第27話「台本の外で」
撮影の合間には独特の時間が流れる。
次のカットの準備が整うまでの、十分か二十分か——「待ち」の時間。スタッフは動いているが、俳優は動けない。かといって集中も切れない。その宙吊りの状態で、人はそれぞれの場所に落ち着く。
宮本奈々は、スタジオ裏の喫煙所でショートピースに火をつけた。
屋外の小さなスペース。灰皿が一つ。台本は手に持っている。メモが細かい字で埋まっている。
今日の撮影は五時間を超えた。茉莉と葵のシーンが中心。奈々にとっては、この現場で一番好きな種類のシーンだ。二人の間に流れるものが、台本に書かれている以上に豊かで、なのに整っている。
そういう現場を、奈々はそんなに多く知らない。
一本吸い終えて中に戻ると、廊下に柊華と水城蒼真が並んでいた。
台本を広げている。練習か、相談か。
奈々は特に声をかけなかった。
廊下の壁際に並んで、華と蒼真が台本を広げている。
華が台本を開いた。
「ここ、朔って何を感じてると思いますか」
華が聞いた。
「……茉莉が、何かを隠してるって感じてる、と思います」
「隠してる、っていう感じで来るんですよね」
「そうじゃないですか」
「でも朔はそれを問い詰めない。確認もしない。「そっか」って言って終わる」
「……茉莉が答えたくないと分かってるから、じゃないですか」
華が少し考えた。
「それ、優しさですか」
「え?」
「朔が聞かないのって——優しさなのか、怖いのか、どっちだと思います?」
蒼真がしばらく台本を見た。
「……両方、じゃないですか。怖い、でも聞いたら変わる。だから聞かない」
また間。
「それって」と華が言いかけて、止まった。
「何ですか」
「……葵が茉莉に、ずっとそうしてたのと同じかな、と思って」
台本相談が続く。
「このシーンの朔は、後で後悔するか」「茉莉はこのとき笑っているか」「「そっか」の一言に何が入っているか」——問いを出すのは華で、蒼真が答える。
蒼真の答え方には、独特の癖がある。
凛に同じことを聞くと、「構造として」返ってくる。このシーンのこの台詞はこの役の性格上こう機能している、という言い方。台本を設計図として読む。
遼に同じことを聞くと、「理由として」返ってくる。この人物がここでこう行動するのはこういう事情があるから、という言い方。人の行動のロジックを分解する。
蒼真は違う。
「俺がこのシーンを初めて読んだとき、朔が茉莉のことをうらやましいと思いました」
「うらやましい?」
「葵が茉莉を見てる。ちゃんと見てる。でも葵は茉莉に気づかれてない。それがなんか……葵に対して、「ちゃんと見てやれよ」って思った」
華は少し止まった。
「それは朔の感情ですか、蒼真くんの感情ですか」
蒼真が首を傾けた。
「……どっちか分からないです。でも、朔が「そっか」って言う理由は、それじゃないかと思って」
「「そっか」の中に、葵への「ちゃんと見てやれよ」が入ってる」
「……かもしれないです」
今度は華がしばらく黙った。台本のページに目を落として、朔のセリフを指でなぞった。
「それ、すごく朔っぽい」
「そうですか」
「そう。凛や遼の答え方と、全然違う」
「柊さんとお兄さんに——演技の相談を?」
「台本の話をよくしてもらうんですよ。でも二人とも、自分がどう感じたかじゃなくて、構造とか理屈で話してくれる。それはそれですごく助かるんですけど」
「蒼真くんは」
「蒼真くんは、自分の感情で答えてくれる」
蒼真が少し目を細めた。
「それって……いいことですか」
「初めての感じがして」と華が言った。
蒼真は少し間を置いた。
「俺、演技って努力でしかないと思ってたんですよ」
唐突に、でも自然な言い方。
「感覚でやってる人を横で見るたびに、コンプレックスで。積み上げないと出来ないなって」
「蒼真くんは積み上げてきた人だと思いますよ」
「でも、それって——茉莉に近くなれないということでもあって」
華が台本から目を上げた。
「茉莉に?」
「茉莉はいつも、「余計なことを考えていない人」の顔をしてる。葵と一緒にいるとき、現場を楽しんでいるとき。でもその明るさが、どこかで決まってる感じがして」
「……決まってる」
「弾けきらない。何かを知ってる人の明るさ」
華は台本を閉じた。
「それ、奈々さんも言ってた」
「奈々さんが?」
「「明るさの裏を知ってる人にしか茉莉は演じられない」って、篠原監督が言ったと教えてくれた。奈々さんはそれを「二十年で見てきたもの」として体に持ってる人だって」
蒼真は少し考えた。
「じゃあ俺が朔として茉莉を見るとき、そこを理解しないといけない」
「理解、じゃなくていいんじゃないですか」
「え」
「感じればいいだけで。蒼真くんがさっき言った「決まってる明るさ」——それ、もう感じてるじゃないですか」
蒼真が止まった。
「……確かに」
「蒼真くんの感じたことが、そのまま朔になると思う」
「それって——」
「だから華さんの演技、怖いくらい自然なんです」
蒼真が突然言った。声のトーンが、さっきまでとほんの少し違う。
「台本の中の葵が、ちゃんとそこにいる。計算してる感じがしない。葵として存在してる感じで」
華は少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
「本当のことです」
「蒼真くんも、ちゃんとそこにいるよ」
気づいたらそう言っていた。
蒼真が、また止まった。
奈々は廊下の端に立って、二人の方を見ていた。
二人の声は聞こえない。距離がある。でも遠目で見ていれば分かることはある。
蒼真の立ち方が変わった。
「練習のために並んでいる俳優」の立ち方と、「話しかけたくて立っている人間」の立ち方は、微妙に違う。体の向き、重心の置き方、そういう細かいものが変わる。奈々はそれを体で読んでいる。
(分かりやすいなあ)
口の端でタバコを動かした。
華の方はまだ分からない。何かに当たったときの顔をしているのは分かる。でもそれが何に当たったのかを、本人がまだ整理していない気がする。
葵として台本を読んでいる顔と、今の顔が少し混ざっている。
それくらいのテンポの方が、いい。
奈々は次の撮影の準備のため、歩き始めた。二人の横を通り過ぎながら、何でもない顔で言った。
「そろそろ呼ばれるよ、二人とも」
「あ、はい」
「行きます」
二人の声がほぼ同時に返ってきた。
奈々は先に歩きながら、笑いを少しだけ外に出した。
スタッフに見られていないのを確認してから。
帰りの電車。
華は窓の外を見ていた。
正確には、外の景色を流しながら今日のことを頭の中で繰り返している。
「ちゃんとそこにいるよ」。
気づいたら言っていた。言った瞬間、蒼真が止まった。なぜ止まったのか、理由がまだうまく整理できない。
変なことは言っていない。本当のことを言っただけだ。
でも——
「感じればいいだけで」と言ったとき、蒼真が「確かに」と返した。あの「確かに」の声の質が、台本の話をしているときの声と少し違かった。
もう少し近くにある感じの声だった。
なんか、近くにある感じ。
言葉にすると変だと自分でも思う。でも他の言い方が出てこない。
「よかった」がある。
今日の台本相談は、よかった。蒼真の「俺はこう感じた」という答え方は、よかった。凛や遼と違う角度で、でもちゃんと刺さる感じがして、よかった。
「よかった」のままにしておくことにした。
マンションに帰ると、凛が先にいた。
リビングのソファで台本を読んでいる。神崎ドラマの台本。ページに赤ペンが入っている。
「お疲れ」
「お疲れ様。今日どうだった?」
台本から目を上げないまま聞いた。
「普通に良かったよ」
「顔がそう言ってない」
「言ってるって」
「声のトーンが、普通に良かったのトーンじゃない」
「どんなトーンなの普通に良かったのって」
「もう少し落ち着いてる」
華は台所でお茶を入れながら、「お姉ちゃんのそういうとこ怖い」と言った。
「六年培ったものがある」
「なんでも六年で解決しないで」
コップを二つ持ってソファに戻る。凛の分も置いた。
「蒼真くんと台本の話をして」
「水城くんと」
「このシーンの朔をどう感じたか、って聞いたら、「葵へのちゃんと見てやれよ」が朔の「そっか」に入ってるって言って」
凛がページをめくる手を止めた。
「それは、良い読み方だと思う」
「そうだよね。凛みたいな骨格でも、遼みたいな理屈でもなくて、「俺はこう感じた」で来た」
「初めて?」
「初めての感じがして」
「そう」
凛は台本に戻った。
でも赤ペンを動かさなかった。
「凛?」
「ん」
「なんか考えてるよね」
「考えてない」
「絶対考えてる。その顔はなんかある顔」
「ページ読んでる」
「目が動いてないよ」
凛が静かに言った。
「良かったじゃない」
「え?」
「そういう答え方をしてくれる人が現場にいるのは、良いことだと思う。それだけ」
華は少し間を置いた。
「……なんかそれ、うれしい」
「そう」
「でも絶対他にも何か考えてるよね」
「考えてない」
「ページ一枚も進んでないじゃん」
「……静かにして」
そこに遼が帰ってきた。
玄関の音。コンビニの袋の音。台所に直行する気配。
「お疲れ」と華が声をかけた。
「おう」
遼がリビングに入ってくる。袋から豆腐と卵と何かの瓶が出てきた。テーブルの端に座って、スマートフォンを見た。
ちらっと華の方を見た。
「顔、赤いぞ」
一瞬、静止した。
「……そんなことない」
「赤い」
「気のせい」
「気のせいじゃない。熱か?」
「熱じゃない!!」
声が上がった。
凛が台本から顔を上げた。
「遼、今それ言う必要ある?」
「顔が赤かったから言った」
「そういう場合は言わなくていい」
「なんで」
「そういうもんだから」
「そういうもん、というのはどういう理由で」
「おいしいごはんを食べると気分がいい、のと同じ理由で」
「意味が分からない」
「分からなくていい、そっちも」
遼が華を見た。華を見て、凛を見た。凛はもう台本に戻っている。
「……何の話をしてたんだ」
「なんでもない」と凛。
「関係ない」と華。
ぴったりかぶった。
遼は「そうか」と言って豆腐を台所に持っていった。首をかしげながら。
夕食は遼が豆腐の味噌汁を作り、凛がパスタを茹で、華が卵焼きを焼いた。三人の担当が自然に決まっている夜。
食べながら、凛が遼に聞いた。
「朔って、どんな人間だと思う」
「誰」
「映画の登場人物。葵の幼馴染の男の子」
「台本読んでないから分からない」
「設定だけ言うと、好きな子に何かあるって気づいてるのに、聞かない人間で」
遼が味噌汁を一口飲んだ。
「聞かない理由は」
「変わるのが怖いから。でも優しさでもある」
「……そういう人間なら、「そっか」とだけ言って黙ってそうだな」
凛の箸が止まった。
華の箸も止まった。
「なんで分かるの」
思わず言った。
遼が普通の顔をしている。
「そういう人間の行動として自然だから」
「普通に分かるの?」
「普通に分かる」
華と凛が顔を見合わせた。
「……この人の「普通」は、やっぱり普通じゃない」と華が小声で言った。
「普通だろ」と遼が即座に返した。
「だからその「普通だろ」が普通じゃないんですよ!」
「そうか?」
凛がパスタを一口食べながら、「そうだよ」と言った。
「普通じゃない」
「……そうか」
遼がまた味噌汁を飲んだ。特に気にしていない。
夜。
部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見た。
これなに。
声には出さず、でも頭の中でそのまま思った。
これなに。
「そっか」の中に何が入っているか、蒼真が「葵へのちゃんと見てやれよ」と言った。遼に同じことを聞いたら「そういう人間なら自然」と言った。
両方、当たってる気がする。でも同じ話をしているのに、感触が違う。
遼の言い方は正しい。でもどこか遠い。
蒼真の言い方は——近かった。
近かった理由が、まだ分からない。
分からないけど、その「近かった」が今日一日、どこかに残っている。
葵として台本を読むときも、蒼真の朔の声の質を思い出す。それが何かと連結している感じがするが、何と連結しているかが分からない。
——プリン、ある。
冷蔵庫に入れてきた。今日は忘れなかった。
遼に取られる前に、明日の朝一番に食べよう。
それだけを決めて、目を閉じた。
同じ夜、撮影所近くのホテル。
奈々の部屋のドアをノックする音がした。
「……はい」
「奈々さん、少しいいですか」
蒼真の声だった。
奈々はグラスを置いて、ショートピースに火をつけた。
「どうぞ」
ドアが開く。蒼真が入ってきた。服のまま、台本をまだ持っている。
「座って」
椅子を示した。蒼真が座る。
しばらく、奈々は何も言わなかった。蒼真も言わなかった。
煙が上がる。
「……今日の廊下、見てましたか」
蒼真が先に口を開いた。
「端から見てた」
「……そうですか」
「で、どうした」
「相談していいですか」
「どうぞ」
また間。
「……俺、好きになった気がします。華さんのことが」
奈々は煙を吐いた。
「かもじゃないでしょ」
「え」
「かもじゃないでしょ、って言った」
蒼真が少し目を見開いた。
「なんで分かったんですか」
「今日だけじゃない。クランクインの日から分かってた」
「クランクインの日」
「顔合わせで「かぶった」って笑ったでしょ。あの瞬間から、表情が変わってた」
蒼真が黙った。
「タイミングとか、どうすれば」
「タイミング待ってたら一生言えないよ」
「でも、現場中で——」
「現場中は仕事。それ以外の時間に言えばいい。それだけ」
蒼真が台本を膝に置いた。
「奈々さんは、好きな人に言えますか」
奈々は少し止まった。
煙を一本、ゆっくり吐いた。
「……私の場合は、構造が複雑なんだよね」
それだけ言って、焼酎を一口飲んだ。
蒼真は「複雑というのは……」と続けかけて、奈々の顔を見て止めた。
聞かなくていいやつだ、と分かった。
「まあ、頑張れ」
奈々が言った。
「華ちゃんは、まだ気づいてないと思う」
「……そうですよね」
「でも今日の顔は、何かに当たってた。時間をかけて、ちゃんとそこに立てばいい」
「ありがとうございます」
「それと」
灰皿にタバコを押しつけた。
「現場中はちゃんと仕事しろ。今の二人の朔と葵、いいんだから。邪魔するな」
「分かりました」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
ドアが閉まった。
奈々は一人になった。
グラスを持ち直す。焼酎がまだ半分ある。
(構造が複雑、か)
自分で言って、少し可笑しくなった。
麻雀で言えば、手牌が揃いそうで揃わない状態。完成形は見えている。でも最後の一牌が来ない。来ないから「複雑」と言っておく。
……なんの話をしているんだ、私は。
一人でつっこんで、焼酎をもう一口飲んだ。
翌朝。
六時すぎ、まだ三人とも起きていない柊家の台所。
華が静かに冷蔵庫を開けた。
二段目。
プリンが三個並んでいる。
華のもの、凛のもの、遼のもの。
昨日自分でちゃんと入れた。確認済み。
スプーンを取り出して、自分のプリンを手に持つ。椅子に座って、そのまま食べ始めた。
誰もいない。静かな台所。
一口目。
甘い。
台本の第五話、朔と茉莉の廊下のシーン。「そっか」の一言に、何が入っているか。
蒼真が言った「葵へのちゃんと見てやれよ」。
その「ちゃんと見てやれよ」が、朔の「そっか」からどう出てくるか——
「何してんだ」
声がした。
振り返ると、遼が立っていた。
「……朝練」
「プリンで朝練?」
「気合いを入れてる」
「そうか」
遼が冷蔵庫を開けた。麦茶を出す。コップに注いで、向かいに座った。
「昨日の台本の話」
「え」
「朔の「そっか」に何が入っているか、答えが出たか」
華は少し止まった。
「……出たかもしれない」
「そうか」
「遼の「そうか」と、朔の「そっか」、使い方同じかもしれないよ」
遼が麦茶を飲んだ。
「どう同じ」
「言ってない、でも分かってる、っていう」
「……まあ、そういうこともある」
「それを遼は普通にやってるし、朔もそれでやってるんだよ」
「そうか」
「「そうか」!!」
華が思わず声を上げたところで、凛が寝ぼけた顔でリビングに入ってきた。
「……うるさい。何時だと思ってる」
「六時すぎ」
「六時すぎにプリン食べながら何を」
「台本の話してた」
「この人たちは」
凛が冷蔵庫を開けて、麦茶を出して、そのまま椅子に倒れ込んだ。
三人で無言の時間が少しあった。
朝の台所。コップの音。外から車の音。
華はプリンの最後の一口を食べた。
(「そっか」の中に何があるか——今日の撮影で出せる気がする)




