第10話「映像データ復旧」
月曜日の朝。
柊家のリビングで、華が朝食を食べていた。
今日は映画の撮影日。
先週の続きのシーンを撮影する予定だ。
「華、今日も撮影?」
凛が聞いた。
「うん。クライマックスシーンの一つ前のシーン」
「大事なところだね」
「うん……緊張する」
華は少し不安そうだった。
遼がリビングに入ってくる。
「おはよう」
「おはよう」
「遼、今日も大学?」
「ああ。卒論の最終確認」
「もうすぐ提出だね」
「まあな」
遼は淡々と答え、朝食を食べ始める。
華はそれを見て、少し元気が出た。
遼の落ち着いた雰囲気が、いつも華を安心させる。
「遼、行ってきます」
「ああ、頑張れ」
「うん!」
華は元気よく家を出た。
午前10時。
映画の撮影現場。
都内のスタジオで、重要なシーンの撮影が行われていた。
華は主演として、感情的な演技を求められるシーンに臨んでいた。
「柊さん、今日もよろしくお願いします」
監督が声をかける。
「はい、頑張ります」
華は笑顔で答えた。
撮影が始まる。
午前のシーンから、華の演技は完璧だった。
感情が溢れ、自然な表現ができている。
「カット! OK! 素晴らしい!」
監督が何度も絶賛する。
スタッフも拍手。
華は少し照れながら、頭を下げた。
午後も順調だった。
渾身の演技が続く。
今日の撮影は、過去最高の出来だった。
「よし! 今日は全部OK! お疲れ様でした!」
監督が締めの言葉を言おうとした。
その時。
データ管理のスタッフが青ざめた顔で駆けてきた。
「す、すみません……」
「どうした?」
「デ、データが……」
「データが?」
「今日の撮影データが……全部……破損しています……」
スタジオが静まり返った。
一瞬の沈黙。
そして──
「何!?」
監督の声が響いた。
「す、すみません……」
データ管理スタッフは真っ青だ。
「ストレージが突然エラーを起こして……今日一日分のデータが……」
「全部か?」
「は、はい……午前から午後まで、全部……」
監督は頭を抱えた。
「今日の撮影、全部やり直しか……」
「申し訳ございません……」
スタジオ全体に、重い空気が流れた。
華は今日一日の撮影が消えたと聞いた。
午前も、午後も。
全部、消えた。
あの演技が、全部消えた。
もう一度、全部できるだろうか。
「……」
華は、言葉が出なかった。
目が潤んでくる。
泣きそうだった。
だが、必死にこらえた。
その日の夕方。
華が帰宅した。
表情が暗い。
「ただいま……」
「おかえり。どうしたの?」
凛が心配そうに聞く。
「撮影データが……全部破損して……」
「え!?」
「今日一日分、全部……」
「それは大変……」
凛は華の隣に座った。
「大丈夫?」
「……分からない」
華は膝を抱えた。
「今日、すごく良い撮影だったんだ。午前も午後も……」
「うん」
「それが全部消えて……また同じ演技、できるか……自信ない」
「華……」
「今日みたいな気持ちで、また臨めるか……」
華の声が震える。
凛は華の肩を抱いた。
「大丈夫だよ。華なら絶対できる」
「でも……」
その時、遼がリビングに入ってきた。
「ただいま」
「おかえり、遼」
凛が声をかける。
遼は華の様子を見て、少し首を傾げた。
「どうした?」
「撮影データが全部破損して……」
凛が説明する。
遼は少し考えた。
「ストレージの不具合か?」
「そう言ってた」
「どんなストレージ?」
「えっと……よく分からないけど、業務用の大きいやつ」
「データ、完全に消えたのか?」
「そう言ってた……」
遼はしばらく考えた。
「……見せてもらえるか?」
「え?」
凛と華が同時に顔を上げた。
「直せるかどうか分からないけど、見るだけ見る」
「ほんとに!?」
華の目が輝いた。
「まあ、試すだけだけど」
「遼、ありがとう!」
「まだ何もしてない」
遼は淡々と答える。
翌朝、火曜日。
華は撮影現場のデータ管理スタッフに連絡を取った。
「兄が、見てもいいって言うんですけど……」
「お兄さんが?」
「はい。技術に詳しいので……」
「でも、プロのデータ復旧業者でも難しいって言われて……」
「それでも、一度見させてもらえませんか?」
スタッフは少し迷った。
だが、撮影スケジュールが詰まっている。
藁にも縋る思いだった。
「……分かりました。来てもらえますか?」
午前11時。
撮影スタジオのデータ管理室。
遼は、問題のストレージを前にしていた。
データ管理スタッフが説明する。
「突然、アクセスができなくなって……」
「ファイルシステムのエラーか」
遼はストレージを確認する。
「接続してもいいですか?」
「はい、どうぞ」
遼はノートパソコンを取り出し、ストレージを接続した。
コマンドを打ち込む。
ターミナルに、エラーメッセージが流れる。
「……ファイルシステムが破損してるな」
「直りますか?」
スタッフが恐る恐る聞く。
「やってみる」
遼は淡々と答えた。
遼の指が、キーボードを叩く。
コマンドを次々と入力する。
ターミナルに文字が流れる。
スタッフは固唾を飲んで見守っていた。
華もその場にいた。
遼の横顔を見つめている。
いつもの、穏やかな表情。
焦りも緊張も見えない。
ただ、淡々と作業している。
「……ここか」
遼が呟いた。
「何か分かったんですか?」
「ファイルシステムの管理領域が壊れてる。でも、データ本体は生きてるかもしれない」
「え?」
「ファイルシステムの修復ツールを使えば……」
遼は再びコマンドを入力する。
しばらくの沈黙。
ターミナルに、進捗バーが現れた。
ゆっくりと、数字が増えていく。
10%……20%……30%……
スタッフは息を飲んでいた。
華も、じっと画面を見つめていた。
50%……70%……90%……
そして──
「Complete.」
ターミナルに表示された。
「……」
遼はファイルを確認する。
そして、静かに言った。
「直った」
「え!?」
スタッフが飛び上がった。
「本当ですか!?」
「ああ。昨日一日分のファイル、全部無事だ」
「信じられない……」
スタッフは画面を確認する。
昨日の撮影データが、全て復旧している。
午前分も、午後分も。
全部、戻っている。
「本当に……本当に全部直ってる……」
スタッフは涙目になっていた。
華は、呆然と遼を見つめていた。
三十分。
プロの業者でも難しいと言われたデータが、三十分で全部復旧した。
「遼……」
「何?」
「すごい……」
「普通だろ」
遼は淡々と答える。
ノートパソコンを閉じ、立ち上がった。
「これで大丈夫だろ」
「は、はい……本当にありがとうございました!」
スタッフが深々と頭を下げる。
「別に」
遼は帰ろうとする。
華は遼の袖を掴んだ。
「遼」
「何?」
「ありがとう」
「別に。普通のことだから」
「普通じゃないよ」
華は少し涙ぐんでいた。
遼は少し驚いた。
「泣くほどのことじゃない」
「でも……嬉しくて」
「そうか」
遼は少し照れくさそうに答えた。
「頑張れよ」
「うん!」
華は笑顔で頷いた。
午後の撮影。
華は渾身の演技を見せた。
昨日と同じ、いや、それ以上の感情が溢れている。
「カット! 完璧です! 素晴らしい!」
監督が絶賛する。
スタッフから拍手が起きる。
華は笑顔で頭を下げた。
そして、心の中で思った。
「遼、見てる?」
その夜、柊家のリビング。
三人が夕食を食べていた。
「遼、本当にありがとうね」
華が言った。
「別に」
「でも、すごかったよ。スタッフさん、涙目になってた」
「そうか」
「プロでも難しいって言われてたのに……」
「ファイルシステムのエラーなら、手順通りやれば直る」
「手順通りって……それが難しいんでしょ」
凛が口を挟む。
「そうか?」
「そうだよ!」
華が笑った。
「でも、本当に助かった。ありがとう」
「ああ」
遼は淡々と答える。
だが、少し嬉しそうだった。
凛がそれに気づいた。
遼は、あまり表情を出さない。
でも、家族の役に立てた時は、少しだけ表情が柔らかくなる。
「遼って、本当にすごいんだね」
凛は静かに言った。
「普通だろ」
「普通じゃないよ」
華も言う。
「本当に、普通じゃない」
遼は首を傾げた。
「……よく分からんけど」
三人は笑った。
その夜、遼の部屋。
遼は卒論の最終確認をしていた。
提出まで、あと数日。
ふと、今日のことを思い出す。
華の涙。
スタッフの安堵した顔。
「……役に立ったなら、まあいいか」
遼は小さく呟いた。
そして、再びパソコンに向かう。
その時──
スマホが震えた。
遼は画面を見る。
華からLINEが来ていた。
「今日は本当にありがとう。遼がいてくれて良かった」
遼は少し考えた。
そして、短く返信する。
「頑張れ」
すぐに返信が来た。
「うん! 遼も卒論頑張ってね!」
「ああ」
遼はスマホをしまった。
そして、再び卒論に戻る。
静かな夜。
遼のペースは、変わらない。
翌朝、柊家のリビング。
三人が朝食を食べていた。
いつもの、うるさい朝。
「華、昨日のデータ、無事に使えた?」
「うん! 監督も喜んでたよ!」
「良かった」
「遼のおかげだよ!」
「別に」
遼はコーヒーを飲む。
凛は遼を見た。
遼の横顔。
いつもの、穏やかな表情。
「遼って……」
「何?」
「本当に、すごいんだなって」
「普通だって」
「普通じゃないよ」
凛は優しく笑った。
華も笑った。
遼は少し照れくさそうに、朝食を食べ続けた。
姉妹の中に、小さな変化が生まれていた。
遼が、ただの機械オタクではないこと。
遼が、本当に技術を持っていること。
それが、じわじわと姉妹の中に浸透していく。
でも、遼は気づかない。
自分が、姉妹の目にどう映っているかを。
遼は今日も、静かに自分のペースで生きている。
その頃、都内のホテル。
ロバート・チェンは、新しい提案書を確認していた。
「Complete research freedom. No mandatory meetings. Full funding for any project he chooses.」(完全な研究の自由。義務的な会議なし。彼が選ぶどんなプロジェクトへの全額資金援助)
ロバートは満足そうに頷いた。
「This should appeal to him.」(これなら彼の心に響くはずだ)
「When do we approach him, sir?」(いつアプローチしますか、サー?)
「Next week. After his thesis submission.」(来週。卒論提出後だ)
「Understood.」(了解しました)
ロバートは窓の外を見た。
東京の夜景が広がっている。
「Hiiragi... I will convince you this time.」(柊……今度こそ説得する)
ロバートは決意を新たにした。
そして、ふと思った。
「Maybe I should visit Akihabara one more time before we leave...」(帰国前に、もう一度秋葉原に行くべきかな……)
ロバートは小さく笑った。
世界的企業のCTOは、今夜も東京の夜を楽しんでいた。




