第26.5話「安全圏の外にいる人」
鷹野千夏は、人の顔を見るのが得意だ。
正確には「人の顔を見て、その人が何を考えているかを顔に出さずに把握する」のが得意だ。女優として六年。芸能界というのは基本的に全員が何かを演じているので、素の顔を見抜くには慣れがいる。千夏はそれが得意だと思っている。
だから今日、楽屋に入った瞬間に分かった。
凛の顔が、普段と違う。
その日、千夏は凛と同じスタジオで仕事だった。
千夏は別の現場——同じビルの別フロアで短編ドラマの収録。凛は神崎ドラマの撮影。終了時間がたまたま重なって、事務所が楽屋を共有で押さえていた。
収録を終えて楽屋に戻ってきた千夏が見たのは、鏡の前に座ってアイシャドウをいじっている凛の横顔だった。
メイクは完璧だ。スタイルも完璧だ。姿勢も完璧。
でも、目の下が少し赤い。
ファンデーションで整えているが、千夏には分かる。化粧の上からでも、泣いた跡というのは滲むものだ。熟練した目で見ると、隠し切れていない。
千夏は自分の荷物を棚に置きながら、さりげなく凛の方を見た。
凛はこちらに気づいていない。鏡を見ながら、アイシャドウブラシをゆっくり動かしている。なんでもない顔で。
(あーあ)
千夏は上着を椅子の背にかけながら思う。
凛が「なんでもない顔」をするとき、大体なんかある。
楽屋は今日、三人だ。千夏と凛、あと新人の子が一人いたが、さっき衣装返却に行ったので今は二人きりになっている。
千夏はウォーターボトルを取り出して、凛の隣に座った。鏡越しに目が合う。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
凛が鏡に向かって答えた。ちゃんとした返事。声のトーンも問題ない。目の下の赤みには、一切触れない。
鷹野千夏はここで、三つの選択肢を持っていた。
一つ目、聞かない。仕事上の付き合いで、無闇に踏み込まない。普段はこれが正解の場合が多い。
二つ目、「どうしたの」と聞く。凛は「別に」と返す。それで終わる。これは千夏が一番嫌いなパターンだ。聞いた意味がない。
三つ目、斜めから入る。
千夏は三つ目を選んだ。
「撮影どうだった、今日」
「順調でしたよ」
「そっちじゃなくて、映画の方」
凛が少し止まった。ブラシが空中で一秒止まって、また動き始める。
「……順調です」
「順調、ね」
「ええ」
千夏は自分のスキンケアを始めながら、ゆっくり続ける。急がない。
「凛ちゃんが今やってる映画って、妹さんが主演のやつだっけ」
「そうです」
「助演で入ってるの、珍しいよね。凛ちゃん、最近は主演ばっかりだったし」
「オファーをいただいたので」
「妹さんと同じ現場、どんな感じ」
今度は少し長い間があった。
「……面白いです」
「面白い」
「華の演技を、横で見られるので」
千夏は鏡の中の凛を見た。
凛の目が、少しだけ違う場所を向いている。今この楽屋ではなく、さっきまでいた撮影現場の方を。
「それだけ?」
「……それだけ、でもないかもしれないですが」
「続けていいよ」
「別に」
「言いにくいなら無理しなくていい」
凛が鏡を見た。鏡越しに、千夏と目が合った。一秒。二秒。
「……神崎さんの現場で、昨日、少し変なことがあって」
「変なこと」
「変、というか。いつもと違う、ということで」
「詳しく」
「話すほどのことでは」
「話して」
凛が少しため息をついた。ため息というより、諦め半分の息の抜き方だ。
「昨日、神崎監督に何度も「もう一度」って言われるシーンがあって。何度やっても通らなくて。それで最後、もう考えるのをやめたら、「同じでいい」って言われたんです」
「……つまり、計算をやめたら通った」
「そういうことに、なると思います」
「それで今日、映画の現場でも少しそういう演技ができた」
凛がわずかに目を見開いた。
「……聞いてたんですか」
「聞いてない。顔で分かった」
沈黙。凛がブラシを置いた。
「監督に「今日何か変わりましたか」って聞かれて、「わかりません」って答えたら「いいですね」って言われました」
「そりゃあいいね」
「何がいいのか、まだよく分かっていないんですが」
「それがいいんだよ」
千夏はクリームを顔に伸ばしながら、鏡を見た。
「分かった瞬間に計算になるから。まだ分かってない状態がいい状態」
「……千夏さん、そういう経験あるんですか」
「ある。昔、監督に「上手い。でも違う」って言われた現場があって」
「違う、って」
「上手くやることと、やりきることって、別のことがあるんだよね。私もそれ、三十路手前でようやく気づいた」
凛が少し考えている顔になった。千夏はそれを見ながら、チークブラシを手に取った。
「で、なんで泣いたの」
一瞬の静止。
「泣いてないです」
「目の下、赤いよ」
「……花粉です」
「今の季節にその花粉は無理がある」
「……秋にも出る人は」
「いるけど凛ちゃんはそれじゃないでしょ」
凛がまた鏡を見た。自分の目の下を確認するみたいに。
「……嬉しいのか悔しいのか、よく分からなかったので」
「どっちもなんじゃないの」
「多分、そうだと思います」
「それは泣いていい案件だよ」
凛が少し口を引き結んだ。泣かないようにしているというより、何かをこらえているというより——少しだけ、力が抜けた顔をした。
千夏は続けた。
「私に言えないことは言わなくていい。でも溜め込みすぎるな」
凛が千夏を見た。直接、鏡越しじゃなく。
「……なんでそんなに分かるんですか」
「分からない。でも、顔が普段と違う」
「そんなに出てましたか」
「メイクしても分かるくらいには」
「……精進します」
「そこを精進しなくていい」
千夏は鏡に向き直った。さらっと言って、チークを入れる。
凛が少し間を置いてから、「ありがとうございます」と言った。声は普通だった。いつもの凛の丁寧な声。でもその音の中に、ほんの少しだけ緩んだところがあった。
千夏は気づいたが、顔には出さなかった。
その後、新人の子が戻ってきて、三人で他愛もない話をした。
今日の撮影の話、来週の予定、ロケ弁のメニューの話。千夏が「最近コンビニのサラダが進化した」と言ったら、凛が「ローソンのがいい、あのドレッシングが」と返してきた。千夏が「セブンの方が量がある」と言ったら凛が「量より味」と言い、新人の子が「ファミマがコスパ最強だと思います」と言って場が少し揺れた。
コンビニサラダ論争。
まあまあ本気の。
千夏は内心でちょっと笑った。
凛が普通に話している。目の下の赤みも、少し引いてきた。
楽屋を出たのは六時過ぎ。
廊下を一緒に歩いて、エレベーターのところで凛が「今日ありがとうございました」と言った。
「別に何もしてないよ」
「……千夏さんがいてよかったです」
千夏は少し止まった。凛がこういうことを素直に言うのは、めったにない。
「どういたしまして」
「また来週の撮影で」
「うん。次は目の下、もう少し隠せるようにしといて」
「……精進します」
「だから精進しなくていいって」
凛が少し笑った。外での笑い方じゃない、家で笑うときの顔。千夏はその笑い方を知っている。柊家に遊びに行った日に、プリンをめぐって遼と大声で言い合っていた凛と、同じ顔だ。
エレベーターが来て、二人で乗った。
マンションに帰ったのは夜の八時前。
エントランスで靴を脱ぎながら、千夏は今日のことを少し整理した。
凛が泣いていた。
嬉しいのか悔しいのか分からないまま泣いた、と言っていた。
千夏の経験上、そういう泣き方をするとき、人は大体、何かの端っこに立っている。どこかに踏み出した後の、まだ着地していない時間。
凛が今そこにいる、ということは——
(神崎さんの現場で、何かが動いたんだろうな)
詳細は聞いていない。聞かなかった。凛が話すなら話すし、話さないなら話さない。それでいい。
ただ。
「職場に、凛がこういう顔をする相手がいる」ということが、千夏の中でひとつ、静かに分かった。
相手が誰なのか、具体的には分からない。
でも、凛が「なんでも計算できるはずだった自分」から外れているのは確かだ。そしてその外れ方の種類が、ただの仕事上の刺激じゃない感じがする。もう少しだけ、個人的な何か。
(恋なのか仕事なのか、凛自身も分かってないんだろうけど)
千夏は鍵を取り出しながら思う。
分かっていないのが、今は正解だと思う。
部屋に入って、コートを脱いで、ソファに倒れ込んだ。
今日のロケの疲れが一気に来た。外での仕事は体力を使う。特に今日は立ちっぱなしのシーンが多かった。
スマートフォンを手に取る。マネージャーから明後日の確認が来ていたので返信する。撮影の資料が届いていたので開く。あとは——
テレビをつけた。
特に何か見たいわけではなかった。ただ、部屋に音が欲しかった。
チャンネルを変えると、お笑いのライブ映像が流れていた。劇場っぽい小さな会場で、二人組が漫才をやっている。客席が笑っている。
千夏は特にチャンネルを変えなかった。
漫才が始まった。
ボケが「彼女の顔色読みすぎて、逆に何も言えなくなったんですよ」と切り出した。
「何も言えなくなったって、どういうことですか」
「いや、読みすぎたら怖くなってきて」
「何が怖いんですか」
「当たったら当たったで重くなるじゃないですか」
「重い? 顔色読んで何が重くなるんですか」
「だって正解したら、その感情ずっと引き受けなあかんくなるじゃないですか」
「引き受けるって何を! 顔色読んだだけで何を引き受けるんですか!」
「いや、分かってしまったら分かってしまった側の責任があるというか」
「ないですよそんな責任! 読んだら普通に声かけたらいいじゃないですか!」
「だって絶対おれのせいなんだもん」
「何が!!」
客席が沸いた。
千夏は笑いながら、少し考えた。
正解した感じが怖い。
(あー、分かるかも)
分かる、というか、今日の凛のことを少し思い出した。
千夏は人の顔が分かる。凛の顔が、普段と違うことも、泣いた跡があることも、話している中身も、全部分かった。だから声をかけた。
でも——声をかけたことで、凛に余計な荷物を持たせてしまったんじゃないか。
そう思うと、少し心配になる。
千夏はスマートフォンを手に取って、凛のトーク画面を開いた。
最後のメッセージは先週のロケの時間確認のやり取りだ。
何か送ろうかと思って、止まる。
何を送るか。
「大丈夫だった?」は重い。「今日の件」と書き始めると絶対「件」って何みたいになる。「また来週」は昨日言った。
千夏は五秒考えて、スマートフォンを置いた。
何も送らない。
それが正解な気がした。
テレビのコンビが次のネタに移っていた。
「俺、好きな人に気持ちバレてたんですよ」
「告白したんですか」
「してないんですよ」
「してないのにバレたんですか」
「バレてたんです」
「なんで分かったんですか」
「向こうから「好きでしょ」って言われて」
「言われたんですか。で、なんて答えたんですか」
「「なんで分かったんですか」って聞いたんです」
「それ肯定じゃないですか!!」
「そしたら「顔に書いてある」って言われて」
「書いてあったんですね」
「で、「いつから」って聞いたら」
「いつからだったんですか」
「「最初から」って」
「最初から!」
「だから俺もう全部バレてたのかなと思って、思い切って「好きです」って言ったんですよ」
「言えたじゃないですか!」
「そしたら「知ってる」って言われました」
「知ってた!! じゃあもっと早く言えばよかったじゃないですか!」
「でも早く言ったら言ったで断られるのが早くなるじゃないですか」
「断られたんかい!!」
客席が笑っていた。
千夏もちょっと笑った。
そして笑いながら、少し複雑な気持ちになった。
何が複雑かというと。
心配なのか楽しみなのか、正直よく分からなくなってきた。
凛のことが心配だ。目の下が赤くて、嬉しいのか悔しいのか分からないまま泣いて、でも次の日にはちゃんと現場に出てきた。そういう人間が好きだし、うまくいってほしいと思う。
ただ。
「凛がそういう顔をする相手がいる」という事実は——正直、少しだけ面白い、とも思っている。
面白い、というか、楽しみというか。
凛は基本的に、自分のことをほとんど話さない。仕事の話はする。演技の話はする。でもプライベートな感情の話は、ほぼしない。千夏がここ数年見てきた中で、凛から「感情的な何か」が滲み出てきたのは今日が初めてに近かった。
それが——怖いものを見ているというより、珍しいものを見た感じがする。
(動物園の珍しい動物みたいな感じ)
あ。
千夏はソファで少し体を起こした。
この前、柊家に遊びに行ったとき、自分が遼に対して思ったことと全く同じだ。
珍しい動物。
凛も遼も、ある種の「珍しい生態をしている人間」で、千夏はそれを面白がっている。
(私って、そういうキャラなのかな)
自分で少し引いた。
客観的に見ると、友達の恋愛をエンタメとして消費しているみたいで、それはどうなんだ、という気もする。
テレビの漫才がまた笑いを取った。
(いや、そんな悪趣味じゃない。ちゃんと心配もしてる)
両方だ。心配もしているし、少し楽しみでもある。そのどちらかに決めなくてもいい。
人の感情というのは、だいたいそういう形をしている。
漫才が一段落して、次の出演者の紹介が始まった。
千夏は立ち上がって台所に向かった。
お茶を入れて、コップを持ってソファに戻る。
スマートフォンを手に取ると、通知が一件来ていた。
凛から。
「今日はありがとうございました。また来週」
短い。いつもの凛のメッセージの感じ。
でも最後に「また来週」が入っている。昨日も言ったのに、もう一回送ってきた。
千夏は少し笑った。
返信を打つ。
「来週も目の下に気をつけてね」
送ると、すぐに既読がついた。
少し間があって、返信が来た。
「……精進します」
また精進してる。
「だから精進じゃないって」
「じゃあ何て言えばいいですか」
「気を付けます、でいいじゃん」
「……気を付けます」
それで会話が終わった。
短い。でもなんか、今日の凛の声の感じに近い。少し柔らかくなった、あの声。
テレビではまた次のコンビが始まっていた。
「俺、仕事の話してたつもりが、なぜか仕事の話じゃないみたいになってたんですよ」
「どういう状況ですか」
「上司に呼ばれて、二人で話してたんですけど」
「それで?」
「「これ、仕事の話ですよね」って確認されたんです」
「仕事の話をしてたんじゃないんですか」
「してましたよ! してたつもりなんですけど」
「つもり?」
「「なんでそんな顔してるんですか」って言われて」
「顔?」
「「仕事の話をしてない人の顔です」って」
「仕事の話してたんでしょ!!」
「してたんですけど……顔がしてなかったみたいで」
「顔が!!」
客席が沸いた。
千夏は笑いながら、少しだけ考えた。
恋愛と仕事の境界線。
(凛のやつ、それじゃないのかな)
神崎さんとかいう監督が、凛の演技を揺らした。凛はそれに引っ張られて、計算の外に出た。泣くほど揺さぶられた。
それは演技の話だ。仕事の話だ。
でも——仕事だけの話かどうか、千夏には断言できない。
(断言できないが、凛自身が一番分かってないんだろうな)
それは今の凛に聞いてもたぶん、「分かりません」と返ってくる。計算が追いついていない段階で、名前をつけるのは早い。
千夏はお茶を一口飲んだ。
テレビのコントが笑いのピークを迎えて、客席が大きく沸いた。
千夏も笑いながら、スマートフォンをソファの端に置いた。
夜が深くなっていく。
漫才のライブ映像は一時間半の尺で、途中でもう二組のコンビが出てきた。千夏は最後まで見た。見終わった頃には十時を回っていた。
明日は撮影の準備で事務所に行く日だ。昼から。
早めに寝ようと思って立ち上がって、洗面所で歯を磨きながら、もう一度今日のことを振り返った。
凛の目の下が赤かった。
「私に言えないことは言わなくていい。でも溜め込みすぎるな」と言った。
凛が「ありがとうございます」と言った。
メッセージが来た。「また来週」。
千夏は鏡の自分を見た。
「職場に、凛がこういう顔をする相手がいる」。
それが誰かは分からない。でも凛が今、計算の外に出かかっている、ということは分かった。それが怖いのか嬉しいのか、凛本人も分かっていないことも、分かった。
千夏は自分でそういう経験をしたことが、一度だけある。
だから多分、凛は大丈夫だ。
大丈夫、というのは「うまくいく」ではなく「ちゃんとその先に行ける」という意味で。
洗面所の電気を消して、部屋に戻る。
ベッドに入って、スマートフォンを充電台に置いた。
少しして、思い出したように手を伸ばして画面を開く。
凛のトーク画面。「……気を付けます」で終わっている。
もう何も送らない。
画面を閉じた。
暗くなった部屋で、天井を見る。
心配なのか楽しみなのか、やっぱりよく分からない。
両方だ、とさっき結論を出した。
ただもう一個、別の感情があることに千夏は気づいていた。
応援、だ。
凛が安全圏の外に出ようとしているなら、それはいいことだと思う。凛はずっと、ちゃんと仕事をしてきた。計算して、積み上げて、誰にも文句を言わせないキャリアを作ってきた。それは本物だ。
でもその凛が、計算の外に何かを見ている。
それを——千夏は少し、遠くから見ていたい、と思った。
関係者でも傍観者でもなく。近すぎず、遠すぎず。
凛が「なんでそんなに分かるの」と聞いてきたとき、「分からない。でも顔が普段と違う」と答えた。
本当のことだ。
でも今なら少し付け加えられる。
「でも、応援してる」。
それを今日は言わなかった。言うタイミングじゃなかった。
次もたぶん、言わない。そういう言い方をする関係ではないし、凛も別に求めていない。
ただ——思っているだけでいい。
それくらいは、できる。
鷹野千夏は目を閉じた。
明日も仕事。
来週の現場でまた凛に会う。その時、目の下が赤いかどうか確認するつもりだ。赤かったらまた斜めから入る。赤くなかったら何も言わない。
どっちになるかは分からない。
凛が成長するなら、どっちでもいい。




