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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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「柊華、歌舞伎町に行く」後編

「あら!! 華ちゃん!! こんなとこで何してるの!!」


 芦沢あしざわ雪子ゆきこさんの声が居酒屋に響く。


 カウンターにいた全員がのれんの方を向いた。


 華は「あ、ロケで……」と言いかけて、芦沢さんの隣に三枝さえぐさゆたかさんがいることに気づき、その隣に別の顔があることに気づき、その向こうにもあることに気づき、カウンター全体を目でなぞって大体の状況を把握した。


 五人。全員が業界人。全員がはるかに上のキャリア。


 でも全員が、にこにこしながらこちらを見ていた。


「ちょうどよかった! 来なさい来なさい!」


 芦沢さんが有無を言わさず隣の席を空けた。


 田村が「あの……」と言いかけた。


「マネージャーさんも! カメラの方も! みんな来なさい!!」


 有無を言わさなかった。


 田村は松田と目を合わせた。松田は「なるようにしかならないですね」という顔をした。田村は「その通りです」という顔をした。カメラマンはとりあえずカメラを回し始めた。


   


 五分後、華は大御所に囲まれてカウンターに座っていた。


 芦沢雪子さん(女優歴三十五年・日本映画界の顔)が華の左。三枝豊さん(監督歴三十年・カンヌ常連)が右。津村つむらふみさん(脚本家・六十代・映画賞常連)が三枝さんの隣。望月もちづきまことさん(大手映画会社プロデューサー・五十代)がその隣。まゆずみすずさん(女優歴五十年・七十代・伝説)がカウンターの端。


 全員ににこにこされている。


 松田ディレクターは少し離れた場所で「これ本当にロケとして成立するのか……」という顔をしていた。田村は「あとで全員に許諾を取らなければ……」という顔をしている。カメラマンは黙って回し続けていた。


「華ちゃん、何飲む?」と芦沢さんが聞いた。


「えーと、ウーロン茶で」


「ウーロン茶!!」


 なぜか芦沢さんが爆笑した。体ごと笑っていた。


「律義!! 律義だわ!! 三枝さん見て!! 律義よ!!」


「凛ちゃんそっくりだな」と三枝さんが静かに言った。


「でもこの子の方がぐにゃっとしてる。凛ちゃんはシャキっとしてて、こっちはぐにゃっとしてる」


「ぐにゃっとしてますか、私」


「してる。いい意味で」


「どういう意味でいい意味なんですか」


「柔軟性がある、ということ」


「なんかいい言い方にしてくれた気がします」


 三枝さんが「そのままでいい」と言った。褒めているのかどうか微妙なニュアンスだったが、華は「ありがとうございます」と言っておいた。


 カウンターの向こうで、店のおじさんが「……柊華ちゃん?」と言いながら水を持ってきた。


「そうです!!」


「テレビで見てるよ。可愛いね」


「ありがとうございます!!」


「こんなとこ来るんだ」


「ロケで来たんですが、色々あって」


「色々あるよな、この辺は」とおじさんが言った。妙な説得力があった。


   


 津村さんが華の顔をまじまじと見ていた。


「初めてじゃないですよ、私たち」と津村さんが言った。


「え、そうでしたっけ」


「三年前、授賞式で一度」


「あっ……!」


「覚えてないでしょ」


「いや、覚えてます! 脚本を書かれた方ですよね」


「そう。あのとき華ちゃんがスピーチして、泣いてる人がいた」


「あの授賞式、私も泣きそうになりました」


「あなたのスピーチで泣きそうになるってどういうことなの」


「なんか、言いたいことが多すぎて言えなくて、でも言えなかったことがちゃんと言えた気がして、それで」


「それで泣きそうになった?」


「なりました」


 津村さんが少し笑った。「変な子ね」


「そうですか?」


「自分のスピーチで泣きそうになる人はあまりいない」


「でも言えた気がしたとき、ありませんか。この感じ、みなさんにも」


「あるよ」と芦沢さんが言った。「あるあるある。セリフが言えたとき、台本の言葉じゃなくなる瞬間がある」


「そうです!! そういう感じです!!」


「この子、分かってる」と芦沢さんが三枝さんに言った。


「まあそうだろうな」と三枝さんが言った。


 華は「まあそうだろうな、の意味が気になる」と思いながらウーロン茶を飲んだ。


   


 お通しが来た。冷奴と枝豆と漬物。


「食べていいよ」と黛さんが皿を押してくる。七十代の伝説の女優が、華に向かってお皿を押してくる。


「ありがとうございます!!」


「若い子はたくさん食べなきゃ。撮影してるんでしょ、体が資本よ」


「は、はい!!」


「いくつ?」


「二十歳です」


「二十歳!!」芦沢さんがまた声を上げた。「もう主演はってるの?! 黛さん、二十歳よ!!」


「知ってるわよ」と黛さんが静かに言った。「見てるから」


「見てくださってるんですか」


「見てる。気になってたから」


「……ありがとうございます」


「お礼はいい。で、あなたって演技するとき、何を考えてるの」


 華は少し止まった。


「何を……というと」


「現場に入ったとき。頭の中に何がある?」


「えっと……その人がいます」


「その人、って」


「演じる役の人が、もう頭の中にいる感じで。あとはその人が動いてくれるのを待ってる感じで」


 黛さんが少し黙った。


「動いてくれる、って言い方が面白い」


「変ですか」


「変じゃない。それが本物の言い方ね」


「本物」


「自分で動かそうとしてる人は『動かす』って言う。あなたみたいに『動いてくれる』って言う人は、役と別の関係になってる」


 華は少し考えた。


「……そういう感覚、ありますよ。役に嫌われると動いてくれないし」


「役に嫌われる!!」芦沢さんがまた声を上げた。「そういう感覚、あるあるある!! 三枝さん、この子面白いわよ!!」


「分かってる」と三枝さんが言った。


 華はウーロン茶を飲みながら「分かってる、の意味がやっぱり気になる」と思った。


   


「華ちゃん、今夜なんで歌舞伎町に?」と津村さんが聞いた。


「YouTubeのロケで……ゲイバーに行こうとしたら、お忍びの方々がたくさんいて撮れなくなって」


 しばらく沈黙があった。


「誰がいたの」と三枝さんが静かに聞いた。


「言えないんですが……結構いました」


「Kか?」


「言えないです」


「あいつ最近そこばかり行くって聞いてたな」


「言えないです」


「Mは?」


「言えないです」


「……そうか」


 三枝さんが納得した顔で枝豆を食べた。


「Dも?」と望月さんが横から聞いた。


「言えないです」


「帽子被ってた?」


「……言えないです」


 望月さんが「あいつか」という顔をした。


「今日ここには来なかったんだな」と芦沢さんが言った。


「みなさんはよく来るんですか、ここ」


「たまにね。落ち着けるから」


「歌舞伎町で落ち着ける場所を見つけてるんですね」


「長くやってると、自分の場所ができるのよ」


「ここは年齢関係ないの!! いいお酒があるから!!」


「なんで急に声が大きくなるんですか」


「大事なことだから!!」


 黛さんがため息をついた。「芦沢さんは昔からこう。声が大きいだけで、怒ってはいない」


「そうなんですね」


「慣れてる人には分かる」


 華は「この二人、仲がいいんだな」と思いながら枝豆を一粒食べた。


   


「華ちゃん、お姉ちゃんとは仲いいの?」と芦沢さんが聞いた。


「仲いいです!!」


「姉妹で同じ仕事って、どうなの? 張り合ったりしない?」


「張り合わないですよ。お姉ちゃんの方が全然すごいので」


「そんなことない」


「いや、すごいんです。計算して作れるじゃないですか、お姉ちゃんって。どのシーンで何をするか全部分かってて、設計して演じる。私はなんか気づいたらなってる感じなので、そっちの方が羨ましくて」


「羨ましいの?」と黛さんが聞いた。


「羨ましいです。私のやり方って、自分で制御できないんですよ。良くなるのか、ならないのか、やってみるまで分からない。お姉ちゃんみたいに設計できれば、もっと安定すると思って」


「設計できることが必ずしも強みじゃないよ」と津村さんが言った。


「どういう意味ですか」


「脚本を書くとき、設計通りに進む場面より、設計から外れた場面の方が面白くなることがある。書いてる自分が予想しなかった言葉が出てきたとき、たいていそっちの方がいい」


「……そうなんですか」


「人間が作るものって、全部そうだと思う。設計の価値は、設計から外れるための土台になることにある。設計を持ってないと外れられない。でも設計通りに終わると、何かが惜しい」


 華は少し考えた。


「お姉ちゃんはその設計から外れたことが、一回だけあったんです」


「いつ?」


「二十一歳のとき。深夜ドラマで主演した役で。あのときだけ、お姉ちゃんが設計から外れてた」


「見た」と津村さんが言った。「桐島菜摘きりしまなつみね。DVを受け入れ続けた女の子の」


「そうです!」


「あれは良かった。脚本を書いたのは知り合いで、撮影前に読ませてもらってたんだけど、正直あの役が凛ちゃんで成立するとは思ってなかった」


「えっ、そうなんですか」


「凛ちゃんって安定してるじゃない。どんな役でもきれいにまとめる。それが強みだけど、菜摘みたいに壊れていく役には、その安定が邪魔になることがある。だから心配してた」


「でもお姉ちゃん、やりましたよね」


「やった。あの子が菜摘の手紙を読むシーン、私は現場で見てたんだけど、カット後に誰も声を出せなかった。スタッフも演出も、しばらくそのままでいた」


「……知らなかったです、そんな話」


「凛ちゃんには言ってないかもしれない。あの子、現場での評判をあまり気にしないから」


「気にしないですよ、確かに」と華が言った。「家でもそんな話しないし」


「あの役以来、凛ちゃんへの見方が変わった。設計できる人が一回だけ設計を手放すと、ああいうものが出てくるんだと思って。それはその後の仕事でも生きてる」


「お姉ちゃん、気づいてるかな」


「どうかしら。あの子は自分の演技を信じてないから」


「信じてない?」


「凛ちゃんって、自分のことを天才じゃないと思ってる。それが正しいかどうかは別として、そういう目で自分を見てる。だから一番いい瞬間が、本人には分からないのよ」


 華は少し黙った。


「……それ、なんか分かる気がします」


「あなたも?」


「私は逆で、天才って言われるのが怖いんです。天才じゃないのに天才って言われてる気がして」


「なんで天才じゃないと思うの」


「自分では分からないから。役に入れてるのか、入れてないのか、やった後で分からないんです」


「それが天才の条件よ」と津村さんが言った。


「そうですか」


「また言った」と津村さんが笑った。


「……すみません」


「謝らなくていい。面白いから」


 芦沢さんが「津村さんって、たまにいいこと言うよね」と言った。


「たまに、は余計よ」


「ずっといいこと言ってるよ」


「最初からそう言いなさい」


 華は「なんか、楽しい」と思いながら枝豆を食べた。


   


「『そうですか』、さっきから何回言ってるの」と津村さんが笑った。


「え、何回ですか」


「数えてないけど、みんなに言われるたびに『そうですか』って返してる」


「それはたぶん、すぐに信じられないので」


「なんで信じられないの」


「だって言ってくれる方たちのこと、すごいと思ってるので。そのすごい人に言われても、自分のこととして処理するのに時間がかかるんです」


 津村さんが少し黙った。


「それは誠実な反応ね」


「そうですか」


「また言った」と津村さんが笑った。


 華は「あ、また言ってしまった」と思ったが、どうしたらいいか分からないのでウーロン茶を飲んだ。


 カメラがこちらを向いている。松田ディレクターが後ろでメモを取っていた。


「松田さん、大丈夫ですか」と華が聞いた。


「……正直すごいものが撮れてます」と松田が小声で言った。


「そうですか」


「こういう絵は二度とないと思うので……でも許諾が……」


 芦沢さんが「あなた、楽しんでる?」と松田に向かって言った。


「楽しんでます、すみません」


「謝らなくていいわよ!!」


「……ありがとうございます」


「三枝さん、この子もいい子ね」


「ディレクターのことは評価できない」と三枝さんが言った。


「なんで」


「それはまた別の仕事だから」


 松田が「ありがとうございます……」と言った。何に対してお礼を言っているのか自分でも分からない顔だったが、三枝さんは特に気にしなかった。


   


 いつの間にかお鍋が出てきていた。


 誰が頼んだのかよく分からなかったが、望月さんが「飲んでる間は鍋がいい」と言ったらしく、店のおじさんが運んできた。


「ここのお鍋、前から好きで」と芦沢さんが言った。


「ここ、よく来るんですか」


「たまに。昔、ここの近くで撮影があって、それからずっと。あの頃はまだ若くて」


「若い頃から女優だったんですか」


「十七歳からよ」


「十七歳!!」


「今の華ちゃんより全然若い頃からやってる」


「すごい……」


「すごいとは思ってなかったよ、当時は。当たり前のことをやってるだけで。でも続けてみたら、ここまで来てた」


「気づいたら、って感じですか」


「そう。気づいたら来てた。華ちゃんも、気づいたらなってる、って言ってたじゃない」


「ああ……」


「同じかもしれないよ。根っこが同じ」


 華は少し考えた。


「でも芦沢さんの年数って、私の人生の倍以上あるんですよ」


「そうね」


「それだけ続けてこられたのって、なんでですか」


「なんでだろうね」


 芦沢さんが少し考えた。珍しく静かな顔をした。


「面白いから、だと思う。まだ面白いから続いてる。つまらなくなったら多分やめてた」


「まだ面白いんですか」


「まだ面白いよ。華ちゃんみたいな子に会えるから」


「私に会えるからですか?!」


「そう!! 若い子が面白いことをやってると、こっちも面白くなってくるから!! 三枝さんはどう思う?」


「同じことだ」と三枝さんが言った。


   


 華は白菜を箸で引き上げながら、黛さんの方を向いた。


 黛さんはさっきから、静かにお酒を飲んでいた。話に加わらないが、聞いていないわけじゃない。時々目が合う。


「黛さんって、七十代ですよね」


「そうよ」


「今も現場に入ってるんですか」


「入ってる。少なくなったけど、来たら行く」


「どんな気持ちで行くんですか」


「どんな気持ち?」


「怖くないんですか。演じることが。七十代になっても」


 黛さんが少し間を置いた。


「怖い、という感覚がどういうものか、忘れてきてる」


「忘れてきてる?」


「若い頃は怖かった。失敗するのが怖くて、うまくできないのが怖くて。でも何十年もやってると、怖さより先に来るものが出てくる」


「何が来るんですか」


「やりたいかどうか。怖いより先に、やりたいかどうかが分かるようになる」


「……やりたかったら怖くても行く、ということですか」


「そう。怖さは消えないけど、やりたいの方が大きくなる」


 華は少し考えた。


「それって、何年くらいかかりましたか」


「あなたが今二十歳でしょ。三枝さんはいくつ?」


「今年六十八だ」と三枝さんが言った。


「私は七十二。このカウンターに座ってる人間の年齢を全部足したら、五人で三百年くらいになる」


「三百年!!」


「その三百年が全部、あなたと同じことをやってきた分よ。どのくらいかかるかは、やってみないと分からない」


 芦沢さんが「黛さんって、たまにすごいこと言うよね」と言った。


「たまに、は余計よ」


「ずっとすごいこと言ってるよ」


「最初からそう言いなさい」


 華は「さっき津村さんと同じやり取りをしてる」と思った。このメンバーで何十年もやってきたら、そういうやり取りが染みついていくんだろう。


「豆腐、おいしいですね」と華が言った。


 全員が少し笑った。


 黛さんが「そういうところよ」と言った。


「どういうところですか」


「大事な話をした後に、豆腐の話をする。それがあなたの強さ」


「……そうですか」


「そうよ」と芦沢さんが言った。「重くならないの。重い話をされても、豆腐の話ができる人って、なかなかいない」


「そういうものですか」


「そういうもの。三枝さんもそう思うでしょ」


「思う」と三枝さんが言った。


「三枝さんが二回連続で同意してる……」と津村さんが言った。


「事実だから」


「気に入ってるってことよ」と芦沢さんが笑った。


「気に入ってない。評価してる」


「同じでしょ」


「違う」


 華は豆腐を食べ終わって、次の白菜を取った。


   


 解散の時間になった。


 三枝さんが会計を全部払おうとして、芦沢さんが「私も出す」と言って揉めた。津村さんが「割り勘にしましょう」と言い、望月さんが「いや私が」と言い、黛さんが「こういうとき一番の年長者が払う」と言って財布を出した。


 五人が同時に財布を出した。


 収束するまで三分かかった。


 最終的に望月さんが全員分を立て替えて「あとで精算します」という形に落ち着いた。


 華は「私も出します」と言った。


「いいのいいの!!」と芦沢さんが言った。


「でも……」


「あなたは来てくれたんだから、それでいい!! 払わせてよ!!」


「黛さんが払うって言ってるのに」


「払います!」


「じゃあまあ、ありがとう」


「ありがとうじゃないでしょ!」と芦沢さんが言った。


「黛さんは素直じゃないのよ」と芦沢さんが華に言った。「本当は嬉しいの」


「違う」


「嬉しいでしょ」


「……まあ」


 黛さんが「まあ」と言った瞬間、芦沢さんが「ほら!!」と指差した。黛さんがため息をついた。


 華はその一連を見ながら「ずっと仲がいいんだな」と思った。


   


 のれんの外に出た。


 夜の歌舞伎町、さっきより人が増えている。ネオンがきらきらしている。遠くで誰かが叫んでいた。


「華ちゃん、また一緒に仕事しましょう」と芦沢さんが言った。


「はい!! ぜひ!!」


「元気な子は見てると気持ちいい。凛ちゃんとはまた違う元気さ。どっちも好き」


「ありがとうございます!!」


「三枝さんもそう思うでしょ」


「思ってない」と三枝さんが言った。


「うそ!!」


「思ってないけど、機会があれば一緒に仕事したい」


「それ思ってるってことじゃないですか」と津村さんが笑った。


「違う」


 華は全員に頭を下げた。一人ずつ、ちゃんと目を合わせて。


 黛さんが華の前で少し止まった。


「さっき言ったこと、忘れないで」


「忘れません」


「感覚を信じる胆力。それがあれば、あとは時間が教えてくれる」


「……はい」


「じゃあよし」


 タクシーが三台来た。芦沢さんが「また飲みましょう!!」と言いながら乗り込んだ。津村さんが「今日は面白かったよ」と言って乗り込んだ。望月さんが「許諾はちゃんと取ってください」と松田に言って乗り込んだ。黛さんが無言で乗り込んだ。


 最後に三枝さんが振り返った。


「凛ちゃんによろしく」


「伝えます」


 三枝さんが少し間を置いた。


「また会おう」


 タクシーが走り去った。


 路地に華と田村と松田とカメラマンの四人が残った。


 しばらく誰も何も言わなかった。遠くで誰かが笑っていた。


 松田が「……すごいものが撮れました」と言った。


「そうですか」


「ゲイバーのロケより全然すごいものが撮れました。というかゲイバーの比じゃない」


「よかったです」


「本当に大丈夫でした? あの方々に囲まれて」


 華は少し考えた。


「楽しかったです」


「そうですよね……」松田がしみじみと言った。「柊さんって、こういうとき本当に自然ですね」


「どのへんが」


「豆腐を普通に食べてたので」


「おいしかったので」


「大御所五人に囲まれながら豆腐に集中できる人って、なかなかいないと思います」


「でも豆腐、本当においしかったんです」


 田村が「そういう人なんです」と松田に言った。


「そうなんですね……」


「ゲイバーでKさんが移動してるのを見てても、Mさんのサングラスが二枚になってても、全然動じてなかったので」


「あれ気づいてたんですか」


「気づいてましたよ。面白いなと思って」


「……面白いなと思ってたんですね」


 松田が少し遠い目をした。


「いい撮影でした」と松田が言った。


「よかったです!!」


   


 柊家に帰ったのは夜の十一時過ぎだった。


「ただいまー」


 リビングに凛と遼がいた。凛がソファで台本を読んでいて、遼が作業台で部品を触っていた。


「遅かったね」と凛が言った。


「ロケが色々あって」


「どうだった?」


 華はソファに倒れ込んだ。


「ゲイバーに行ったら、お忍びの芸能人だらけで全員カメラNGで撮れなかった」


「……大変だったね」


「Kさんが横に移動してって、最終的に一メートルくらいずれてた」


「Kさん!?」


「サングラスが二枚重ねになってる人もいた」


「誰……」


「言えないけど、なんかすごかった。それでしょうがないから歩いてたら居酒屋があって、入ったら三枝さんと芦沢さんと黛さんがいた」


 凛が少し止まった。


「……三枝さんって、あの三枝さん?」


「うん」


「芦沢さんは、あの?」


「うん」


「黛さんは……」


「七十代の黛さん」


 凛がゆっくりと台本を閉じた。


「すごい夜だったね」


「すごかった!! 豆腐もおいしかった!!」


「豆腐」


「お鍋が出てきて、豆腐が」


「大御所五人に囲まれた話と、豆腐の話が同列なの」


「おいしかったんだもん」


 遼が「三枝さんてYouTubeの人?」と聞いた。


「違う。映画の監督」


「そうか」


「お姉ちゃんによろしくって言ってた」


 凛がスマホを持ったまま「え」と言った。


「三枝さんが?」


「うん」


「……なんで私の名前が」


「有名だからじゃない? あと、津村さんが菜摘の役の話をしてくれて」


 凛が「菜摘」と繰り返した。


「あのドラマ、家で見てて怖くなったって言ったら、それが一番いい感想だって言ってくれた」


「津村さんが?」


「うん。言葉にならないものが、いい感想だって」


 凛が少し黙った。


「……津村さんに言ってもらえるのは、相当なことだよ」


「そうなの?」


「あの人の言葉は重いから」


「そっか」


 黛さんに言ってもらったことも伝えようと思った。感覚を信じる胆力、って。


「あと黛さんにもいいこと言ってもらった」


「何を」


「感覚を信じる胆力、って」


 凛が少し止まった。今度はさっきより長く止まった。


「……それは、相当な言葉だよ」


「そうなの?」


「黛さんから直接もらえる言葉って、そんなに多くないから」


「そっかー」


 華はソファで天井を見た。


「今日、なんか色々あった気がする」


「色々あったみたいね」と凛が言った。


「でもやっぱり豆腐が一番おいしかった」


「豆腐をそこまで推すの、華らしい」


「おいしかったんだもん!!」


 遼が「うるさい」と言った。


「ごめん」


 華はそのままソファで目を閉じた。


 ゲイバーで固まったKさんの顔、芦沢さんの声、黛さんの言葉。鍋の豆腐の味。


 全部が今日一日で、全部がなんか良かった。


 特に黛さんの「感覚を信じる胆力」は、明日の撮影まで覚えていようと思った。


 特に豆腐は、今度遼に作ってもらおうと思った。


「遼、鍋の豆腐って作れる?」


 目を閉じたまま聞いた。


「豆腐は買うものだろ」


「鍋に入れるやつ」


「それも買うものだろ」


「……そっか」


「居酒屋の豆腐がうまかったなら、居酒屋に行け」


「また行きます」


「そうしろ」


 遼はまた部品に戻った。


 華は目を閉じたまま、少し笑った。

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