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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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「柊凛の、ある一日」前編

 午前九時——撮影所


 ひいらぎりんが撮影所に入ると、廊下の空気が変わった。


 大げさではない。実際に変わるのだ。


 廊下にいたスタッフが自然と背筋を伸ばす。話し声が少し落ちる。誰かが誰かの腕を肘で突く。資料を抱えて歩いていた制作の女性が、気づいたら歩調を遅くしていた。エレベーターの前で待っていた男性スタッフが、扉が開いても乗り込むのを忘れた。


 その全部が、ほんの一、二秒の話だ。


 凛はそれに気づいているが、特に何も感じない。六年目になれば慣れる。


 黒のトレンチコートに、細身の白いパンツ。ヒールの高さは七センチ。歩くたびにコートの裾が揺れて、163センチの細い輪郭が廊下の奥まで通る。ダークブラウンのロングヘアが緩くまとめられていて、うなじが少し覗いている。コートの襟元から見える鎖骨が、照明の下でわずかに白い。


 切れ長の目が正面を見ている。


 涼しい目だった。冷たいのとは違う。ただ、迷いがない目だった。


 三歩後ろから三上みかみさきがついてくる。


 三上は入社二年目の二十四歳で、凛の担当になってまだ半年だった。業務はきちんとこなせる。スケジュール管理も、現場の段取りも、関係各所への連絡も。ただ一点だけ、課題があった。


 凛が歩くのを見ていると、ときどき自分も歩いていることを忘れる。


 これは仕事上の問題だと三上は自覚していた。自覚していてもどうにもならないのが問題だった。


「おはようございます、柊さん。今日の段取りですが——」


「おはよう。先に衣装さんに挨拶してくる」


「あ、はい、その前に——」


「三上さん、歩きながら言って」


「……はい」


 三上が早足で追いつく。凛は歩調を変えない。


 廊下の向こうから、若い男の俳優が歩いてきた。二十代前半、今季ドラマで売れ始めた顔だ。凛を見て、一瞬だけ歩調が乱れた。


「お、おはようございます、柊さん」


「おはよう」


 凛はにこりと笑った。


 業界で語り継がれる「凛の現場スマイル」だった。目元が少し細くなって、唇の端がわずかに上がる。ただの挨拶だ。でも若い俳優はその後しばらく、廊下の壁に背を預けて天井を見上げていた。


 三上がそれを横目に見た。


 ——分かる。分かるよ。


 三上はスケジュール帳に何かを書き込んだ。「新人俳優(対応不要)」。このメモが増え続けて、もう二冊目だった。なおメモには自分のことは書いていない。記録する必要を感じなかったわけではないが、記録すると客観視できてしまうので避けていた。


   


 衣装部屋に入ると、スタイリストの坂本が待ちかまえていた。六十代の小柄な女性で、業界歴三十年。凛のスタイリングを三年担当している。


「今日の衣装、少し腰のラインが出るやつにしたけど、問題ない?」


「見せて」


 坂本が衣装を持ってきた。仕立てのいい薄手のワンピース。ネイビーに細い白のストライプが入っている。


「試着します」


 凛がコートを脱いだ瞬間、三上は資料の確認に集中することにした。集中した。集中しようとした。


「三上さん、出て」と坂本が言った。


「はい」


 三上は出た。廊下で深呼吸した。


 五分後、凛が衣装を纏って出てきた。


 三上は持っていたスマホを落とした。


 腰のラインが出るやつ、というのはそういう意味か。細い腰から緩やかに広がるラインが、ワンピースの生地でくっきりと——


「三上さん」


「はい!」


「顔が赤い」


「……換気が悪くて」


「廊下だけど」


「……はい」


 凛は特に気にせず、鏡の前に立った。自分の姿を確認して、腰のあたりに手を当ててみる。


「坂本さん、ここ少しだけ絞れます?」


「絞ると逆に目立つよ」


「そうか」


 凛は鏡を見たまま少し首を傾けた。うなじからデコルテにかけてのラインが動いた。


 廊下を通りかかった照明スタッフが、窓越しに衣装部屋を一秒見て、三秒後に引き返してきた。


 三上がドアを閉めた。


 坂本がちらと三上を見て、何も言わなかった。


「これでいきます」と凛が言った。


   


 本番前——リハーサル


 本番前のリハーサル。


 凛が台本を手に、監督の山口と話していた。山口は五十代のベテランで、業界で「口が悪いが仕事は本物」と言われている人物だ。


「このシーン、感情を出しすぎると安っぽくなる。でも出さなさすぎると伝わらない。難しいところだが、柊さんならできる」


「分かりました」


「実際にできるかどうかはやってみないと分からないが」


「やってみます」


「それでいい」


 山口が椅子に座ってコーヒーを飲んだ。「それとな」と続けた。


「今日のカメラ、鈴木が担当だが、あいつは入って三年目だ。凛さんの顔を前にするとカメラを揺らす癖がある。前回の現場でもそうだった。気にしないでくれ」


「……そうなんですか」


「本人には何度も注意したが治っていない。凛さんが悪いわけじゃない」


「分かりました」


 三上は少し離れた場所でスケジュール帳を開き、「鈴木カメラマン(対応不要だが要観察)」と書き込んだ。


 十五分後。


 本番。


 鈴木は揺らした。


 ワンカット目だった。


 山口が「カット」と言って、静かに立ち上がった。


 凛はそれを見て、鈴木の方を向いた。鈴木は二十五歳で、今日は緊張で顔が白かった。


「鈴木さん」


「す、すみません!」


「深呼吸して」


「はい」


「もう一回行きましょう」


「……はい」


 山口が凛を見た。凛は台本に目を戻していた。


 二カット目。


 鈴木は揺らさなかった。


 「OK」の声がかかったとき、スタッフから拍手が起きた。


 休憩に入って、三上が差し入れのお茶を持ってきた。


「さっきの、すごかったですね」


「そう? 普通じゃない」


「普通じゃないですよ。鈴木さん、救われてましたよ」


「まあ、同じ現場の人だし」


「……凛さんってそういうとこ、ありますよね」


「どういうとこ」


「さりげなく、全員のことを見てるとこ」


 凛はお茶を飲んだ。


「三上さん、褒め上手だね」


「本当のことです」


 凛がちらと三上を見た。


 三上は目が合った瞬間、なんとなく資料に視線を落とした。


 凛は特に何も言わなかった。


   


 午後一時——雑誌の取材


 撮影所の隣のスタジオで、雑誌の取材が入っていた。


 女性誌「LUMIÈRE JAPON」の表紙と巻頭グラビア。フォトグラファーはパリから来た外国人、モローという五十代の男だった。世界中の女優を撮ってきた人物だ。


 凛がスタジオに入ってきたとき、モローは軽く目を細めた。


「Bonjour」


「Bonjour」と凛が返した。


「Vous parlez français?」(フランス語を話しますか?)


「Un peu seulement」(少しだけ)


 モローが笑った。「それで十分だ」とフランス語で言った。


 撮影が始まった。


 モローの指示は少なかった。「そこに立って」「少し横を向いて」「顎を引いて」。三言。あとはただシャッターを切り続けた。


 三上はスタジオの端でスケジュール帳を持ったまま、撮影を見ていた。


 凛が立っているだけで、空気が締まっていく。


 切れ長の目がレンズを見る。髪が少し揺れる。光の当たり方が変わるたびに、同じ人間が違う見え方をする。スタジオライトに照らされた鎖骨が白くて、うなじの後れ毛が細くて——


「三上さん」


 隣に立っていた別のスタッフが小声で言った。


「スケジュール帳、逆さまに持ってますよ」


「……あ、はい、ありがとうございます」


 三上はスケジュール帳を正しい向きに直した。


 撮影の合間に、ライターの女性がインタビューを始めた。


「今の女優としての目標は?」


「目の前のことをちゃんとやること」


「具体的には?」


「次のシーンをいいシーンにすること」


「……他には?」


「他にも色々ありますが、今は目の前が一番大事なので」


 ライターがペンを走らせた。


「プライベートでは何か楽しみにしていることは?」


 凛が少し考えた。


「……今夜の夕飯かな」


「お気に入りのお店とかですか?」


「家で食べます」


「お料理を?」


「弟が作ります」


 ライターが顔を上げた。


「弟さんが?」


「料理が上手いんで」


「へえ……どんなものを?」


「なんでも。ただ量が少ない。三人分作ってるつもりが二人分だったりする」


「……それは、少し不満ですか?」


「大変不満です」


 ライターが笑った。モローも笑った。三上も笑った。


 凛は笑っていなかった。本気だったから。


 撮影が再開した。


 モローが一度だけ「Magnifique」と言った。


 三上は意味を知らなかったが、なんとなく分かった。


   


 午後三時——共演者の楽屋


 撮影に戻る前に、凛は共演者の楽屋に顔を出した。


 今回の連続ドラマで相手役を務める俳優、三十八歳の有村渉ありむらわたるだ。業界歴十五年のベテランで、実力は確かだが、凛と初めて組む。


 ノックして入ると、有村はソファで台本を読んでいた。


 顔を上げた。


 一秒。


 凛はその一秒をよく知っていた。初めて組む男の俳優は、だいたい最初の一秒で何かを決める。「仕事の相手だ」と切り替えるか、それとも別の何かを考え始めるか。


 有村は一秒後に台本を置いて立ち上がった。


「お疲れ様です」


「お疲れ様です。少し話せますか」


「ええ、もちろん」


 二人で台本を広げた。ドラマの核心に近いシーンだった。感情が複雑に絡む。


「凛さんはここ、どう解釈してます?」


「優香は葛藤してるんだけど、それを出さない。出したら負けだと思ってるから。でも表情には出てる——そういう人だと思って演じてます」


「なるほど」


 有村が頷いた。


「俺の役は優香の感情に気づいてる。でも言わない。言ったら壊れると分かってるから」


「そうですね」


「だから台詞の少ないシーンの方が、情報量が多くなる」


「同意します」


 しばらく二人で話した。


 三上はドアの外に立って待っていた。楽屋の扉が少し開いていたので、声は聞こえなかったが、廊下から凛の横顔だけが見えた。


 台本を見て、有村の言葉を聞いて、少し頷いて、また台本を見る。その一連が静かで、落ち着いていて——


 三上は廊下の壁にもたれた。


 なんでこんなに、と自分でも思う。


 先輩に相談したことがある。「凛さんの担当、大変じゃない?」と聞かれて「大変というか……」と言いかけて止めた。大変ではない。むしろ逆だ。隣にいられること自体が、なんというか、その——


 楽屋のドアが開いた。


「三上さん、次の段取りを」


「は、はい!」


 三上はスケジュール帳を開いた。三上は今日、スケジュール帳を四回落としていた。


   


 午後六時——帰宅


 マンションのエレベーターを降りた。


 廊下を歩く。


 ドアの前に立つ。


 鍵を出す。


 開ける。


「ただいまー!!」


 脱いだヒールを揃えずにそのへんに置いた。コートをハンガーにかけずにソファに投げた。ヘアピンを外しながらキッチンに向かった。


「今日なに作ってる? お腹空いた。というかめちゃくちゃお腹空いた。昼ごはん撮影でほぼ食べてない。三上さんがおにぎり持ってきたけど一個しかなかった。なんで一個なの。国民的女優に一個ってどういう計算なの」


 キッチンからりょうの声がした。


「うるさい」


「お腹空いてる人間にうるさいは禁句」


「肉じゃが」


「肉じゃがか」凛はソファに倒れ込んだ。「じゃがいも多めにして」


「いつも通り作る」


「多めにして」


「凛だけ多めにする理由がない」


「お腹が空いてるから」


「華も空いてる」


「私の方が空いてる」


「計測する方法がない」


「……遼」


「なに」


「今日、パリ人にマニフィックって言われた」


「そうか」


「フランス語で」


「マニフィックは素晴らしいという意味」


「知ってるじゃん」


「単語として知ってるだけ」


「褒めてよ」


「素晴らしかったんじゃないの」


「もっと感情込めて」


「……素晴らしかったんじゃないですか」


「……敬語にしたら余計に遠くなった」


 遼は答えなかった。鍋をかき混ぜる音がした。


 凛はソファに寝転んで天井を見た。


 今日一日の映像が頭の中を流れた。廊下の空気が変わった瞬間。鈴木カメラマンが二カット目でブレなかった瞬間。パリ人がマニフィックと言った瞬間。有村と台本を読んだ時間。


 そして——三上がスマホを落とした回数を、凛は数えていた。


 今日で四回だった。


 特に何も思わないが、少し気になっていた。


   


 夕食


 少しして玄関が開いた。


「ただいまー!」


 はなだった。バッグを放り投げながらキッチンに直行する。


「今日なに? 肉じゃが? じゃがいも多め?」


「いつも通り」と遼が言った。


「多めにして」


「凛と同じこと言うな」


「だってお腹空いてるんだもん」


「計測する方法がない」


「二対一だよ」


「民主主義じゃないから」


「……遼」


「なに」


「今日、監督に褒められた」


「よかった」


「よかった、だけ?」


「よかった以外に何を言えばいい」


「もうちょっとなんか……」


「すごいんじゃないの」


「……それも遠い」


 凛がソファから顔だけ起こした。


「華、私も今日褒められた」


「誰に?」


「パリ人に」


「何語で?」


「フランス語で」


「すごい!」


「でしょ」


「どういう意味?」


「素晴らしい」


「マニフィック?」


「なんで知ってんの」


「ドラマで出てきた」


 凛は天井を見た。


「遼も知ってた」


「知識量は私の方が多いと思う」と華が言った。


「根拠は?」


「経験則」


「却下」


 台所から「飯できた」という声がした。


 二人は同時に「やった」と言って立ち上がった。


   


 肉じゃがが出た。いつも通りの量だった。


 凛が一口食べた。


「……うまい」


「毎回同じこと言う」と遼が言った。


「毎回うまいから」


「じゃあ普通ということ」


「普通においしいって最高だよ」


「最高なら普通じゃない」


「屁理屈」


「論理」


 華が肉じゃがをよそいながら言う。「遼って料理上手だよね」


「普通」


「普通じゃないと思う。同じものをずっと食べたいって思える家ごはんって、なかなかないよ」


「そうか」


「そういうものだよ」


 凛が「同意する」と言いながら肉を口に運んだ。


 少し間があった。


「ねえ、プリンある?」


 凛が聞いた。


「ない」と遼が即答した。


「なんで知ってんの。冷蔵庫見てないじゃん」


「昨日確認した」


「いつ食べたの」


「食べてない。もともとなかった」


「……買い物リストに書いた」


「見てない」


「書いた」と凛が言った。


「見てなかった」と遼が言った。


 凛がじっと遼を見た。


「遼」


「なに」


「明日、コンビニ寄って帰ってきて」


「用事があれば」


「プリンを買うという用事を今作った」


「……分かった」


「プレミアムの方」


「普通のと値段が倍違う」


「パリ人にマニフィックって言われた女への敬意として」


 遼は三秒考えた。


「……普通のでいい?」


「マニフィックと普通のプリンは釣り合わない」


「……分かった」


 華が「交渉上手い」と言った。


 凛は「知ってる」と言って、肉じゃがのじゃがいもをすくった。


   


 夜——


 食後、凛はソファに寝転がってスマホを見ていた。


 コート、ヒール、ヘアピン、全部脱いで、今はグレーのスウェット上下だった。靴下は小さなくまのキャラクターが並んでいる柄だった。


 ドラマのSNS反響を確認する。


 撮影現場での写真が一枚、事務所の公式アカウントから上がっていた。今日の衣装のやつだ。


 コメントが流れてくる。


「凛さん、綺麗すぎて息できない」


「衣装ヤバい、腰のラインが」


「モデルみたいな歩き方してた、今日の動画最高」


「国民的女優の貫禄」


「もう神の域では?」


 凛はスマホをソファに置いた。


「遼」


 遼は机で部品を触っていた。


「なに」


「私ってモテる?」


「聞く相手が違うと思う」


「身近な意見として」


「判断基準を持っていないから分からない」


「人に人気があるか、という意味で」


 遼が少し考えた。


「そうじゃないという根拠がない」


「つまりモテる?」


「つまり分からない」


 凛はため息をついた。


「三上さんが今日スマホを四回落とした」


「……そうか」


「なんでだと思う」


「不注意」


「全部私と話した後なんだけど」


「……そうか」


「なんでだと思う」


 遼が少し間を置いた。


「……緊張してるんじゃないの」


「なんで」


「国民的女優だから」


「それ以外は?」


「……それ以外に何かあるの?」


 凛は天井を見た。


「まあいいか」


「まあいいなら聞かなければいい」


「聞きたかっただけ」


「……そうか」


 遼はまた部品に向き直った。


 華がソファの端から「お姉ちゃん、三上さんのこと気になってるの?」と聞いた。


「気になるというか、心配というか」


「心配?」


「スマホ四回落としたら困るから」


「……本当に?」


「……まあ」


 華がなんとなくにやにやしていた。


「なに」と凛が言った。


「なんでもない」と華が言った。


 遼は何も聞いていなかった。


 凛はスマホを拾ってまたコメントを見た。


「『神の域』って書いてある」


「すごいね」と華が言う。


「神はプリン交渉もするんだよ」


「人間らしくていいと思う」


「遼に普通のプリンを薦められたんだよ」


「ひどい」


「そう。神にも普通のプリンを薦める」


 遼が振り返った。


「プレミアム買ってくると言った」


「……ありがとう」


「……明日買ってくる」


「ありがとう」


 凛はスマホをまた置いた。


 天井を見た。


 今日一日の映像が、もう一度ゆっくりと流れた。廊下の空気が変わった瞬間。鈴木カメラマンが二カット目でちゃんと撮れた瞬間。モローが一言だけ言った瞬間。有村と台本を読んだ時間。


 全部、仕事だった。全部、好きだった。


 でも今一番くっきりしているのは、肉じゃがのじゃがいもの味だった。


 これが普通だった。


 凛は目を閉じた。


 ソファの端から靴下が見えていた。くまの柄の靴下が。

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