「柊凛の、ある一日」後編
「柊凛がロビーにいる」という情報は、なぜか必ず五分以内に撮影所全体に広まる。
伝達経路は毎回違う。スタッフAがスタッフBに言う。スタッフBがグループLINEに書く。グループLINEを見た新人が廊下に出る。廊下に出た新人が戻ってくる。それでロビーには五分で人が増える。
本人は何もしていない。ただロビーのソファに座って台本を読んでいる。
今日の凛はネイビーのニットにテーパードパンツ。ロングヘアは一本に束ねて肩の前に流してある。落ち着いた格好だが、ロビーの光がいいのか、なんとなく絵になっていた。
三上がコーヒーを持ってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日、午前中は別の撮影所にご挨拶があって」
「そっちは誰が出てるの」
「桜木さんと、あと新人の方が何人か」
「桜木さんに会うのは久しぶり」
「三ヶ月ぶりかと」
「元気かな」
「元気らしいですよ。凛さんに会えるのを楽しみにしてると、マネさんから」
「そうか」
凛は台本に目を戻す。
ロビーの向こうのソファに、今季デビューしたらしい男の子が三人。こちらをちらちら見ている。
凛は気づいているが、何も言わない。
しばらくして、三人の中の一人が意を決したように立ち上がった。こっちに歩いてくる。
「あの、柊さん、ですよね」
「そうです」
「写真、撮っていただけますか」
凛が顔を上げた。
「いいですよ」
「……え、本当ですか」
「ええ」
三人が揃って立ってきた。写真を撮る。一枚ずつ、丁寧に。凛は毎回ちゃんとカメラを見た。
「ありがとうございます」と三人が声を揃えた。
「頑張ってね」と凛が言った。
三人が戻っていく。一人が途中で足をもつれさせて、壁に手をついた。
三上がそれを見てスケジュール帳に何かを書いた。「新人三名(対応不要)」。
それから少し考えて、自分のページにも何か書く。「スマホ管理・要注意」。
凛は気にせず台本を読んでいた。
桜木結花は四十二歳で、業界歴二十年の女優。凛とは五年前の共演がきっかけで知り合い、以来「先輩と後輩」というより「同業者の友人」として付き合っている。
桜木の楽屋のドアを開けると、桜木はメイクの仕上げをしていた。
「来た来た」と桜木が言う。鏡越しに凛を見た。「……相変わらずね」
「何が」
「存在感が。廊下で気配感じたから」
「廊下にいっぱい人がいたから」
「そういう意味じゃなくて」
桜木が椅子を向けた。凛が座る。
「元気そう」
「まあ」
「今のドラマどう?」
「面白い。相手役の有村さんがいい人で」
「有村くん? 知ってる。真面目な人よ」
「そう感じました」
「凛ちゃんのこと好きになってるわよ、たぶん」
凛は少し止まった。
「仕事の話をしてただけですが」
「仕事の話してるときの目、でしょ」
「……どういう意味ですか」
「有村くんはね、仕事の話してるとき好きな人と同じ目になるの。そういう人、たまにいるわよ」
凛は答えない。
「あの人、独身だよ」
「関係ないです」
「関係ないの?」
「仕事ですから」
桜木が笑った。「凛ちゃんはいつもそう言う」
「事実ですし」
「神崎さんは?」
一秒、間があった。
「神崎さんも仕事です」
「その一秒は?」
「……確認してました」
「何を?」
「仕事だということを」
「確認が必要な時点でね」
「……桜木さん」
「何」
「話を変えます」
「ふふ」と桜木が笑う。「まあいいわ。お茶飲む?」
「いただきます」
お茶が来た。二人で飲む。
「五年前、初めて共演したとき、凛ちゃんって何歳だったっけ」
「十八歳でした」
「十八歳で、めちゃくちゃ緊張してて、でも絶対に見せなかった」
「緊張してましたっけ」
「してた。手先が少し震えてたから」
「覚えてないです」
「覚えてないくらい必死だったんじゃないの」
「……かもしれないです」
「あれから六年。今は手が震えないでしょ」
「震えないです」
「そういうことよ」と桜木が言った。「積み重ねたってこと」
凛はお茶を飲む。
何か言おうとして、やめた。
「ありがとうございます」
「礼を言うことでもないけどね」と桜木が笑った。
少し間があった。
「ねえ、凛ちゃん」
「はい」
「マネージャーさん、変わった?」
「変わりました。半年前に」
「新しい子?」
「二年目だそうです」
「さっき廊下で見かけたけど」
「あ、三上です」
「可愛い子ね」
「……そうですね」
「凛ちゃんのこと見るとき、なんか変な顔してた」
「変な顔?」
「必死で平静を装ってるやつ」
凛は少し止まった。
「……そうですか」
「凛ちゃん、気づいてないの?」
「気づいてないというか……どうすればいいか分からないというか」
「別に何もしなくていいんじゃないの」
「そうですかね」
「あの子、仕事はちゃんとできてる?」
「できてます」
「じゃあそれでいいじゃない」
「……スマホを今日で三回落としてます」
「三回!」
「昨日は四回でした」
桜木が声を上げて笑った。
「それは凛ちゃんのせいじゃないけど、凛ちゃんのせいでもあるわね」
「……どっちですか」
「両方」
凛は少し考える。
「まあ、仕事はちゃんとしてくれてるので」
「そうね」
「スマホは……もう少し気をつけてもらおうかな」
「優しいわね、凛ちゃんは」
「優しいというか、実務的な話です」
「どっちでも同じよ」
桜木がお茶をもう一口飲む。
「あの子、凛ちゃんのこと好きよ。仕事的に、じゃなくて」
凛は答えない。
「気づいてた?」
「……なんとなく」
「どうするの」
「どうもしません」
「なんで」
「仕事ですから」
桜木がまた笑った。「さっきと同じこと言ってる」
「……構造が似てるんです」
「ははっ。凛ちゃんって面白いわね、本当に」
凛は「そうですか」と言って、お茶を飲んだ。
撮影に戻る途中の廊下。
三上が走ってきた。
「柊さん!」
「どうした」
「雑誌の追加カットのリクエストが来ていて、明後日空いてますか」
「午前中は撮影」
「午後は?」
「確認する」
凛はスマホを出してスケジュールを見る。
「午後二時以降なら」
「ありがとうございます。あと、イベントの衣装確認が——」
「三上さん」
「はい」
「一個ずつ」
「あ、すみません」
「どれが一番急ぎ?」
「衣装です」
「じゃあまずそれ」
「分かりました」
廊下を歩き始めた。
三上が後ろをついてくる。少し後ろで、スマホを開いた。スケジュールを確認しようとして、滑らせた。
カシャン、という音。
「……三上さん」
「す、すみません!」
「四回目」
「……え」
「今日の、四回目」
「……数えてたんですか?」
「なんとなく」
三上の顔が赤くなる。
「……すみません、本当に」
「謝らなくていい」
「でも」
「スマホ、ケース変えたら? グリップのやつ」
「……あ、はい」
「落としにくくなるから」
「……ありがとうございます」
三上がスマホを拾って、スケジュールを確認する。声が少し小さかった。
凛は特に何も言わない。
向こうから照明の鈴木が歩いてきた。ベテランのスタッフだ。
「お疲れ様です、柊さん」
「お疲れ様です。昨日はありがとうございました」
「いえ、あのカットは柊さんのおかげで決まりましたよ」
「照明が良かったです」
「……柊さんに言われると照れますね」
照明の鈴木が少し赤くなった。五十三歳、業界三十年のベテランが。
三上がスケジュール帳に何か書く。
「三上さん」と凛が言った。
「はい」
「そのスケジュール帳、何を書いてるの」
「……スケジュールを」
「毎回誰かと話したあとに書いてる」
「……はい、スケジュール管理を」
凛は三上を見た。
三上は目を逸らした。
「……まあいいか」
歩き続ける。
三上は後ろで小さく息を吐いた。
「……よかった」と口だけ動いた。
凛は聞こえていたが、何も言わなかった。
「ただいまー!!」
ヒールが脱がれた。コートが投げられた。ハーフアップが崩された。
「遼、プリン」
「テーブルの上」
「え、本当に買ってきたの」
「言ったから」
凛はテーブルを見た。プレミアムのプリンが三つ並んでいる。
「三つ!?」
「三人いるから」
「気が利いてる!」
「普通」
凛はプリンを一つ手に取った。
華が帰ってきた。
「ただいまー! あ、プリン!」
「三つあるよ」と凛が言った。
「やったー!」
遼がリビングに来て、自分のプリンを持つ。
三人でプリンを食べた。
「今日、桜木さんに会った」
「元気そうだった?」と遼が聞いた。
「うん。五年前のこと話してた」
「五年前?」
「初めて一緒に仕事したとき、私が緊張してたって」
「してたの?」
「してたらしい。覚えてないけど」
「……そうか」
「積み重ねが大事って言われた」
「そうだな」
「遼ってそういうこと考える? 積み重ねとか」
「……あんまり」
「なんで」
「今やってることが面白いから、積み重ねてるかどうか気にしたことがない」
凛は少し止まった。
「……それって、一番いい状態じゃないの」
「そうか?」
「そうだよ」と華が言った。
「そうかもしれない」と遼が言った。
凛はプリンを食べる。
プレミアムのプリンは、普通のより少しなめらかだった。
食後。
凛はソファで足を伸ばしていた。スウェット上下、くまの靴下。
スマホに三上からメッセージが来ている。
「本日もありがとうございました。スマホ、グリップ付きのケースに変えます」
凛はそれを見て、少し笑った。
返信を打った。
「お疲れ様。明日もよろしく」
既読がついて、しばらくして返信が来た。
「はい!!よろしくお願いします!!!」
感嘆符が三つ。
凛は「多い」と思ったが、何も言わない。
遼が机から声をかけた。
「今日どうだったの」
「普通に仕事した」
「桜木さんとは」
「色々話した」
「何を」
「仕事の話とか。三上さんのスマホの話とか」
「スマホ?」
「よく落とすから」
「そうか」
遼は部品に戻る。
凛はもう一度スマホを見た。
桜木に「あの子、凛ちゃんのこと好きよ」と言われた瞬間を思い出す。
どうすればいいか分からない、と言ったら「何もしなくていい」と言われた。
まあそうか。仕事ちゃんとしてくれてるし。スマホはケース変えるって言ってるし。
「遼」
「なに」
「私って、人に好かれることが多い気がする」
「モテるだろうね」
「……なんで」
「見た目と、仕事ができるから」
「他には?」
「……分からない」
「小さいことをちゃんとやるから、かな」
遼が少し振り返った。
「小さいことって」
「鈴木くんに深呼吸してって言ったとか。三上さんにスマホケース変えたら、とか」
「……普通のことじゃないの」
「普通じゃないらしい」
「そうか」
遼はまた部品に向き直った。
凛は天井を見る。
スマホに三上からもう一件来ていた。
「ちなみに昨日と今日で計七回落としました」
自分で数えてたのか。
思ったが、笑ってしまった。
返信を打った。
「八回目は気をつけて」
すぐに既読がついた。
「すみません!!!!」
感嘆符が四つ。
凛は「多い」と思いながら、スマホをソファに置いた。
華がソファの端から「なんか笑ってたけど」と言った。
「別に」
「三上さん?」
「……まあ」
「かわいい人だよね」
「仕事できるし」
「そこだけじゃないと思うけど」
「まあいいか」
凛はくまの靴下を眺めた。
「遼」
「なに」
「プリンうまかった」
「そうか」
「毎週買ってきてほしい」
「コストが上がる」
「マニフィックなんだよ私は」
「……毎週は無理」
「月二回」
「……考える」
「ありがとう」
凛は目を閉じた。
今日一日の映像が流れる。三上がスマホを落とした音。桜木の笑い声。廊下で照明の鈴木が少し赤くなった瞬間。新人三人が揃って頭を下げた顔。
全部、仕事だった。全部、好きだった。
でも今一番くっきりしているのは、プレミアムのプリンのなめらかな味だった。
これが普通だった。
これが、凛の一日だった。
(後編・了)




