第27.3話「桜井詩織、飲みすぎる」
誘ったのは華だった。
「詩織ちゃん、今度三人で飲みに行こう」
詩織はスマホを見て、少し間を置く。
「三人って」
「私とお姉ちゃんと詩織ちゃん」
「……遼は」
「遼は呼ばない。女子会」
また少し間。
「私、あんまり飲めないんだけど」
「飲まなくてもいいよ! ご飯食べよ」
断る理由が、なかった。
待ち合わせは金曜の夜、恵比寿の駅前。
詩織が着いたとき、凛と華はすでにいる。
二人とも私服だった。凛は黒のトレンチコートにシンプルなパンツ。華はベージュのニットにデニム。どちらも、テレビで見る顔とは少し違う。ちゃんと一般人の顔をしている。
「詩織ちゃん!」
華が手を振る。
「お待たせ。早かったね」
「全然。今来たとこ」
凛が言った。嘘だと詩織には分かったが、何も言わない。
「お店、予約してあるから」と凛が歩き出す。「個室取った。落ち着けるから」
「ありがとう」
「まあ私も助かるし」
詩織と華が顔を見合わせて、少し笑った。
お店は駅から五分ほどの小料理屋。カウンターと個室が二つだけの、小さな店だ。
個室に通されて、三人でテーブルを囲む。
「何飲む?」と華がメニューを開く。
「ビールでいい」と凛。
「私も」と詩織。
「私は……」華がメニューを見る。「梅酒にしようかな。詩織ちゃん、飲めるの?」
「少しなら」
「遼って飲むの?」
「飲まない。というか興味ない」
「そんな気がしてた」と凛。
詩織は何も言わなかった。
料理が来た。
刺身の盛り合わせ、だし巻き卵、揚げ出し豆腐、鶏の唐揚げ。
「唐揚げだ!」と華が声を上げる。
「好きなの」と詩織が言う。
「大好き。遼も好きで、うちよく作るんだけど——」
「遼が? 自分で?」
「作るよ。下味の配合が決まってるらしくて、すごく美味しいんだよね」
「知らなかった」
「知らないことあるんだ」凛が少し笑う。「詩織でも」
「私が何でも知ってると思わないで」
「思ってた」
「思わないで」
詩織がビールを飲んだ。
華が唐揚げを一個つまみながら言う。「詩織ちゃん、お仕事どう? 出版社って楽しい?」
「楽しい。思ったより向いてるかもしれない」
「どんなことするの?」
「今は編集補助みたいな仕事がメインで。原稿読んだり、著者さんとのやり取りのサポートをしたり」
「原稿読む仕事、詩織ちゃんに合いそう」
「合ってると思う。ずっと読んでていい仕事だから」
「幸せじゃん」
「幸せ」
素直に言えた。
凛が「いいな」と言う。「やりたいことが仕事になってる人って、顔が違う」
「お姉ちゃんもそうじゃん」
「私はまだ途中」
「途中でも十分すごいけど」
「そういうこと言うの、詩織っぽくない」
「たまには言う」
三人で少し笑った。
二杯目のビール。
「もう十分」と思いながら、詩織はなんとなく飲んでいる。
話が続く。仕事の話、凛の現場の話、華の映画の話。凛が神崎監督のことを「演出が変わってる」と言い、華が「でもすごいんでしょ」と言い、凛が「……まあ」と答えた。
そのやり取りを聞きながら、詩織は思う。二人が好きだ。
遼の姉妹だから、ではなく。凛と華という人間が、好きだ。
「詩織ちゃんって」
華が言う。
「好きな人、いないの?」
少し止まった。
「なんで急に」
「なんとなく」
華がにこにこしている。
「……いない」
「そっかー」
「そっか、じゃない顔してる」
「してないよ?」
凛も知らん顔でお茶を飲んでいる。
「凛ちゃんも何か言いたそう」
「別に何も」
「……二人して」
「落ち着いてて、包容力あって、綺麗なのにね」と華が言う。
「やめて」
「本当のことじゃん」
「やめて」
「詩織は昔からそういうの苦手」と凛が言う。「褒められると話を変える」
「そんなことない」
「ある。小学校の頃からそう」
「覚えてるの」
「覚えてる。作文が選ばれて褒められたとき、急に天気の話し始めた」
そんなことしただろうか。心当たりがないわけでもないが。
「まあ、誰かいたとしても、言わないけど」
「なんで」
「言っても仕方ないことは言わない」
華がむう、という顔をする。
「詩織ちゃんってそういうとこある」
「そういうとこって何」
「全部自分の中で解決しようとするとこ」
「解決できれば問題ない」
「できないこともあるじゃん」
「……まあ」
三杯目のビール。
そういえば「あんまり飲めない」と言っていた。
話は続く。
詩織の記憶がやや曖昧になり始めたのは、四杯目に差し掛かったあたり。
日本酒を頼んでいた。なぜ頼んだのか、よく覚えていない。華が「これ美味しそう」と言っていたから、気づいたら一緒に頼んでいた。
頬が熱い。
でも話は面白かった。
凛が撮影現場の話をしている。スタッフが機材の扱いを間違えて大騒ぎになった話で、凛が淡々と再現するのがおかしくて、詩織は笑っていた。
「そのとき遼がいたら一瞬で直してたね」と華が言う。
「そうだね。遼ならすぐ直す」
「詩織ちゃん、遼のこと詳しいね」
「……まあ、長いから」
「……仲良い、というか」
少し考える。
「ただいる、みたいな感じ」
「ただいる?」
「ずっとそこにいる人、みたいな。空気、みたいな」
「空気かー」
「うん」
「空気ってどういう意味?」
「ないと困る、みたいな」
言ってから、詩織は少し止まった。
今、何を言った。
「ないと困る人なんだ」と華が静かに言う。
「……そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「……なんか、遼ってその、普通にいるじゃないですか、ずっと、そこに」
なんか変なことを言っている気がした。
凛が詩織を見ている。
「……詩織」
「なに」
「顔赤い」
「暑いから」
「お店、そんなに暑くない」
「暑い」
「……ね、華」
「うん」
「お水、頼もうか」
「頼もう」
二人がなぜかにこにこしている。
「なんでそんな顔してるの」と言おうとして、それより先に口が動いた。
「遼ってさ」
「うん」
「なんであんなに普通でいられるの」
「普通?」
「なんか、世界がざわざわしてても、あの人だけ、普通に部品触ってるじゃないですか。何があっても。それがなんかもう、ほんとに、なんか、もう」
言葉が出てこない。
「もう?」
「もう、ほんとに」
「ほんとに、何が?」
「ほんとに、なんか、ばか」
出た。
凛と華が顔を見合わせた。
「ばか?」と華。
「ばかというか、ほんとに、もう、あの人は、なんで、こっちがこんなに」
「こんなに、何?」
「こんなに、なんか、もう、ばかー!!」
個室だったのでよかった。
でも声はそこそこ大きかった。
お店の人が障子の外を通りかかった気配。
凛が素早く障子を開ける。
「すみません、友達が少し酔っちゃって。お水いただけますか」
完璧な笑顔。国民的女優の顔だった。
「かしこまりました」と店員が言って去っていく。
凛が障子を閉めた。
詩織は両手で顔を覆っていた。
「ばか、ばか、ばか」
「誰が」と華が聞く。
「遼が」
「何がばかなの」
「全部が」
「全部?」
「なんにも気づかないし、気づく気もないし、でも普通にしてるし、LINEの返事は短いし、でも返ってくるし、それがなんか、もう、ほんとに、アホ」
「アホも出てきた」と凛。
「アホ、アホ、ほんとにアホ」
「詩織ちゃん」と華が笑いをこらえながら言う。「落ち着いて」
「落ち着いてる」
「落ち着いてない」
「落ち着いてる、ただ、遼がアホなだけ」
「そうだね」
「そうでしょ」
「うん」
「分かってる? あの人、ほんとに、もう、ずっと、あんなんで、こっちは、ずっと、ずっとだよ、ずっと」
「ずっとだね」と凛が静かに言う。
「ずっと! ずっとずっとずっとずっと! アホー!!」
個室でよかった。
本当によかった。
凛は障子の向こうが気になったが、開けない。代わりに隣のテーブルの気配を探る。誰もいない。よかった。
華が詩織の背中をさすっていた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない、なんか、こんなこと言うつもりじゃなかった」
「いいよ、ここだけの話だから」
「恥ずかしい」
「恥ずかしくない」
「恥ずかしい、ばか」
「遼がばか?」
「遼がばか」
「そうだね」
「そうでしょ」
「うん」
詩織がぐでっとテーブルに突っ伏した。
凛と華はしばらく詩織を見ていた。
目が合う。
凛が小さく頷いた。
華も小さく頷いた。
声のない会話が、成立した。
——知ってた。
——知ってた。
——ずっと。
——ずっと。
お水が来た。
詩織が顔を上げて飲む。
少しずつ正気が戻ってくる。
戻るにつれて、今の自分が何を言ったかが、じわじわと明らかになってくる。
「…………」
「落ち着いた?」と華が聞く。
「……落ち着いた」
「よかった」
「……今、私、何を」
「楽しい話をしてたよ」
「楽しい話」
「うん」
詩織は凛を見た。真顔だった。でも目が笑っている。
「……凛ちゃん」
「なに」
「今の、忘れてほしい」
「忘れた」
「本当に?」
「本当に」
嘘だった。絶対に忘れない。でも今は言わない。
「……華ちゃんも」
「忘れたよ!」
華も嘘だった。
詩織はお水をもう一口飲んで、立ち上がった。
「……お手洗い行ってくる」
「うん」
二人きりになった。
華が凛を見る。
「……お姉ちゃん」
「うん」
「詩織ちゃん、ずっと好きなんだね」
「そうだね」
「遼、ほんとに気づいてないの?」
「気づいてない」
「なんで」
「あいつはそういう目を持っていない」
「もったいない」
「もったいない」
少し黙った。
「遼に言う?」と華。
「言わない」と凛が即答する。
「なんで」
「詩織が言ってないのに、こっちから言う話じゃない」
「そっか」
「でも」
凛がお茶を飲む。
「いつかは言えるといいね」
「うん」
「詩織が、自分で」
「うん」
詩織が戻ってきた。
顔を洗ってきたらしく、少しすっきりしている。
「……お待たせ」
「全然」
「なんか、変なこと言ってたら、ごめん」
「全然」と華が言う。「楽しかったよ」
「楽しかった?」
「うん。詩織ちゃんがあんなに喋るの、初めて見た」
「……そう」
「なんか、遼の話になると、少し顔が変わるね」
「……そんなことない」
「変わる」と凛。「昔からそう」
「昔から?」
「うん」
詩織はお水を飲んだ。
何も言わない。二人も聞かない。
料理の続きが来た。焼き魚と、小さなデザート。
「デザートだ」と華が言う。「食べよ」
「食べよう」
三人でデザートを食べた。
話は別の方向へ。職場の話、最近読んだ本の話、どこかに旅行に行きたいという話。
普通の、何でもない話。
詩織はそれが、少し嬉しかった。
店を出たのは十時過ぎ。
外の空気が冷たくて、頭が少し冷える。
「また飲もうね」と華が言う。
「また誘って」と詩織は答えた。
「次は遼も呼ぼうか」と凛。
「……呼ばなくていい」
「なんで」
「なんとなく」
凛が少し笑った。
「まあ、そうしよう」
三人で駅まで歩いた。
改札の前で別れる。
「気をつけてね」
「うん、詩織ちゃんも」
「また連絡する」
手を振って、詩織は改札を抜けた。
電車を待ちながら、スマホを出す。
遼との会話画面を、なんとなく開いた。
最後のやり取りは三日前。「今日飯作った」「何作ったの」「親子丼」「おいしそう」「まあ」。
それを見てから、スマホをしまった。
今夜言ったことは覚えていない。
覚えていない、ということにした。
電車が来た。
乗り込んで、ドアが閉まる。
窓の外に夜景が流れていく。
小さく息を吐いた。
——ばか。
心の中だけで、もう一回だけ言った。




