第27.8話「構造が複雑なんだよね」
宮本奈々は、自分のことを分かっている人間だと思っていた。
二十年この世界にいた。嫌いな仕事もやった。投げやりな時期もあった。でも今は好きでここにいる。何が好きで、何が嫌いで、何を面白いと思うか——そのくらいは把握している。
していると、思っていた。
水城蒼真が帰ったのは、21時を少し過ぎた頃だった。
「ありがとうございます」と真剣な顔で頭を下げて、ドアを閉めていった。誠実そうな後ろ姿。あの子が柊華ちゃんを好きなのは、最初からずっと分かっていた。今日それを言葉にしたというだけの話で、奈々の中では特に新しいことではない。
でも「構造が複雑なんだよね」と自分で言った。
言ってから、少し止まった。
複雑、とは何が、どう、複雑なのか。
蒼真に聞き返されなくてよかった。答えられなかったと思う。
グラスを持ち直して、焼酎を一口飲んだ。
床に座る。ホテルの壁に背中をあずけて、膝を立てた。ショートピースを一本、口の端に挟んで、火をつける。
煙が細く上がる。
「構造が複雑」。
自分の感情を人に説明するとき、奈々はいつも言葉が足りないと感じる。感情を「出す」のではなく「滲ませる」タイプの人間なので、外に出す言葉が少ない。それで二十年やってきた。不自由したことはあまりない。
でも今夜は、自分自身に対して言葉が足りていない。
(どういう状態なんだ、私は)
華ちゃんのことを考えた。
最初に現場で会ったのは、クランクインの日。会議室に入ってきたとき、奈々はすぐに気づいた。「この子は違う」と。感覚で正解を出せる人間がいる。奈々にはそれができない。できないが、どういうものかは分かる。二十年で、そういう人間を何人か見てきた。
華ちゃんはその中でも特に、「いる」感じがする。役としてそこにいる、ではなく、人間としてそこにいる。その上に役が乗っている感じ。
(なんでキャリア五年でそれができるんだろ)
最初そう思ったのは、単純な職業的な興味だった。あの子の演技がどういう仕組みで成立しているのかが、面白かった。
職業的な興味、のはずだった。
あの子と話すと、少し変な感じになる。
「変な感じ」の解像度を上げようとして、奈々は煙を吐いた。
変な、というか——話していると、自分も少しちゃんとする感じがする。華ちゃんが何かについて本気で考えているとき、その横にいると、こっちも似たような温度になる。感染する、というのとも少し違う。あの子の集中が、場の空気を変えるというか。
「ちょっといいな」という気持ちはある。
ある、のは分かっている。
でも「ちょっといいな」が具体的に何を意味するのかを言語化しようとすると、どこかで手が止まる。
恋、と呼ぶには何かが足りない気がする。かといって友情や尊敬とも少し違う。
(名前をつけようとするから複雑になるんだよな)
そう思った瞬間、少し楽になった。
名前をつけなければ、そのままにしておける。そのままで十分だ。
ただ。
麻雀で言えば、この状況は何に近いか。
奈々は少し考えた。
——七対子か。
七対子というのは、同じ牌を二枚ずつ七組揃えた特殊な役だ。通常の面子を作る路線とは全然違う。戦略として成立はしているが、途中で方針が揺れると一気に崩れる。何をやっているのか外から見ると分かりにくい。自分でも「これで合ってるのか」と思う瞬間が来る。
でも揃ったときは、きれいだ。
(……七対子か)
なんの話をしているんだ、私は。
一人でつっこんだ。
蒼真のことを考えた。
あの子が華ちゃんを好きなのは、分かりやすい。真剣で、誠実で、変な計算がない。「かもしれません」と言いながらも、顔は全然「かも」じゃなかった。クランクインの日から顔が変わっていたし、台本の話をするときの声の種類が変わっていた。あの子は隠すのが上手くない。上手くないが、それが誠実さの証明でもある。
華ちゃんには合ってる。
奈々にはそれが分かる。二人が演技をしているとき、朔と葵の間に流れているものの質が、クランクインの日より確かに変わってきた。役と役の話だけじゃない。役の外側にいる人間同士の何かが、作品の中に滲み始めている。
それはいい変化だ。映画として、いい変化。
(私が横から出ていく気はない)
そう思って、一口飲んだ。
思いながら、(そもそもそういうんじゃないし)とも思った。
「そもそもそういうんじゃない」。
本当に?
少し間を置いた。
奈々には、好きになる相手の傾向がある。自分ではよく分かっている。その傾向から言えば、華ちゃんという人間は——外れていない。
でも、だから何だという話でもある。「外れていない」と「そういうことになる」は、全然別の話だ。
……多分。
「多分」が残ったのが少し気になって、また煙を吐いた。
「多分」というのは、確信がないということだ。確信がないというのは、ゼロではないということだ。
ゼロじゃないということは——
(七対子に戻るんかい)
また一人でつっこんだ。
麻雀のことを考えているのに気づくと、毎回「何してんだ私」となる。なるが、麻雀はいい例えを提供してくれることが多い。二十年かけて体に染みついている。感情を整理するとき、気づいたら牌の配置で考えていることがある。職業病というか、癖というか。
ただ今回の七対子は、我ながらよく分からない例えだった。
窓の外、東京の夜が続いている。
ホテルの高い階から見ると、光が多い。何千、何万の窓から光が出ている。みんな何かをしている。眠っている人もいるし、起きている人もいる。考えている人もいる。
華ちゃんは今頃、どこにいるんだろう。
マンションに帰って、台本を読んでいるかもしれない。プリンのことを考えているかもしれない。蒼真のことを——
(考えているかどうか、分からないな。たぶんまだ気づいてない)
それが、奈々には少し面白かった。
面白い、というのは笑えるという意味じゃなくて、もう少し温度のある意味で。「面白い人間だな」という感じ。あの子は感覚で正解を出せるのに、自分のことになると全然気づかない。
台本の中の人間のことは全部分かるのに。
(それが華ちゃんなんだよな)
分かっていて、面白い。
ショートピースが短くなってきた。灰皿に押しつけて、消した。
もう一本吸うか、やめるか、少し考えて——やめた。明日も撮影がある。声に影響が出る前に寝た方がいい。
焼酎のグラスを持ったまま、壁に背中をあずけたままの姿勢でいた。
蒼真が「構造が複雑、というのは……」と聞きかけて、止まった。
正解だ。聞かなくていいやつだった。
聞かれていたとしても、うまく答えられなかったと思う。
「華ちゃんの演技が面白くて、近くで見ていたくて、でもそれが恋愛的な何かかどうかは分からなくて、蒼真が好きだと言うならそっちを応援したいし、応援したい気持ちに嘘はなくて、でも横から出ていかないと決めているのに「多分」が残っていて、麻雀で言えば七対子に似ていて、それが何を意味するのかはまだ分からない」
——長い。
説明として長すぎる。これを「構造が複雑」の四文字に圧縮したのは、むしろ上出来かもしれない。
奈々は少し笑った。
「ははっ」と。声に出た。
理由は特にない。
ただ、自分が「七対子」で感情を整理しようとしていたことが、今更可笑しくなった。
麻雀は好きだ。面白いから続けてきた。将棋も面白い。タバコも焼酎も、面白い時期に始めた。
好きかどうかは後から分かってくる。最初は全部「面白い」から始まった。
華ちゃんのことも、最初は「面白い人間だ」と思っていた。
それが今、「ちょっといいな」になっている。
「ちょっといいな」が、この先どこへ行くかは分からない。
でも——華ちゃんのこと、ちゃんと見ていたい。
それは本当だ。確信がある。「多分」が残っているほかのことと違って、ここだけはクリアだ。
蒼真が華ちゃんと、ちゃんとそこに立てるように。
奈々も、ちゃんとそこで見ていたい。
グラスを置いて、立ち上がった。
背中が少し痛い。床に座りっぱなしだったからだ。現場の椅子で鍛えられてきたはずなのに、ホテルの床は勝手が違う。
スマートフォンを見た。蒼真からメッセージが来ていた。
「さっきはありがとうございました」
一行だけ。
奈々は少し考えて、返信した。
「頑張りな」
送ってから、少し考えて、もう一行追加した。
「ちゃんと仕事もな」
蒼真から「分かりました」と返ってきた。
即レスだった。
真面目か。
奈々は苦笑いしながら、スマートフォンをテーブルに置いた。
洗面台の鏡で自分の顔を見た。
別に特別な顔をしていない。二十年この顔を見てきた。見慣れている。
ただ、今夜は少しだけ、自分の顔に対して「何を考えているんだこの人は」という気持ちがあった。
七対子。
奈々はもう一度、一人でつっこんだ。
麻雀の手役で自分の感情を整理しようとするな。
でも、七対子は揃ったとききれいだ。それは本当だ。
不揃いのままでも、七対子の途中の手牌には独特の面白さがある。完成していないのに、何かが確かに積み上がっている。
奈々は鏡から目を離して、寝室に向かった。
明日も撮影がある。
華ちゃんの葵と、奈々の茉莉が、また同じ場所に立つ。
それを楽しみにしている。
その「楽しみ」に名前をつけるなら、今夜のところは「仕事が好き」で十分だ。
残りの部分は、七対子の途中の牌として、しばらくそのままにしておく。
布団に入った。
天井を見た。
(構造が複雑なんだよな、ほんとに)
今度は声に出さずに思って、目を閉じた。
東京の夜は、まだ続いている。




