柊家の夜明け前 Episode 5「遠藤朱里という女」
遠藤朱里という人間を説明するのは難しい。
由紀より一つ年上で、秋田ではなく埼玉の出身で、笑い声がとにかくうるさい。稽古場でも、居酒屋でも、路地裏でも、朱里が笑うと周囲が振り返る。本人はそれを気にしない。気にする必要がないと思っている。
舞台への執着は劇団の誰より強く、それでいて他人の選択を急かさない。自分が動く人間だからこそ、動かない人間を責めない。そういう一貫した態度が、由紀には最初から分かった。
分かった上で、距離を測りかねていた。
少し時間が戻る。
朱里と由紀が同じ劇団に入って、まだ三ヶ月も経っていない頃の話だ。
稽古が終わった夜、二人で高円寺の路地を歩いていた。朱里の行きつけの焼き鳥屋に向かっている。由紀はまだその店に行ったことがなく、朱里が「おごる」と言ったので断れなかった。
「由紀さあ」
「何」
「あんた、台詞言いすぎ」
由紀は少し考えた。
「台詞を言わなかったら演劇じゃない」
「違う違う。台詞『だけ』言いすぎってこと。その前後がない」
「前後」
「登場する前と、退場した後。あんたそこが空白になってる」
由紀は黙った。
言っている意味は、分かるような気がした。ただ、どうすればいいかは分からない。
「吉田さんにも同じことを言われた」
「そりゃ言われるよ。見れば分かる」
「朱里は分かるの」
「分かる。だってあんた、台詞の前に一回息を止めるから」
由紀は思わず足を止めた。
「止めてた?」
「止めてる。毎回」
「……気づかなかった」
「だからまずい」朱里が振り返る。「無意識に止めてるってことは、台詞が来るのを待ってるってこと。人間はそんなに整然と生きてない」
由紀は歩きながら、それを頭の中で繰り返した。
焼き鳥屋は、路地のいちばん奥にある小さな店だった。カウンター席が六つしかない。煙と醤油の匂いが外まで漏れている。朱里が引き戸を開けると、店主が「あ、朱里ちゃん」と言った。常連だと分かる呼ばれ方。
二人でカウンターに座った。
「ビールでいい?」
「いい」
朱里がビールを二本頼んで、焼き鳥を適当に指差した。串が来るまでの間、朱里は煙草を取り出した。由紀はそれを横目に見る。
「朱里はいつから演劇やってるの」
「十六のとき。地元の公民館の劇団。お世辞にもうまくなかった」
「そうなの」
「そう。でも舞台に立ったとき、はじめて自分の輪郭が分かった気がした」
由紀は少し驚いた。
「輪郭」
「そう。普段の自分って、どこで終わってどこから他人が始まるか分からなくない?舞台だと、客席との境界線がある。あたしはここにいる、って感じがする」
由紀はビールを飲みながら聞いた。
朱里がそういう話をするとき、声が少し低くなる。笑い声とは全然違う声で、真剣に言葉を選んでいる。
「由紀は?」
「私は……なんで始めたか、上手く言えない」
「言えなくていい。続ける理由があれば」
「ある」
「じゃあそれで十分」
串が来た。朱里が迷わず食べ始める。由紀も続いた。
そういう夜が、何度かあった。
稽古後の路地、朱里の行きつけの店、ビールと焼き鳥と煙草。朱里が話す、由紀が聞く。たまに逆になる。二人の会話はいつも、演劇か、生活か、どちらかに落ちていった。
ある夜、朱里が言った。
「由紀って、泣く演技が上手いと思われてるじゃない」
突然だったので、由紀はビールを飲みかけたまま止まった。
「……そう?」
「そう見られてる。でも違う」朱里が串を置く。「上手いのは泣かない演技の方だ」
朱里は串を置いて続けた。
「泣いていい場面で泣かない。感情を出していい場面で、出さないで立ってる。そのときの由紀、怖いくらい舞台に馴染んでる」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる。最大級に」
由紀はしばらく黙った。
演劇を始めて半年。上手くなりたいと思っている。でも何が上手いのか、何が足りないのか、自分では測れない。朱里はそれをどこから見ているのか。
「なんで分かるの」
「見てるから」朱里がビールを飲む。「あたしは舞台より客席が好きなのかもしれない。見てる方が、何かがよく見える」
「演出に向いてるんじゃないの」
「そうかもな」
朱里は笑った。でもそれは、いつもの大きな笑いではなかった。少し内側に向いた笑い。自分の話をするとき、朱里はたまにこういう顔をする。
「海外、行きたいと思ってる」
由紀は少し驚いた。
「ヨーロッパとか」
「ヨーロッパ。フランスかドイツ。向こうの演劇人と一緒にやりたい。日本の小劇団だけで完結するのが、なんか違う気がして」
「違うって」
「閉じてる感じ。内側で褒め合って、内側で批判して。外に出ないと分からないことがある」
由紀は路地の外を見た。高円寺の夜はまだにぎやかだ。
「いつ行くの」
「まだ分からない。でもいつか行く。決めてる」
朱里の言い方は、迷いのない声だった。計画を話しているのではなく、すでに決まっていることを確認しているような口調。
由紀には、それがまぶしかった。
そして、本番の夜が終わった後。
朱里は少し黙って、それから聞いた。
「その男、何て言ったんだっけ」
「計算じゃないって」
「計算じゃないなら何なのか、聞けなかったんだろ」
「聞けなかった」
「そういう話の続きが聞きたくて田島に連絡先を聞いた」
「そう」
朱里がため息をついた。でも呆れたため息ではなく、何かを確認するようなため息。
「変人だな」
「誰が」
「あんたもそいつも」朱里が空を見上げる。「普通、照明を直しに来た男に間の話はしない。されてもたじろぐ。でも由紀はそれに答えた。そいつも答えを引き出した。変人同士だ」
「変人って言わないで」
「褒めてる。最大級に」
さっきと同じ言葉。由紀は少し笑った。
「そいつ、エンジニアなんでしょ」
「大学院生。工学系」
「機械の人間が『間』の話をする。それだけで普通じゃない」朱里が煙草を取り出す。「あたしが言った閉じてる感じ、あるじゃない。内側で完結してる感じ。そいつはたぶん、自分の世界では完結してるけど、外とつながる言葉を持ってる」
「どこでそこまで分かるの」
「分からない。でも由紀が気になってるなら、そういう人間だと思う」
由紀は黙った。
由紀が人に気になると言うことは、珍しい。朱里はそれを知っている。
「捕まえろよ」
「捕まえるって言い方はやめて」
「じゃあ話せ。続きを聞け。あんたが気になってるのは、その男じゃなくて、あの会話の続きだろ」
正確だった。由紀は少し目を細めた。
「分かるの」
「由紀のことなら、たいてい分かる」
自慢でもなく、愛情の押しつけでもなく、ただ事実として言う。それが朱里という人間だ。
それからまた、いつもの夜に戻った。
稽古場の帰り、二人で並んで歩く。朱里が煙草を吸って、由紀が空を見上げる。会話がある夜もあれば、黙ったまま歩く夜もある。
ある夜、朱里が言った。
「由紀、最近稽古の入り方が変わった」
「そう?」
「息を止めなくなってる」
由紀は少し考えた。意識したわけではなかった。でも言われてみると、あの会話の後から何かが変わった気はしていた。
「あの男のこと、考えてるから?」
「それは分からない」
「正直だな」朱里が笑う。「でも何かが変わったのは本当だ。原因が何であれ、いい変化だよ」
由紀は答えなかった。
高円寺の路地に、夜風が通る。秋になりかけている。
「朱里」
「何」
「海外の話、本気?」
「本気だよ。なんで」
「なんとなく」
朱里が立ち止まる。由紀も止まった。
「由紀、あたしが行ったら寂しい?」
由紀はすぐに答えなかった。
少し間を置いて、言った。
「寂しい」
「そっか」朱里が煙草を地面で消す。「あたしも寂しいよ。でも行く」
「分かってる」
「由紀は行かないの」
由紀は少し考えた。
「行く場所があれば」
「あるよ」
「今はない」
「今はね」
朱里が歩き始める。由紀も続いた。
しばらく黙って歩いた後、朱里が言った。
「舞台やめたら一生後悔する。そこだけは言っておく」
「やめない」
「そう。でも聞いておけ」朱里が前を向いたまま続ける。「何かをやめたら、別の何かが始まる。それが悪いことかどうかは、やめてみないと分からない。あたしはそう思ってる」
由紀はその言葉を聞きながら歩いた。
答えは出なかった。
でも、しまっておく必要のある言葉だと思った。
その夜、由紀はアパートに戻って台本を開いた。
次の公演の配役が出ていた。今度は脇役ではない。二番手に近い役。台詞の数が、前回の三倍以上ある。
ページをめくりながら、間の部分を探す。台詞と台詞の間。動きと動きの間。そこに鉛筆で小さく印をつける。
朱里の声が、頭の中にある。
泣かない演技が上手い。
息を止めなくなってる。
舞台やめたら一生後悔する。
一つ一つは、別々の夜に言われた言葉だ。でもつなげると、一本の線になる気がした。朱里はずっと同じものを見ている。由紀が見えていない由紀の輪郭を、外から見ている。
台本を閉じる。
窓の外、高円寺の夜はいつも通りにぎやかで、由紀の部屋だけ静かだった。
静けさの中に、あの会話の続きがある。
計算じゃないなら、何なのか。
朱里なら何と言うだろう。
たぶん、「それを聞きに行け」と言う。
由紀はそう思いながら、台本をもう一度開いた。




