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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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土曜の夜の番外編「砂かぶりの午後、二枡分」(中編)

 内掛けと、二人が同時に言った。


 その後の二秒は、国技館の館内の歓声がよく聞こえた。


 アリアが詩織を見た。詩織がアリアを見た。


「うちがけ……言った?」とアリアが日本語で言った。


「言いました」と詩織が答えた。


「私も、言った」


「そうですね」


 また間があった。


 ロバートが取組表を膝の上に置いて、前を向いた。良くない種類の何かが始まる気がした。


「詩織、取材で……稽古場も、行った?」


「二か所」


「力士と……話した?」


「数名」


「英語で、話せた?」


「英語が得意な方はいらっしゃいませんでした。先生が通訳してくださいました」


 アリアがうなずいた。何かを整理しているような顔だった。


「私は……相撲協会に、行ったことある」


「私もあります」


「え」


「先生に連れて行っていただきました」


「いつ」


「先月」


 アリアの目が、少し遠くなった。


 "Robert."


 "Yes."


 "She went to the Sumo Association."

 (詩織、相撲協会に行ったって)


 "I heard."

 (聞こえてましたよ)


 "This is getting complicated."

 (ちょっと複雑になってきた)


 "Right."

 (そうですね)


 遼は黙って前を向いていた。土俵では次の仕切りが始まっていた。


   


 本命の取組は午後三番目だったが、それより前に、一つ見応えのある取組があった。


 若い力士同士の一番で、お互いが組んでは離れ、押しては返す、長い相撲だった。館内が沸くたびにアリアが「あそこ、見た?」と遼の腕を掴んだ。遼は「見てます」と答えた。詩織はメモを取っていた。小さなノートに、鉛筆で。


 ロバートはいつの間にか自分もメモを取っていた。スマートフォンのメモアプリに。


"Ryo. What was the winning technique just now?"

(あれ、最後の決まり手は何でしたか)


"Ask Aria or Shiori."

(アリアさんか詩織に聞いたらいいと思います)


"Asking both of them at the same time is……a little."

(二人に同時に聞くのは……少し)


 ロバートが小声で言った。遼がちらりと横を見た。


 アリアと詩織は、今もう一度取組表を挟んでいた。


「あれ、最後……こてなげ、に見えた」とアリアが言った。


「切り返しだと思います」と詩織が答えた。


「こてなげ……じゃない?」


「切り返しです。右手が相手の肘の下に入ってました」


「でも、体の……回転の方向が——」


「切り返しも回転しますよ」


「こてなげも……回転する」


「肘の位置が違います」


「詩織、本当に……稽古場で見た?」


「二か所で計十一番、拝見しました」


 アリアが詩織を見た。詩織がアリアを見た。


「先生の……取材ノート、何冊読んだ?」


「四冊です」


 沈黙。


「……私は決まり手、全部言える」


「私は江戸時代の勧進相撲の興行形態と、明治以降の協会組織の変遷が言えます」


 また沈黙。今度は少し長い。


 遼が前を向いたまま言った。


「ロバートさん、どっちかにしてもらえますか」


 "Me?"

 (え?)


「切り返しか小手投げか、どっちか決めてもらえれば」


 "Why me?"

 (私が決めるんですか)


「二人が決められないなら、誰かが決めた方がいいと思うので」


 ロバートが困った顔をした。


 "I don't have grounds to determine which is correct."

 (どちらが正しいかの根拠が私には)


「じゃあ行司に聞きましょう」


 "Can we ask the referee?"

 (行司さんに……聞けるんですか)


「どこかに表示されると思います」


 遼がぼんやり館内を見回した。場内放送が決まり手を告げる。


 小手投げ。


 アリアが詩織を見た。


「こてなげ……だった」


「……そうですね」と詩織が静かに言った。「勉強になりました」


 一拍置いて、


「でも、肘の位置の見方は合ってたと思います」


「詩織……強いな」


「アリアさんも」


 何かが、少し変わった気がした。ロバートにはよく分からなかったが、二人の空気が、対戦から別のものに移り変わった瞬間があった気がした。


   


 問題は、周囲の升席の人々が、この二枡に注目し始めていたことだった。


 理由は二つある。


 一つは、隣の升席に国民的女優と思われる人物が二名いること。


 もう一つは、こちらの升席で、金髪の外国人女性と黒髪の日本人女性が、日本語と英語を混ぜながら相撲の技名について議論していること。


 後者についてはどう理解すればいいのか、周囲の誰にも分からなかった。


 斜め前の升席のご夫婦は、最初は隣の升席の国民的女優らしき人物に注目していたが、気づいたらこちらのやり取りに耳を傾けていた。取組が始まるたびに夫が土俵を見て、妻がこちらを見る、というローテーションが自然に成立していた。


 後ろの升席の若い男性三人組は、もう土俵を見ていなかった。


「あの金髪の子、相撲詳しくない?」


「詳しい。決まり手を平仮名で言ってる」


「でも隣の子も詳しい」


「うん。取材ノートって言ってた」


「何の取材」


「分からん。でも四冊読んだって言ってた」


「四冊」


「四冊」


 三人が沈黙した。


「……しかも外国人と日本語で議論してるって何なんだ」


「勝負してる」


「何の勝負」


「相撲の知識の、勝負」


 また沈黙。


「俺たち何見に来たんだっけ」


「相撲」


「あ、そうだ」


 三人がようやく土俵の方を向いた。


 別の升席の、六十代ぐらいの常連らしき男性は、この一連のやり取りを最初から聞いていた。升席の相撲観戦に慣れた人間の、静かな観察眼で、二枡を交互に見ていた。


 金髪の女の子が言っていることは、正しかった。隣の女の子が言っていることも、正しかった。ただ、外国人の方は観戦経験からくる知識で、日本人の方は文献と取材からくる知識で、同じ「詳しい」でも出所が違う。だから議論が噛み合うようで噛み合わない場所がある。


 それを分かって聞いているのは、この辺りではおそらく自分だけだと思った。


 ひとつ取組が終わったとき、その男性は隣の妻に小声で言った。


「あの二人、来場所また来るかもな」


「どっちが?」


「両方」


 妻が「なんで分かるの」と聞いた。


「顔が、続きを考えてる顔だ」


 妻がもう一度二枡の方を見た。アリアと詩織が、また取組表を挟んでいた。


「……まあ、そうかもね」


 遼はそれに気づいていなかった。


 ロバートは気づいていたが、どう対処すればいいかが分からなかった。考えようとしたが、次の取組が始まった。気づいたら、そちらを見ていた。


   


 本命の取組が始まった。


 山城山対海龍。


 アリアが取組表をしまった。全集中で見るということらしかった。


 詩織もノートをしまった。


 二人が並んで、前を向いた。遼もロバートも前を向いた。


 仕切りが始まる。


 山城山と海龍が向かい合う。二人とも大きい。山城山の方が少し背が高く、海龍の方が横幅がある。仕切り線の前に手をついて、相手の目を見る。


 アリアが息を詰めた。


 詩織も、息を詰めた。


 三回の仕切りが終わって、立ち合い。


 ぶつかった音が、さっきより大きかった。


 海龍が先に右手を差しにいった。山城山がそれを察知して半歩引き、おっつけで海龍の腕を外にやる。海龍が押す。山城山が耐える。二人が組んで、押し合って、動かない。


 館内が静かになった。


 その静けさの中で、二人が動いた。


 山城山が右を差した瞬間、体重を乗せて前に出た。海龍が踏ん張る。足が土俵の端に近づく。


 アリアが「あっ」と言った。


 詩織が息をのんだ。


 海龍の足が、俵を踏んだ。


 寄り切り。


 館内が沸いた。アリアが「やった!」と言った。詩織が「山城山……」と呟いた。ロバートが「あっ」と声を出した。遼は静かに見ていた。


「見た? 右差してから体重の乗せ方が全然違った!」とアリアが遼に言った。英語で。


 "I saw."

 (見ました)


 "That's what I was saying. His tachiai has been improving."

 (だから言ったでしょ。立ち合いが良くなってるって)


 詩織が言った。


「先生がおっしゃってました。山城山は今場所から立ち合いの踏み込みを変えたって。体の軸を少し前に倒すやり方に直したって」


 アリアが詩織を見た。


「先生が……それ、力士から聞いた?」


「山城山本人から聞きました。先月の取材で」


 アリアが遼を見た。


 "Ryo."


 "Yes."


 "Is this real?"

 (これ、本当に起きてる?)


 "What part."

 (何がですか)


 "She talked to Yamashiro-yama."

 (詩織が山城山と話した)


 "Apparently."

 (そうみたいですね)


 アリアがため息をついた。でも嫌そうではなかった。むしろ少し、楽しそうだった。


「詩織、今度……その話、もっと聞かせて」


「……はい」と詩織が少し驚いた顔で答えた。


   


 隣の升席では、デイビッドが土俵の方を向きながら、時折凛の方を見ていた。


 観戦の途中、ということはあった。山城山の取組が終わって、次の仕切りが始まるまでの間に、デイビッドが岡本さんに何かを英語で言った。岡本さんが凛に小声で訳した。


「CEOが……凛さんと華さんを見ていると、日本人の美しさとはこういうものかと思う、とおっしゃってます」


 凛が少し間を置いてから、「ありがとうございます」と答えた。


 岡本さんが英語にした。


 デイビッドがまた何かを言った。


「……凛さんは、テレビで見るより、本物の方がずっといい、とおっしゃってます」


「そうですか」


「はい。あと、華さんの笑顔は、どこで撮っても絵になると」


 華が「え、私も?」と小声で聞いた。


「CEOが見てますよ」と岡本さんが言った。


 華がデイビッドの方を向いた。デイビッドが目を合わせた。表情は変わっていない。でも目の奥が、少し温かかった。


 華が思わず笑った。反射的に出た、素の笑顔だった。


 デイビッドが岡本さんに何かを言った。


「……絵になる、と言ってます」と岡本さんが静かに言った。


 凛が小さく「ほんとだ」と思った。声には出さなかった。


   


「お姉ちゃん、何の話してるの」と華が少し後から聞いた。


「褒められた」と凛が小声で答えた。


「え、何て」


「テレビより本物の方がいいって」


「え」


「あと華の笑顔はどこで撮っても絵になるって」


 華がデイビッドをちらりと見た。デイビッドは土俵の方を向いていた。


 デイビッドが岡本さんに何かを英語で言った。岡本さんが凛に訳した。


「CEOが、凛さんと華さんに、今日のお礼をしたいとおっしゃってます。よかったら食事を、と」


 凛は少し間を置いた。


「……ありがたくお受けします」


 岡本さんが英語にする。


 デイビッドが小さくうなずいた。それから何かを付け加えた。


「……では遼さんも含めて全員で、とおっしゃってます」


 凛が少しだけ笑った。


「遼が、ちゃんとした食事の場所に来るか分からないので」


 岡本さんが英語にする。


 デイビッドが笑った。本当に笑った。


「遼に聞いてみます」と凛が言った。


   


 そのころ遼は、周囲の升席の視線に気づいていなかった。


 気づいていなかったが、ロバートはじわじわ気づいていた。


 斜め前のご夫婦が、もうこちらの升席をかなりの割合で見ている。後ろの男性三人組は、アリアと詩織の議論を楽しんでいるらしかった。


"Ryo."


"Yes."


"People around us are looking over here."

(あの、周囲の方が、少し、こちらを見ています)


"Is that so."

(そうですか)


"Probably because Aria and Shiori are arguing."

(アリアさんと詩織が議論してるからじゃないですか)


"That's likely the main reason."

(おそらくそれが主な理由で)


"We should leave them alone."

(放っておけばいいと思いますが)


"Right."

(そうですね)


 ロバートは少し考えた。


"Also——Rin and Hana being in the next box means this whole area has drawn attention. The cameras are probably picking it up."

(あと、隣の升席に凛さんと華さんがいることで、この周辺全体が少し注目されています。テレビカメラも拾ってると思います)


"Is that so."

(そうですか)


"If Aria ends up on camera, there will be questions about who she is. And if David is visible——people who recognize him will. Speculation about his connection to Rin and Hana."

(アリアさんが映ると後で誰だという話になりそうで。デイビッドが映ると、分かる人には分かって、凛さんと華さんとの関係について憶測が広がりそうで)


 遼が少し考えた。


 "That does seem likely."

 (なりそうですね)


 "Which means this whole combination today is, somewhat——"

 (その点で言うと、今日この升席の組み合わせ全体が、かなり、その)


 "Aria put this together."

 (アリアさんが仕切ったんですが)


 "……Yes."

 (……そうですね)


 "So there wasn't much we could have done."

 (なので、どうにもならなかったと思いますが)


 "……You're right."

 (……仰る通りです)


 ロバートは少し遠い目をした。


 遼が前を向いた。


 ロバートも前を向いた。


 次の取組が始まった。


   


 帰り道でロバートが起きていないことを祈っていた問題は、その夜のうちに起きた。


 国技館の中継映像に、観客席の柊凛・柊華の姿が映り込んでいた。それ自体は相撲中継でたまにあることで、翌朝のスポーツ紙のベタ記事になる程度の話だった。


 問題はその隣だった。


 隣の升席に座った金髪の外国人女性と、その斜め後ろの体格のいい白髪の男性。


 ネットの相撲クラスタが最初に気づいた。


 「柊凛・柊華の隣に外国人、誰?」


 次に芸能クラスタが反応した。


 「柊姉妹と知り合いの外国人? 升席って一枡四席だから、同じグループじゃない?」


 三時間後、誰かがデイビッドを特定した。


 「後ろの人、TechVisionのCEOじゃない?」


 「え、デイビッド・マクナマラ?」


 「似てる」


 「てか金髪の女の子、娘のアリアじゃないか? 本社のイベントで見たことある」


 そこから先は早かった。


 「TechVisionのCEOが柊姉妹と一緒に相撲観戦」


 「バックにTechVisionがいるのか?」


 「日本法人の動きと関係ある?」


 「柊凛って最近TechVisionの何かに関わった?」


 ロバートがその流れに気づいたのは、夜の十一時だった。


 スマートフォンを見て、三秒固まって、それからデイビッドに英語でメッセージを送った。


 "David. We may have a situation."

 (デイビッド。ちょっと問題が起きたかもしれません)


 返信は三十秒で来た。


 "What kind."

 (どんな)


 "Social media. People saw you at the sumo tournament with the Hiiragis."

 (SNSです。相撲で柊さんたちと一緒にいたのが見られました)


 また三十秒。


 "And?"

 (それで?)


 "Speculation about TechVision backing them."

 (TechVisionが後ろについているんじゃないかという憶測が出ています)


 今度は少し長い間があった。


 "Robert."

 (ロバート)


 "Yes."

 (はい)


 "Were you thinking about this when we went today?"

 (今日行くとき、そういうことを考えていなかったのか)


 ロバートは正直に答えた。


 "I thought about it. But Aria had already told everyone to come."

 (考えました。でもアリアさんがすでに全員に来るよう言っていたので)


 "I see."

 (そうか)


 "Should I issue a statement?"

 (声明を出した方がいいですか)


 "No. Don't make it bigger."

 (いい。大きくするな)


 "Understood."

 (わかりました)


 "Robert."

 (ロバート)


 "Yes."

 (はい)


 "Today was a good day."

 (今日はいい日だった)


 ロバートは少し考えてから答えた。


 "……Yes. It was."

 (……そうですね。いい日でした)


 デイビッドからの返信はなかった。


 ロバートはスマートフォンを置いて、ベッドに横になった。


 大銀杏を結った力士が土俵に立つとき——というあの一節が、また頭の中で鳴った。


 どこで読んだか、明日調べようと思った。

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