「柊華、歌舞伎町に行く」前編
企画書のタイトルは「話題のニューハーフバー潜入! 柊華、夜の歌舞伎町を行く!!」だった。
企画を持ってきたのは、事務所のYouTubeチャンネル担当ディレクターの松田。三十代で、髪をざっくり上げていて、打ち合わせのあいだ終始テンションが高かった。
「柊さん、ゲイバーって行ったことあります?」
「ないです」
「じゃあ完璧! 初見の反応が一番面白いから!」
「行きます!!」
田村が横で「大丈夫ですか」という顔をしていたが、華はもう返事をしている。
知らないところに行くのは好きだ。芸能界に入ってから、知らない場所に行くたびに何か面白いことが起きてきた。ゲイバーも例外ではないはずだ。というか、例外じゃない方がいい。
「田村さん、大丈夫ですよね」
「……大丈夫かどうかは行ってみないと分からないですが」
「それが大丈夫ってことです!!」
「そういう論理じゃないんですが……」
田村はその日の夜、スケジュール帳に「要警戒」と書いた。でもどこを警戒すればいいのか分からなかったので、下に「(全体的に)」と書き足した。
撮影当日、夜の八時。
歌舞伎町の路地に立つと、音と光と人の密度が全部違う。ネオンと電飾と幟と、どこかから呼び込みの声。においも複数ある。それが全部まざって、どこかと全然違う空気になっていた。
華は「なんか面白い」と思いながら、松田の後ろをついていく。
「あのビルの三階です」と松田が言った。
「キラキラしてる!!」
「でしょ! ビルの外観はそうでもないんですけど、中に入ると全然違うんですよ」
「楽しみ!!」
田村は周りをちらちら確認しながら「念のためマスクはしておきますか」と言った。
「大丈夫じゃないですか! 夜だし!」
「いや、歌舞伎町だから逆に目立つかもしれないんですが……顔が見えないのに、体型とか歩き方とかで分かる人には分かりますし……」
「どっちにしろ目立つなら大丈夫です!!」
「そういう論理じゃないんですが……」
「行こ!!」
田村は「はい」と言って、胃のあたりをそっと押さえた。このポーズも何度目かになってきた。
ビルのエレベーターは古くて、ボタンを押してから来るまでが少し長かった。
四人で乗り込んで、三階のボタンを押す。
「ちなみに」と松田がエレベーターの中で言った。「このお店、予約制なんですよ」
「え、予約してくれてたんですか」
「はい。事前に事情を説明して、撮影の許可も取ってあります」
「すごい!! ありがとうございます!!」
「仕事なので……ただ、お店側は華さんが来ることを知らないで、若い女性が来るとしか聞いていなくて」
「どうして言わなかったんですか」
「サプライズの方が面白い絵が撮れるかなと思って」
「いいですね!!」
田村が「いいんですか……」と言いたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
エレベーターが三階に着いた。
ドアの前に小さな看板。ピンクのネオンで店名が書いてある。下に「WELCOME」と英語でも書いてある。
「いいですね!!」
「さあ、入りましょう」と松田が言った。
ドアを開けた瞬間、音楽が来た。
八〇年代のディスコ系で、音量が思ったより大きい。間接照明がピンクとパープル。カウンターの上にシャンパングラスが並んで、壁にはキャストの写真がずらりと貼ってある。まだ開店したてなのか、お客さんはほぼいない。
「いらっしゃいませ!!」
お迎えに来たのは、長い脚と完璧な姿勢の人だった。女性か男性かというより、どちらでもあるような輪郭。艶やかな黒髪で、目元のメイクが美しかった。
「初めて? 可愛い!!」
「ありがとうございます!!」
華は即座に笑顔で返す。条件反射だ。
「緊張しないでいいよ、ここはみんな優しいから」
「はい!!」
「全然緊張してないね、この子」と松田に言った。
「そうなんです、いつもこうで……」
「素直で可愛い!! お名前は?」
「柊華です!」
一瞬の沈黙。
「……柊華ちゃん?」
「そうです!!」
「あの、柊華ちゃん?」
「そうです!!」
「うそ!! 本物!!?」
「本物です!!」
カウンターの奥にいた別のキャストが「えっ」と立ち上がった。華が手を振ったら、二人が揃って「かわいい!!!!」と声を上げた。音楽に負けない声量だった。カウンターに貼ってある写真の中に華のものも一枚あって、そっちを指差しながら何か言っている。
田村がうっすら笑いながらメモを取っている。
席に案内されて、カウンターに座る。
席に落ち着いたとき、奥からもう一人出てきた。最初に迎えてくれた人より少し背が低くて、声がよく通る。
「あのー、もしかして柊華ちゃんですか?!」
「そうです!!」
「やっぱり!! 壁の写真と見比べてたんですけど、同じ顔すぎて!!」
壁を見ると、キャストの写真に混じって華の写真が一枚貼ってあった。雑誌の切り抜きらしい。
「貼ってくれてるんですか!!」
「ファンなの!! 映画全部見てて!!」
「ありがとうございます!!」
「うちにも映画好きの子がいて、絶対会いたいって言うんですけど、呼んでいいですか」
「いいですよ!!」
「やった!!」とその人が奥に引っ込んでいった。
「ドリンク、何にします?」と最初に迎えてくれた人が聞いた。
「えーと、ウーロン茶で」
「え、飲まないの?」
「一応お仕事なので」
「真面目!!」
「真面目ですか」
「真面目で可愛い!! 芸能人ってみんなこんな感じじゃないよね、もっとお酒飲む人の方が多い」
「そうなんですか」
「お姉ちゃんは? 凛さんはどんな感じ?」
「家ではたまに飲んでます」
「家では!? じゃあ家の凛さんってどんな感じ?」
「うるさいです」
「うるさい!!?」
松田が「それ絵になりますね」と小声で言った。田村が「放送できる内容であれば」と小声で返した。
しばらくして、奥から一人出てきた。
背が高くて、ふわっとしたシルエットのドレス。ロングヘアで、目元が少し赤かった。泣いてたのか、それとも興奮しているのか。
「華さんですか!!?」
「そうです!!」
「本物だ……!!」
「本物です!!」
「握手してもいいですか!!」
「もちろんです!!」
握手した。少し手が震えていた。
「映画、全部見てます」
「全部!! ありがとうございます!!」
「うちに来てくれたの、信じられない……映画を劇場で見てから、ずっと好きで」
「どれが一番好きでしたか」
「十九歳のときの主演映画! あの役、どうやって作ったんですか」
「えーと、台本を読んで、この人の過去を全部自分で作っていって……」
「それが画面に出てるんですね……」
「そうだといいんですけど、分からなくて」
「出てます!!」
「そうですか!!」
「うちに来た人で初めて、映画の話が通じる人だ……」とその人が言った。
「みんな映画の話しないんですか」
「しない! する人もいるけど、華さんみたいに本人から聞けるとは思ってなかった」
松田がまた「絵になりますね」と小声で言った。田村が「放送できれば」とまた小声で言った。
松田が「では撮影の段取りを——」と言いかけたとき、カウンターの端の方で気配がした。
誰かがこちらを見ている。
振り返ると、マスクをした人間がグラスを持ったまま固まっていた。
身長と体格と、ちょっとだけ見えている目と、あとそのマネージャーに事務所で何度か会ったことがある。
「……えーと」
「違います」とその人は言った。
「あ、でもKさんじゃ——」
「違います」
Kさんはグラスをゆっくりとカウンターに置いて、さりげなく体ごと向こうを向いた。
存在を消そうとしている。
消えきれていない。
その人が華の耳元で「……あの人、よく来てくれるんですけど、絶対に本名は言わないんです」と小声で言った。
「そうなんですね」
「そういうものなんです、ここは」
「なるほど」
「みんなここでは、ここだけの自分でいる感じで」
「いい場所ですね」と華が言った。
「華さん、めっちゃ分かってる!!」とその人が言った。
松田が田村のそばに寄ってきた。
「あの、ちょっと問題が……」
「はい」と田村が静かに言った。
「Kさんだけじゃなくて……あそこ」
視線で示した先に、大きなサングラスをかけた人影があった。
「……Mさんですね」
「そうなんです。しかも奥の席にも……」
「三人目がいますね」
「四人目もいます」
「……」
「五人目、今トイレから戻ってきました」
田村が静かに天井を見た。
五人。
全員がお忍びで、全員がマスクかサングラスかキャップかで顔を隠していて、全員が「見なかったことにしてください」というオーラを出している。
Kさん(大手事務所・俳優・40代)はグラスを持ったまま動かない。Mさん(伝説の歌手・50代)はサングラスを二枚重ねにし始めている。Dさん(人気お笑い芸人・30代)は帽子を深くかぶり直している。残りの二人は業界関係者らしく、華が顔を見るたびに体を小さくする。
華だけが普通の顔で座っていた。
「あの」と華が松田に聞いた。「撮影、始めていいですか?」
「……それが、今日はちょっと難しくなりまして」
「どうして」
「いらっしゃる方々が、カメラに映るとちょっと困るという感じで」
「あ、なるほど」
「はい……」
「全員ですか」
「全員です。カウンターの方全員です」
華はお店の中を見渡した。
L字型のカウンターが大半で、あとは壁とドアと、奥に小さなステージ。
「じゃあカウンター以外を撮ればよくないですか」
「そうなんですが、カウンター以外がほぼ壁で……」
「壁は?」
「壁だけだと、ゲイバーのロケとしては……」
「確かに」
「はい……」
松田が心底申し訳なさそうな顔をした。
「事前に確認しなかった私のミスで、本当に申し訳ないです」
「いや、松田さんのせいじゃないですよ。誰がこんなに来るって思います」
「そうなんですが……」
「こういうことって、なってみないと分からないから面白いんですよね」
「……そういう考え方もありますね」
「田村さんはどう思いますか」
「どう思うかというより、今後の段取りを……」
その間も、Kさんはじわじわとカウンターの奥に移動している。自席から一メートルほど横にずれていた。
華はそれを見ながら「Kさん、移動してる」と思った。でも特に指摘しなかった。さっき言ってもらったように、ここではみんなここだけの自分でいる。それでいいと思う。
「一回外に出ましょうか」と田村が言った。
「また来てください!!」と声がした。
「また来ます!!」
「次は撮影なしで!!」
「来ます!!」
松田が「……あの、それはまた別の機会に」と言った。
三階から出て、路地に三人が並ぶ。
夜の歌舞伎町。さっきより人が増えている。ネオンの数も増えた気がする。カメラマンだけが「どうします?」という顔で立っていた。
「どうしましょう」と松田が言った。
「どうしましょう」と田村が言った。
「どうしましょう」と華が言った。
三人で路地に立ったまま、しばらく無言。遠くで誰かの笑い声がした。
「企画、なんとかなりますか?」と華が聞いた。
「正直……ゲイバーのロケが成立しないので、代替案が必要で」
「代替案」
「近くで別の場所に入るとか……何か面白いところがあれば」
「どこかいいとこありますか」
「歌舞伎町だとお酒の場所が多くて……華さん、未成年じゃないですよね」
「あの、今更ですが、二十歳です」
「じゃあ居酒屋とかは入れますけど、画として面白くないかもしれないですし……」
「でも入ってみないと分からないですよね」
「それはそうなんですが……」
「歩いてみましょう!!」
四人で路地を歩き始めた。
華は歩きながら看板を見ていく。派手な居酒屋、カラオケ、串焼き屋、ラーメン、また居酒屋、クラブ、居酒屋——どこも入口から音や光や熱気が出ていて、それぞれに違う中の景色が想像できる。
「華さんって、こういう場所が好きそうですね」と松田が言った。
「好きです!」
「怖くないですか、初めての場所」
「全然。行ってみれば大体なんとかなるので」
「……なんとかなる、という根拠は」
「今までなんとかなってきたから」
「それは経験則ですね」
「そうです!!」
田村が「柊さんはいつもそういう感じで、なんとかなってきているのは事実なんですが……なんとかならないときのために私がいるので」と言った。
「ありがとうございます!!」
「ありがとうじゃなくて、気をつけてほしいんですが……」
「あ、ここ」と華が立ち止まった。
細い路地の奥に、古い居酒屋の看板。電球が一個だけついていて、のれんが少し傾いている。中から笑い声が聞こえてくる。
「なんかいいですよね、ここ」
「……どのへんが」と田村が聞いた。
「なんか、ちゃんとした居酒屋って感じがして。歌舞伎町にこういう店があるんだ、って感じで。中の笑い声もいい感じで」
「確かに……」と松田が少し考える。「入ってみますか。普通の居酒屋だと画にならないかもしれないですけど、入って見てみれば何かあるかもしれないですし……」
「入ってみてからどうするか決めましょう!!」
華がのれんをくぐった。
中は思ったより広かった。
カウンターが長くて、奥にテーブルが二つ。照明が暗めで、壁に短冊のメニューが貼ってある。カウンターには先客が五、六人いて、みんな楽しそうに飲んでいる。
よかった。普通の人がいる。
華はそう思ってのれんを抜けた。
カウンターの一番手前の男性が、のれんをくぐった華を見て、少し固まった。
六十代くらい。がっしりした体格。顔に見覚えがある、というより、業界の人間なら絶対に知っている顔だった。
映画監督の三枝豊さんだった。
「……あれ」と三枝さんが言った。「柊さんの妹ちゃんじゃないか」
その隣の女性が振り返った。
見覚えがある、なんてものじゃない。国民全員が知っている顔だった。
女優歴三十五年、日本映画界の顔ともいえる大女優、芦沢雪子さんだった。
「あら!!」
芦沢さんの声が居酒屋に響く。
「華ちゃん!! こんなとこで何してるの!!」




