第26.8話「黒瀬綺羅、考察を止められない」
黒瀬綺羅は、今日も変装をしていた。
黒のキャップ。黒のマスク。黒のパーカー。
統一感はあるが、身長百八十二センチのAURUMリーダーが全身黒でフードを被って立っていると、むしろ目立つ。それを本人は知らない。
マンションのエントランス前。
スマホを取り出してインターフォンを確認しようとしたとき、後ろから声がした。
「綺羅ちゃん」
振り返ると、華が紙袋を両手に持って立っていた。
「なんで外で待ってるの」
「……その方がよいかと思って」
「普通に押して入ってくれていいんだけど」
「住所と部屋番号を教えていただきましたが、勝手に上がるのはどうかと」
「どうかって何が」
綺羅は答えなかった。
正直に言うと、少し緊張していた。柊家に来るのは初めてで、お兄さんとお姉さんがいると聞いていた。芸能界で長く生きてきたが、友人の家に遊びに行くという経験が、思ったより少ない。
華が「変な人」と言いながら先を歩いた。綺羅はついていった。
エレベーターを降りて、廊下の突き当たり。
華がドアを開けた。
「ただいまー。連れてきたよ」
リビングから、凛の声が返ってきた。
「お帰り。……連れてきたって誰を」
綺羅が玄関に入った。
靴を脱いで、顔を上げた。
リビングのソファに、柊凛が座っていた。台本を手に持ったまま、こちらを見ていた。
三秒、沈黙があった。
「……AURUMの」
「黒瀬綺羅です。お邪魔します」
凛がゆっくりとソファから立ち上がった。表情が、外向きの顔になっていた。
「柊凛です。華がお世話になっています」
「こちらこそ。華さんには」
「ちょっと待って」
凛が華を見た。
「なんで連絡なしで連れてくるの」
「言ったじゃん。今日友達来るって」
「誰が来るか言ってくれないと困るでしょ!」
「言ったじゃん、友達来るって」
「そういう問題じゃない」
綺羅は玄関に立ったまま、姉妹のやり取りを見ていた。
テレビで見る柊凛とは、声の温度が違った。家の中にいる凛は、もう少し速くて、少し高い。お姉ちゃんの顔だ、と思った。
それと同時に、別のことに気がついた。
リビングの奥、ダイニングテーブルに、人が一人座っている。
こちらには背を向けていた。黒いTシャツ。やや猫背。テーブルの上には部品らしきものが並んでいて、小さなドライバーを持った手が、静かに動いていた。
気配がなかった。
正確には、気配がないというより、自分の作業だけに閉じている種類の静けさだった。
「あ、遼」
華が声をかけた。
「綺羅ちゃん来たよ。挨拶して」
返事がなかった。
三秒待ってから、華がもう一度言った。
「遼」
「……ん」
ようやく振り返った。
柊遼だった。
綺羅は、その顔を見た。
見た。
見た。
(……)
「どうも」
遼が言った。
すぐにまたテーブルの方に向き直って、ドライバーを動かし始めた。
綺羅は、玄関に立ったまま、動けなかった。
華が「こっちこっち」とリビングに引っ張っていった。
ソファを勧められて、少し遅れて凛がお茶を持ってきた。
「急に来てしまってすみません」
「いえ」凛は座り直しながら言った。「華の友人なら、気にしないでください」
横目で華に「後で話す」という目線を送っていた。華は「はーい」と軽く返していた。
綺羅はお茶を受け取りながら、斜め奥のテーブルをちらと見た。
遼は作業を再開していた。小さなピンセットを使って、基板の何かを確認している。
表情がない。正確には、ない、というより、何かに集中しているときの顔だった。作業だけを見ていて、リビングで三人が話しているのを気にしていない。
(……なるほど)
綺羅の中で、何かが静かに動き始めた。
「綺羅ちゃん、どうしたの」
華が言った。
「いえ」
「さっきからちらちら見てるじゃん」
「見ていません」
「見てた」
凛も気づいていた。少し首を傾けて、綺羅を見ていた。
「弟が気になりますか」
「……いえ、その」
「作業中は話しかけても返事しないので、無視されても気にしないでください」
「あ、はい」
「いつもああなので」
「そうですか」
(そうか。ああいうキャラクターなのか)
綺羅の中で、何かがメモされていった。
一時間ほど、華と凛と話した。
といっても主に話していたのは華で、凛が時々突っ込んで、綺羅は相槌を打ちながら、少し離れた場所で動く人間をちらちらと観察していた。
遼は途中でキッチンに立ち、お茶を自分で淹れて戻ってきた。凛に「人がいるんだから一言くらい」と言われて、「どうも」とだけ言って戻っていった。
凛がため息をついた。
「本当に愛想がないですよ、うちの弟」
「いえ……」
「黒瀬さんが来てるのに」
「気にしていないんだと思います」
本心だった。
あれは、気にしていないのではなく、等しく扱っているのだ。自分が有名人であることと、目の前の作業のどちらが大事かといえば、疑いなく後者、という顔をしている。
悪気がないのも分かる。ただ単純に、優先順位がそうなっている。
(……面白い)
綺羅は静かにお茶を飲みながら、内側で思った。
「ちょっといいですか」
遼が唐突に言った。
全員がそちらを向いた。
「ハンダごて、どこ置いた」
「引き出しに入れたじゃん」と華が言った。
「ない」
「じゃあお姉ちゃんが片付けた」
「触ってない」凛が言った。「そこの棚じゃないの」
「ない」
「テレビの下は?」
「……あった」
会話が終わった。遼は棚からハンダごてを取り出して、また作業に戻った。
綺羅は、その一連を静かに見ていた。
(……)
(待って)
(……この人)
何かが綺羅の中で大きく動いた。考察スイッチ、というやつだった。一度入ると、なかなか止まらない。
「綺羅ちゃん」
華の声がした。
「何をそんなに考えてるの」
「……何も考えていません」
「絶対考えてる。顔がそういう顔になってる」
「そういう顔というのは」
「考察してるときの顔」
綺羅は止まった。
華だけがそれを知っていた。推しカプの考察をしているときの自分の顔を。
「…………してません」
「してる」
凛が二人を交互に見た。
「何の話をしてるんですか」
「内緒です」
華が即答した。綺羅も黙った。
凛が怪訝な顔をした。
三十分後。
凛が「次の現場の確認をしてくる」と席を外した。
リビングに、綺羅と華と、作業中の遼だけになった。
ドアが閉まった瞬間、綺羅の姿勢が少しだけ崩れた。
「……ねえ華ちゃん」
「うん」
「あの子、何してるの」
声が変わっていた。低音は低音のままだが、語尾がやわらかくなっている。
「部品直してる」
「何の部品」
「さあ。聞いたことない」
「……そう」
綺羅はソファの上で少し体を傾けて、テーブルの方を見た。
遼の手が、ピンセットで何かを摘まんでいた。細かい作業なのに、ぶれない。
「あの子、全然こっち気にしてないわね」
「うん、いつもああだよ」
「……ねえ」
「なに」
「あの子、受け顔じゃない?」
一秒の沈黙。
「は?」
「だから——」
「ちょっと待って待って待って」
華が両手で顔を覆った。
「綺羅ちゃん、さっきから考察してる顔してると思ったら」
「してたわよ。だってあの静けさ、あの距離感、話しかけられたら短く返してすぐ作業に戻るあの感じ——解釈一致すぎるのよ」
「やめて!!」
小声で叫んだ。
遼がわずかに振り返った。
「うるさい」
「ごめん」
華が慌てて言った。遼はまた作業に戻った。
その一連を、綺羅は見ていた。
「……今のも」
「言わないで」
「華ちゃん」
「言わないで!!」
「でも——」
「言わないで!!!」
また振り返られた。
「うるさい」
「ごめんなさい」
今度は綺羅が言った。
遼は三秒こちらを見て、それからまたテーブルに向き直った。
その背中を見ながら、綺羅は小さく息を吐いた。
「……何歳なの、あの子」
「二十二。同い年」
「……そう」
「その『そう』に何の感情が入ってるの」
「何も入ってない」
「顔に全部出てる」
「出てない」
「出てるから!」
遼が「ハンダ付け終わった」と独り言を言いながら、基板をひっくり返した。
綺羅の口から、音がこぼれた。
「……尊」
「聞こえてる」
「聞こえてない、声に出してない」
「顔に出てた」
綺羅は初めて本気で動揺した。
「……出てない」
「出てた。ものすごく出てた」
「出てない!」
「綺羅ちゃん」
華が真顔になった。
「遼のことBL的な目で見るのは一生やめてください」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる! 分かってるわよ! こういう人を勝手にキャラ化するのはいけないって!」
「じゃあやめて」
「やめてる! やめようとしてる!」
「やめようとしてるってことはまだやめてない」
「……うるさい」
声が少し上がっていた。
遼がまた振り返った。
「うるさい」
綺羅と遼の声が、わずかにかぶった。
遼は無表情のままテーブルに向き直った。
綺羅はソファの上で静止した。
しばらく沈黙が続いた。
夕方、凛が戻ってきたとき、リビングの空気が微妙だった。
綺羅は王子様スマイルに戻っていたが、心なしか目が泳いでいた。華は「何でもない」という顔をしようとして、うまくいっていなかった。
「……何かあった?」
凛が二人を見比べた。
「何でもないです」
綺羅が答えた。低音。丁寧な口調。完璧な笑顔。
凛は三秒ほど綺羅を見てから、華に視線を移した。
「華」
「……うん」
「この人、さっきと口調違くない?」
沈黙。
「……気のせいじゃないですか」
綺羅が言った。
「気のせいじゃないと思う」
凛は穏やかだったが、目が笑っていなかった。女優の目だった。
「さっきより少し崩れてる」
「……崩れていません」
「崩れてる。華、説明して」
華が綺羅を見た。綺羅が華を見た。
「……綺羅ちゃんはね」
「言わなくていい」
「BLが好きで」
「言わなくていい!!」
声が完全に出た。
王子様の低音ではなかった。
遼がまた振り返った。
「うるさい」
「……すみません」
綺羅が絞り出すように言った。
凛は数秒、綺羅を見ていた。それから小さく笑った。外向きの顔ではなく、家の中の顔で。
「そうなんですね」
「……はい」
「別にいいんじゃないですか、そういうの」
「……あ」
「うちの弟が余計なことを考察されるのは困りますけど」
「しません。もうしません」
「本当に?」
「……します、という顔をしてますか」
「してる」
華がすかさず言った。
「してるわよ」と綺羅も小声で認めた。直後にハッとして口を塞いだ。
凛が「はあ」とため息をついた。
「華の友人はいつも変な人ばかり来る」
「ひどい」
「誉めてる」
玄関で靴を履いているとき、凛が言った。
「また来てください」
「……本当にいいんですか」
「華が喜ぶので」
綺羅は少し黙ってから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
華が「バイバイ」と手を振った。
ドアが閉まった。
廊下を歩きながら、綺羅はスマホを取り出して、素早くメモアプリを開いた。
打ち込んだのは三行だけだった。
主人公属性の実在——距離感が均質、感情が静か、作業に入ると世界が閉じる
周囲が振り回されているが本人は無自覚——典型的な受け適性
次回来訪時、もう少し観察の余地あり
保存ボタンを押した。
それからハッとして、三行全部消した。
エレベーターが来た。
乗り込みながら、黒瀬綺羅は一人で深く息を吐いた。
華には絶対に見せられない。
墓まで持っていく。




