ている。
男性の一人が詩織を見て、何かを言った。
「Excuse me, are you the idol from that cosplay cafe?」
詩織はその言葉を一秒で解析した。
コスプレカフェのアイドル、と言っている。
詩織が着ていたのは、パステルピンクのカーディガンに白いスカートだった。アキバのコンカフェの店員さんの私服と、全く区別がつかないと言えばつかなかった。
「No, I'm not」と詩織が言った。
でも相手は止まらなかった。
「Can I take a photo?」
「No, really, I'm not——」
「Please! Just one photo!」
別の一人が「Photo! Photo!」と言いながら前に出てきた。
六人が徐々に詩織の周りに集まってきた。
悪意はない。観光客の純粋なテンションだった。でも人数が多くて、詩織は一歩後ろに下がった。もう一歩。
路地の端に寄ってしまった。
「I'm not a café worker, please——」
「Cute! Very cute!」
「Kawaii!」
遼が振り返った。
状況を一秒で把握したらしかった。
遼が詩織の横に来た。男性たちと詩織の間に、静かに入った。
「She's with me」と遼が言った。
低くて平坦な声だった。感情がなかった。ただ事実だけを言っていた。
「Oh!」と一人が言った。
「Your girlfriend?」と別の一人が聞いた。
遼は少し間を置いた。
「Yes」
詩織は固まった。
男性たちが「Oh! Sorry! Sorry!」と言いながら引いた。「Congratulations!」と言った一人もいた。全員がにこにこしながら路地の向こうに消えていった。
路地に詩織と遼だけが残った。
遼はそのまま棚の方に向き直ろうとした。
「ちょっと待って」と詩織が言った。
「何」
「今、なんて言ったの」
「She's with me」
「その次」
遼は少し考えた。
「……早く追い払える言葉を選びました」
「Yes、って言ったよね」
「言いました」
「なんで」
「彼女か、と聞かれた。正確には幼なじみだけど、説明するより簡単な言葉を選んだ」
「簡単な言葉」
「ええ」
遼は普通の顔をしていた。普通の顔で、普通のことを言っていた。詩織のことを「彼女」と言ったことへの動揺が、一ミリもなかった。
詩織は壁に少しもたれた。
落ち着かないといけない。
別に何でもない。
遼は状況を解決しただけだ。詩織のために一番効果的な言葉を選んだだけだ。
「……分かった」と詩織は言った。「ありがとう」
「別に」
遼は棚に向き直った。
詩織はしばらく壁にもたれていた。
路地の奥で、誰かの声が聞こえた。
「——見た? サイバーさんが彼女を守った」
「彼女いたの?!」
「いたみたいだよ」
「あの人、幼なじみって言ってたけど」
「彼女って言った人もいた」
「……どっち?」
「どっちでもいいよ、サイバーさんが守ったんだから」
詩織は目を閉じた。
どっちでもよくないです、と心の中で言った。
どっちでもよくない。
でも今は、それを声に出す必要がない。
遼は部品を選んでいる。
詩織はその横に戻った。
(前編・了)




