第1話「うるさい姉妹と壊れたレコードプレーヤー」
春の午後、柊家のリビング。
遼は床に座り込み、古いレコードプレーヤーと向き合っていた。
祖父の形見だったこの機械は、もう何年も音を出していない。だが、捨てられることもなく、押し入れの奥で眠っていた。
「ターンテーブルの回転は問題ない。となると……」
遼はヘッドシェルを外し、針先を確認する。
摩耗はしているが、致命的ではない。
「アンプ側か」
真空管アンプの背面パネルを開ける。
ホコリまみれの回路基板。酸化した配線。劣化したコンデンサ。
遼は小さく息を吐いた。
「まあ、予想通りだな」
テスターを手に取り、回路の導通を確認していく。
静かな作業だ。
遼はこういう時間が好きだった。
機械と向き合い、故障の原因を探り、直す。
誰にも邪魔されない、静かな時間。
「……ここか」
電解コンデンサの一つが完全に死んでいる。
容量抜けだ。
遼は工具箱から新しいコンデンサを取り出し、ハンダごてを温め始めた。
テレビから、華やかな音楽が流れている。
遼は作業の手を止めず、チラリとテレビを見た。
朝ドラの再放送だ。
画面には、清楚な着物姿の女性が映っている。
柊凛。
遼の姉だ。
「……ああ、今日再放送か」
遼は特に興味もなさそうに、再び作業に戻る。
テレビの中では、凛が涙を流しながら台詞を言っている。
視聴者を泣かせる名シーンらしい。
実際、SNSでは「泣いた」「凛ちゃんすごい」とトレンド入りしている。
だが、遼は知らない。
そもそもSNSを見ていない。
「よし、交換完了」
遼はハンダごてを置き、回路を確認する。
配線に問題はない。
パネルを閉じ、電源を入れる。
真空管が温まるまで、少し待つ。
その間、遼はレコードを選んだ。
祖父が好きだったジャズのアルバム。
ジャケットは色褪せているが、盤面は意外と綺麗だ。
「さて……」
レコードをセットし、針を落とす。
数秒の沈黙。
そして──
スピーカーから、温かい音が流れ出した。
「……直ったな」
遼は小さく頷いた。
満足感がある。
だが、それだけだ。
特に誰かに自慢したいとも思わない。
ただ、直ったことが嬉しいだけ。
その時、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ただいまー!」
華やかな声。
次女の華だ。
「疲れたー! お腹空いたー!」
華はリビングに駆け込んでくると、ソファに倒れ込んだ。
遼は振り返らず、レコードの音量を少し下げた。
「おかえり」
「遼ー! 何してるのー?」
「レコードプレーヤー直してた」
「へー」
華は興味なさそうに言うと、スマホを取り出した。
「ねえねえ、聞いて! 今日の撮影でね──」
華の話が始まる。
映画の撮影がどうだった、監督が褒めてくれた、共演者が優しかった、ランチが美味しかった。
遼は「ふーん」「へー」「そうか」と適当に相槌を打つ。
華はそれで満足そうだ。
「──で、最後のシーンでさ、アドリブ入れたら監督がすっごい喜んでくれて!」
「よかったな」
「あ、そうだ!冷蔵庫にプリンあるんだった!」
華は冷蔵庫に向かって走っていく。
そして──
「……ない」
「え?」
「プリン、ない!」
華の声が裏返る。
遼は冷静に答えた。
「俺が食べた」
「は?」
華の動きが止まる。
数秒の沈黙。
そして──
「遼! あれ私のだったんだけど!?」
「冷蔵庫に入ってたから、共有物かと」
「名前書いてあったでしょ!?」
「…読んでなかった」
「嘘つき! 絶対わかってたでしょ!」
「悪かった。明日買ってくる」
「今すぐ!」
「無理」
「ひどい! お姉ちゃんに言いつけるから!」
華はスマホを取り出し、凛にLINEを送る。
遼はため息をついた。
「……面倒だな」
それから三十分後。
玄関のドアが再び開いた。
「ただいま」
落ち着いた声。
長女の凛だ。
「あ、お姉ちゃん!」
華がリビングから飛び出す。
「遼がね! 私のプリン食べたの!」
「……そう」
凛は靴を脱ぎながら、遼を見た。
遼は床に座ったまま、レコードを聴いている。
「遼」
「何」
「プリン、買ってきて」
「明日でいいだろ」
「今すぐ」
「……はいはい」
遼は立ち上がり、財布を取る。
「ついでにコーラも」
「自分の飲み物くらい自分で買え」
「いいじゃん、ついでなんだから」
「面倒だな……」
遼はジャケットを羽織り、玄関に向かう。
「あ、遼」
華が声をかける。
「何」
「ありがと!」
「……」
遼は何も言わず、ドアを閉めた。
コンビニまでの道。
遼はゆっくり歩く。
春の夕暮れは穏やかだ。
風が心地いい。
ポケットの中で、スマホが震えた。
遼は取り出し、画面を見る。
メールの通知。
差出人は、見慣れない英語の企業名。
件名:【重要】Regarding Your Circuit Design Paper
遼は数秒見つめ、そして──
画面を閉じた。
「……後でいいか」
そのまま、ポケットにしまう。
コンビニの明かりが見えてきた。
プリンとコーラ。
それだけ買って帰ればいい。
遼はそう思いながら、自動ドアをくぐった。
その夜、柊家のリビング。
三人が揃って夕食を食べている。
両親は共働きで、帰りが遅い。
だから、夕食は三人だけのことが多い。
「ねえねえ、今日のニュース見た?」
華が箸を動かしながら言う。
「何?」
凛が聞き返す。
「お姉ちゃんのドラマ、視聴率また上がったって!」
「……そうなの?」
「15.8%だって! すごいよね!」
「まあ、頑張ったから」
凛は淡々と答える。
だが、少し嬉しそうだ。
「遼も見てる?」
「見てない」
「え、なんで!?」
「忙しい」
「嘘! 絶対レコード聴いてるだけでしょ!」
「……否定しない」
華は頬を膨らませる。
「もう! お姉ちゃんのドラマ、面白いのに!」
「そうか」
遼は興味なさそうに味噌汁を飲む。
凛は少し寂しそうに笑った。
「まあ、遼はそういうの興味ないもんね」
「ああ」
「でも、たまには見てよ」
「……考えとく」
「嘘だ」
華がツッコむ。
三人は笑った。
普通の、うるさい三兄妹。
外では「国民的女優」と「次世代のエース女優」。
でも家では、ただの姉妹。
そして遼は、ただの機械オタクの弟。
それが、柊家の日常だった。
食後、遼は自室に戻った。
机の上には、パーツだらけの基板が並んでいる。
大学の卒論用の自律制御ドローンだ。
遼はハンダごてを温め、作業を再開する。
集中する。
時間が過ぎる。
そして──
スマホが再び震えた。
遼は手を止め、画面を見る。
また、同じ企業からのメール。
件名:【再送】Your Expertise is Highly Valued
遼は数秒見つめた。
そして、再び画面を閉じる。
「……後でいいか」
遼はそう呟き、作業に戻った。
彼は知らない。
そのメールの差出人が、世界的電子機器メーカーの技術部門トップであることを。
彼の大学で提出した技術論文が、学会経由で流出し、業界で話題になっていることを。
そして、その企業が彼を探しているということを。
遼は、ただ静かに、基板にハンダを当て続けた。
その頃、リビングでは。
凛と華が、ソファでテレビを見ていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
「遼って、何してるんだろうね」
「機械いじってるんでしょ」
「そうじゃなくて……あんなに毎日部屋にこもって」
「さあ? でも、遼は昔からああだから」
「そっか」
華は少し考え込む。
「……でも、たまには遊びに誘ってあげたいよね」
「誘っても来ないでしょ」
「それはそう」
二人は笑った。
そして、再びテレビに目を向ける。
画面には、映画のニュースが流れている。
華の次回作の発表だ。
「あ! 私のやつだ!」
「おめでとう、華」
「えへへ」
華は嬉しそうに笑う。
凛も微笑んだ。
姉妹の、穏やかな夜。
遼は知らない。
自分の姉妹が、どれだけすごい存在なのかを。
そして、姉妹も知らない。
遼が、どれだけすごい存在なのかを。
誰も気づいていない。
ただ、日常が流れていく。
柊家の、うるさくて、温かい日常が。




