土曜の夜の番外編「砂かぶりの午後、二枡分」(前編)
遼がなぜ国技館にいるのかといえば、説明は単純だった。
断り損ねた。
前日の夜にアリアからメッセージが来て、「パパが五月場所の升席を二枡取った。八席ある。あなたが来ないと七人になる」と書いてあった。七を二枡で割ると割り切れない。遼はその計算を脳内でやってしまい、気づいたら「わかりました」と返信していた。算数のせいだ。
朝、柊家のダイニングで。
「服、見せて」
「また?」
「また」
遼が着ていくつもりのものを出した。凛がそれを前に三秒だけ眺め、「今日はいい」と言った。
「なんで今日はいいんですか」
「悔しいけど、合ってる」
華が横から覗いた。
「シンプルでいいじゃん。升席って狭いし、動きやすい方がいいよ」
「升席行ったことあるのか」
「ない。でも知ってる」
そういうものかもしれなかった。
凛がトーストに手を伸ばしながら言った。
「私と華も行くから」
「知ってる」
「アリアさんから聞いたの?」
「うん」
凛がトーストを一口食べた。
「……事務所通じてデイビッドさんから声かけてもらったんだけど、アリアさんからも来てたんだ」
「来てた。全員分仕切ってた」
「……そっか」
それ以上は言わなかった。何かを考えているのは分かったが、遼は聞かなかった。
十一時、両国国技館の正面エントランス。
アリアが先に来ていた。白いTシャツにワイドパンツ、金髪を高く一つに束ねている。建物を見上げて、静かに言った。英語で。
"Finally."
遼に気づいて振り返った。
"You came."
(来た)
"You said to come."
(来るように言われたので)
"I wasn't sure you'd actually come."
(本当に来るか分からなかった)
"Why."
(なんで)
"Because you always say 'I have work.'"
(いつも「仕事があります」って言うから)
遼は少し考えた。
"I have work on other days."
(他の日に仕事があります)
アリアが「あはは」と笑った。
詩織は二人の少し後ろに立っていた。ベージュのワンピース、革のトートバッグ。出版社勤め一年目の、きちんとした服装だった。アリアの笑い声を聞きながら、遼の横顔を一秒だけ見て、また正面に戻った。
バッグの中には文庫本と、もう一冊、別の本が入っている。相撲の歴史に関する研究書で、付箋が十四枚貼ってある。担当させてもらっている作家の先生の新作テーマが相撲で、取材に同行するうちに自分でも読むようになった。今日持ってくる必要はなかったかもしれない。でも持ってきた。
ロバートが最後に来た。少し疲れた顔をしていたが、いつものことだ。
"Ryo. You actually came."
(柊さん、来てくださいましたね)
"I was invited."
(誘われたので)
"So was I. More accurately, I was told to come. And here I am."
(私も誘われました。正確には言われました。気づいたら来ていました)
ロバートの目が、どこか遠いところを見ていた。
デイビッドは凛と華と一緒に、通訳の岡本さんを連れて少し後から来た。白髪交じりの短髪、引き締まった体つき。エントランスの前で一度止まって、建物全体を見上げた。
「……鍛錬の場だ」
英語で言ったのを岡本さんが小声で訳した。凛が「鍛錬の場」と一回繰り返してから、表情を戻した。
華は純粋に嬉しそうだった。
升席は、縦に並ぶ二枡だった。四人ずつ。
アリアが仕切った。
「こっちが私と遼とロバートと詩織。あっちが凛と華とパパと岡本さん」
全員がそれぞれの場所に収まった瞬間、問題が起きた。
凛と華が、並んで升席に座っていた。
サングラスをかけている。帽子もかぶっている。
それでも、隣の升席の五十代の男性が動きを止めた。その奥の女性が二度見した。少し離れた升席のカップルが、声を落として何かを確認し合った。
凛は気づかないふりをし続けた。プロの所作だ。
華は肩を少し縮めた。
岡本さんが「大丈夫ですよ、今日はそういう日と思って」と小声で言った。
デイビッドは周囲の騒めきに気づいていないわけではないが、気にしていなかった。土俵の方を向いて、静かに目を細めている。武道で鍛えた人間の、重心の低い座り方だった。
遼と詩織とアリアとロバートの升席は、静かに始まった。
四人が膝を揃えて、前を向いた。
アリアが取組表を広げた。本物の取組表で、注目力士に自分でマーカーを引いている。三色ある。
"Ryo, today's main event is the third match in the afternoon."
(遼、今日の本命は午後三番目の取組)
"Which wrestlers?"
(誰ですか)
"Yamashiro-yama versus Kairyū. Kairyū's in his best shape in years. But Yamashiro-yama has been improving his tachiai every tournament."
(山城山対海龍。海龍は久しぶりに状態がいい。でも山城山は場所ごとに立ち合いが良くなってる)
遼は取組表を見た。名前は読めた。どちらの力士も知らなかった。
"How do you know that?"
(どこで知ったんですか)
"I watch."
(見てるから)
"Every tournament?"
(毎場所?)
"Every day of every tournament."
(毎場所、全日程)
"In California."
(カリフォルニアで)
"In California."
(カリフォルニアで)
"Alone."
(一人で)
"Alone. Nobody else wants to watch."
(一人で。他に見たい人がいないから)
詩織がその横で、自分の取組表を確認していた。少し間があって、
「山城山は右四つが得意。海龍はおっつけが強くて、組ませない展開に持ち込む。組めれば山城山、組まれる前に押し込まれると海龍が有利」
三人が詩織を見た。
詩織は前を向いたままだった。
「……詩織、相撲、知ってる?」とアリアが日本語で聞いた。
「少し」
「どこで」
「仕事で」
「仕事で……相撲?」
「担当させてもらってる作家の先生の新作が相撲をテーマにしていて。取材に何度か同行したので」
アリアが真剣な顔になった。
"Robert."
ロバートが顔を上げた。
"She knows sumo."
(詩織が相撲を知ってる)
"I heard."
(聞こえてましたよ)
"This changes things."
(状況が変わった)
「何も変わらないです」と詩織が静かに言った。日本語で。
アリアが詩織を見た。詩織もアリアを見た。
二秒の、静かな間。
ロバートは取組表を膝の上に置いて、なんとなく前を向いた。今日が面白い方向に転がる予感がした。
最初の取組が始まった。
行司が声を上げる。力士が土俵に上がる。仕切り線の前でじっと相手を見る、あの時間。
アリアが前に乗り出した。
"Watch the right foot. East side."
(東側の人の右足を見て)
遼は右足を見た。仕切りの間、わずかに重心が揺れている。
立ち合い。一瞬。
東側の力士が右を差して、一気に前へ出た。西側が耐えようとして、耐えられなかった。押し出し。
アリアが「ね」という顔をした。
"Right difference, right? Fast when it connects."
(右差しが決まれば速いって言ったでしょ)
遼がうなずいた。確かに速かった。
詩織が言った。
「右を差した瞬間に左の踏み込みが合わさってる。あの踏み込みの角度は、師匠から直してもらったって先生の取材ノートに書いてありました」
アリアが詩織を見た。
「取材ノート……読んだの?」
「コピーをいただいたので、予習しました」
「……よしゅう」
「先生が今日この取組を特に注目してると聞いてたので」
アリアの目が、少し細くなった。
ロバートが小声で遼に言った。
"Ryo. Are those two going to be okay?"
(柊さん、あの二人、大丈夫ですか)
"I think so. They're talking about sumo."
(大丈夫じゃないですか。相撲の話をしてる)
"Right."
(そうですね)
"It's not a bad thing."
(悪いことじゃないと思いますが)
"Right."
(そうですね)
ロバートには、何かが起きそうな予感と、何も起きないかもしれない予感が、同時にあった。どちらが正しいかは、もう少ししないと分からなかった。
隣の升席では、別の問題が静かに進行していた。
凛と華が座って四十分が経過していた。
周囲の升席では、もうほとんどの人が気づいていた。それでも誰も声をかけに来なかった。国技館という場所が「今は相撲を見る場所」という共通認識を持っていて、それが機能していた。
日本人のTPO感覚に、凛は静かに感謝した。
華はすっかり楽しんでいた。
「お姉ちゃん、さっきの力士の人、テレビで見たかも」
「あんまり指差さないで」
「指差してない、顎で指してる」
「顎でも分かる」
デイビッドが岡本さんを通じて凛に聞いた。
"Have you watched sumo before?"
(相撲は見たことがありますか)
「テレビでは少し。国技館は初めてです」
岡本さんが英語にする。デイビッドがうなずいた。
"When you watch, what part do you look at?"
(見るとき、どこを見ますか)
凛は少し考えた。
「表情です。立ち合いの前の、目線のやり取りが好きで。あの短い時間に、いろんなことが起きてる気がして」
翻訳される。デイビッドが前に少し乗り出した。
"Exactly right. The eyes before the charge——that is where it begins."
(正しい。立ち合い前の目——そこで全部始まっている)
「……そうなんですね」
"A person who has trained their body understands this. In jiu-jitsu it is the same. Before contact, everything is already decided."
(身体を鍛えた人間なら分かる。柔術でも同じだ。触れる前に、全部決まってる)
岡本さんが訳して、凛が「なるほど」と言った。それからデイビッドの横顔を一瞬だけ見た。
六十二歳。白髪交じり。土俵を見ている目が静かに輝いている。本当に好きなんだ、と思った。お世辞のない、純粋な眼差しだった。
"Rin."
デイビッドが岡本さんを通さずに、名前だけ言った。
凛が顔を向けた。
"Do you act in period dramas?"
(時代劇はやったことがありますか)
「二本ほど」と凛が答えた。「なぜですか」
"I thought so. Your posture is different from most people."
(そうか。普通の人と姿勢が違う)
凛がまっすぐデイビッドを見た。
「……ありがとうございます」
デイビッドは特に何も言わなかった。また土俵の方に目を戻した。
華がそっと凛の袖を引いた。
「……お姉ちゃん」
「なに」
「デイビッドさん、本物だ」
「そうだね」
「いい人だ」
「そうだね」
凛の声が、少し柔らかくなっていた。
午後に差し掛かった頃、遼の升席で、ロバートが前に乗り出していた。
気づいたら乗り出していた。
"Ryo."
"Yes."
"Was that oshi-taoshi? Just now."
(さっきの、押し倒しで合ってますか)
"Ask Aria."
(アリアさんに聞いたらいいと思います)
"Aria is busy with Shiori right now."
(アリアさんは今、詩織と話してて)
遼が横を見ると、アリアと詩織が取組表を挟んで何かを確認し合っていた。声音は穏やかだが、二人とも前を向いておらず、互いに向き合っていた。
「……oshi-taoshi と、hiki-otoshi、difference は?」とアリアが言った。
「引き落としは引きながら落とします。押し倒しは押しながら倒す」と詩織が答えた。
「……そのまま、ですね。Very literal」
「そのままです」
ロバートがメモをした。
なぜメモをしているのか、自分でも分からなかった。でも気になっていた。さっきの取組で、二人の力士が組んで、一気に動いた瞬間の速さ。あれだけの体重が、あのスピードで動く。
ロバートの頭の中に、どこかで読んだ記述が浮かんだ。
大銀杏を結った力士が土俵に立つとき、その静止は嵐の前の凪に似て——
どの小説だったか。あるいはどこかの随筆だったか。
次の取組が始まった。
ロバートは見た。
二人が仕切り線の前に立つ。睨み合う。仕切りが終わって、仕切る。それを繰り返すたびに、館内の空気が少しずつ違う色になっていく。
立ち合い。
ぶつかった瞬間の音が、想像より大きかった。
「おっ」
声が出た。
遼がちらりとロバートを見た。
"……The sound at the charge was just louder than I expected."
(立ち合いが、予想より音が大きかっただけです)
"Right."
(そうですね)
"I'm not particularly excited."
(別に興奮したわけでは)
"Right."
(そうですね)
ロバートは前を向いた。
土俵で二人がもつれた。大きな歓声があがった。
「あっ」
また声が出た。
今度は遼だけでなく、詩織とアリアも一瞬振り返った。
"……What was the winning technique?" とロバートが聞いた。
(……決まり手は何でしたか)
アリアが「うちがけ」と言った。
詩織が「内掛けです」と同時に言った。
二人が互いを見た。
またしても、二秒の間があった。




