せめて夢だけ見せてくれ
灯里が目を覚ましたのは、もう夕日が窓から差し込んだ頃だった。
灯里は気だるげに起き上がると、かけられた毛布や、頭元に置かれたビニール袋、そして自分のいる場所が父の部屋ではなく居間であるのを見て、理解が追いつかないといわんばかりに動揺を表情に滲ませた。
「お前、ぶっ倒れたんだよ」
遥がそう言うと、灯里ははっとして遥の方に目を向けた。
「あ……そう、なんだ……」
「……お前でかいんだよ、ここまで引きずって運ぶの大変だったんだからな」
「ご、ごめん……」
ばつが悪そうに謝る灯里は、まるで小さな子供のように見えた。
遥はため息をついて、裏返した写真を居間の卓袱台に置く。
「……で、これは? 誰なんだよ。今度は袋あるからな。ぶっ倒れないで答えろよ」
灯里は一瞬躊躇うように瞳を揺らして、そこから諦めたように目を伏せた。黒く長い睫毛が白い頬に影を落とす。物憂げな表情はまるで作り物のように美しいのに、灯里という男を知ってしまったからなのか。その中に何かが渦巻いているんだと察してしまって、遥は出した写真を引っ込めかけた。しかし。
「……いいよ。ちゃんと、話すよ」
灯里がそれを止めた。
初めて会った時と同じ、しかし初めて会った時とはまったく違う、柔らかい微笑みを浮かべて遥を見る。そして、白魚のような指でするりと写真の裏を撫でると。
「……俺は、多分……『最高の女』の代わりなんだよ」
そう、語り始めた。
幼い灯里にとって、いつも仕事部屋に引きこもっている父は家の中にいる不機嫌の爆弾のような存在だった。
爆発したところを見たことがあるわけではない。ただ、少しでも騒ぐと母が怒るのだ。お父さんの仕事の邪魔になるから静かにしていなさい──まるで爆弾が爆発するのを恐れるように言う母を、大人ってよく分からないと思いながら見ていた。
幼稚園に通っている頃、灯里の日課は、爆弾の様子をそっと見てみることだった。爆弾はいつも背中を丸めて文机に向かっていて、うんうん唸ったりぎりぎりと歯軋りをしたり、たまに食卓で見る姿よりずっと表情豊かで面白かった。まあ、襖の隙間から覗いてるのが見つかればすぐにあの恐ろしい目つきで睨まれて灯里は飛んで逃げたのだが。
父のことを爆弾と思っておきながら、それでも父の様子を見に行ったのは、父には爆弾でも何でもない一面があることを知っていたからだった。
「灯里、来なさい」
それは大体、一ヶ月に三、四回。母も寝静まった真夜中に、「まだ仕事があるから仕事部屋で寝る」と宣言したはずの父が寝室に現れてこう言うのが合図だった。
灯里はどんなに眠くてもその時は起きて、下がりそうになる瞼を必死で擦る。途中で眠すぎて歩けなくなると、いつもは爆弾として仕事部屋で燻っている父が手を引いてくれて、その体温に父にも血というものが通っているのだと幼い灯里は知った。
本と原稿用紙だらけの仕事部屋。隙間を縫って敷いたような布団には、女物の服がちょこんと畳まれて置いてある。
「着替えなさい」
父の言葉に頷いて着替えると、少し長めの髪の毛も相まってどこからどう見ても女の子にしか見えない自分が完成した。
父は「よし」と言うと、のそのそと熊のような巨体を布団におさめる。そして、掛け布団をあげて。
「おいで」
灯里は頷くと、いつものように父の隣に寝転んだ。
「この間はどこまで話したか……」
「はしれメロスはギリシャの昔話からってはなししてたよ。ダモンと……」
「ダモンとピュティアス。そうだ、邪智暴虐のディオニュシスは友になりたいと懇願するが断られる、という説もある」
「かわいそうじゃない?」
「馬鹿だな、善意は必ずしも受け取らなければならないというわけじゃないんだ」
布団の中で話す父は、昼間見る姿が嘘のように優しかった。
囁くような甘い声、髪を撫でる柔らかい手つき、かけられた布団の温さ。その全てが心地よくて灯里がうとうとし始めると、「ほら、聞きなさい」と言いながらもゆっくりと眠りに落ちていくのを見守ってくれる。
この時間があるから、灯里は父のことをただの爆弾と思えなかった。
異常なことをしている自覚は、なんとなくあった。
幼稚園でお父さんの話になった時に誰もそんなことは言っていなかったし、お父さんの言いつけで女の子の格好をする時があると木更津さんに話したら「健康祈願のお参りの時だっけ。あんな古い習慣ちゃんとやるんだねえ」と言っていたし。なんだか夜に父とそんなことをしてると言ったら怒られるような──いや、父と過ごすあの時間が減るような気がして、灯里は黙っていた。
……今思えば、本当に、本当に悍ましいことに。
「ナイチンゲールは夜に、ひばりは朝に鳴く。それを踏まえれば、ここの女の心情が分かるはずだ」
「……いかないでほしいってこと?」
「そうだ、だから嘘をついてまで引き止める」
あの夜の時間が、父と二人きりの布団の中が、好きだったのだ。
父との関係が変質したのは、小学校に上がったばかりの頃。寒い冬の夜だった。
もう鍵付きの自室で一人で寝るようになった灯里だったが、鍵はかけなかった。父が入れなくなってしまうからだ。その晩もそっと父が扉を開けて入ってきて、灯里を揺すり起こすと「来なさい」と言った。
寒い、冬の夜だった。
父が用意した女物の洋服は、母が準備してくれた寝巻きよりずっと薄く、灯里は「寒い寒い」と言いながら父に寄り添った。父は熊みたいな身体の中に、いつもぬくい体温を携えていたから。
寒かったから。それだけだった。
「灯里、寒いならもっと、こっちに」
父の声はいつもより低かった。
少し恐怖心はあったが、ここで拒んでしまえば二度と父とのこの時間がなくなるような気がした。灯里は恐る恐る距離を詰めて、気付けばほとんど抱き締められているような形になった。
その晩、父は爆弾でも優しい父親でもなく、怪物なのだと知った。
自分が嫌がってるのか、喜んでるのか、怖がってるのか、それとももっと別の気持ちなのか、灯里にもよく分からなかった。それでも息を止めてやり過ごしていればそのうち父は満足するのだから、耐えた方がいいと思えた。この期に及んでまだ、父と布団の中で本の話をする時間が好きだった。
それでも、日に日に増幅していく違和感をそのまま飲み込めるほど、灯里は大人になれなかった。
ある日、父が打ち合わせに行く、と言って不在にしていた昼下がり。「たまにはお母さんがケーキを焼いてあげる」と言って出された膨らんでないケーキを食べながら。
「なんか……お父さん、って、変だよね」
灯里は、震える声で母に言った。
「な、なんか……ちっちゃい頃から思ってたけど、変わってる、っていうか、普通と違う、っていうか……ぼく、夜に」
何があったか、話した途端。
がしゃん、という大きな音と共に、ケーキも紅茶も床に散らばった。割れた食器を前に灯里が固まっていると、母が、母こそが爆弾のように。
「なんてこと言うの、あなたは!!」
そう怒鳴った。
汚らわしい、お父さんがそんなことするわけない、あなたはおかしい、金切り声でそうがなるのと、本当に可哀想に、怖かったでしょう、嫌だったでしょう、守ってあげられなくてごめんねと泣きながら抱き締めるのを繰り返す。灯里は恐怖と安堵の間を何度も何度も揺さぶられて、最終的にはぽかんとした顔で立ち尽くすことしかできなかった。
「奥様、どうしたんです……?」
明らかに異常事態で、しかも長く続いてることを不審に思ったのだろう。家政婦がおずおずと駆け寄って、割れた食器や化粧が崩れた母を見て、「とにかく一度休まれた方が」と言った。
そこからはもうとんとん拍子でことが決まった。
母はしばらく実家で療養することになった。あの日以来、なんでもないようなことで急に喚き散らしたり泣き出したり、とにかく休息が必要と判断されたのだ。
灯里は学校もあるから、という理由で父とともに神崎家で暮らすことになった。あんな父でも、母がいる時には自制心というのがあったのだろう。父は今までより頻りに部屋を訪ねてくるようになり、ひどい時は真っ昼間でも構わず女装させて自分のそばに座らせた。
母がいない以上、自分にはもう父しかいない。女がそうするように足を横に流して、灯里は父の大きな背中に寄り添った。
母の訃報が届いたのは、梅の花が蕾をつけはじめた時期だった。
実家の浴室で、首をくくって亡くなっていたらしい。自室には遺書が置かれていて、ずいぶん前からこの日こうやってこの世を去ると決めていたのだと分かった。
遺書には、灯里と父のことも書いていた。
父へは幻滅したという罵倒の言葉、灯里へは守れなかったことに対する謝罪。直接母が何を知っているかは流石に書いていなかったが、父が察するには充分だった。
その日から、父は荒れ狂う大波のようになった。
母親が死んだのはお前のせいだと灯里を罵り、時には暴力を振るうこともあった。学校の教師から何があったか聞かれたことをきっかけに顔を叩くことはなくなったが、背中や腰に痣のない日はどんどん少なくなっていった。
灯里だって、それだけなら受け入れた。自分が母に話したことでぎりぎりのところを保っていたこの家を壊してしまった、その罰なのだと思えた。
しかし、父は灯里を夜に呼び出すあの時間もやめなかった。なんなら前よりもずっと無遠慮に、灯里に女であることを求めた。
「……灯里、もっとこっちに。かなしい、寂しいんだ……」
さめざめと泣く父の頭を抱きしめながら、灯里も込み上げてきた涙を飲み込んだ。それがどういう感情の涙か分からなかったからだ。母がいなくなって悲しいからなのか、さっきまで自分を叩いていた父への恐怖心なのか、その両方なのか。混乱する考えから目を逸らすように、父の頭を撫で続けた。
どんなに女に近い容姿をしていても、灯里は男だった。日に日に体は骨ばって、筋肉がついて、祖父母からは「小さい頃は心配だったけどすっかり男の子らしくなって」と喜ばれるようになった。すると父が灯里に暴力を振るうことも、夜に部屋を訪ねてくることもどんどん減っていき、中学二年の夏を最後に、二度と同じ布団に入ることはなかった。
「……灯里。言った通り、病院に行ったぞ。膵臓癌だ。一年持たないらしい」
灯里が大学に入学した年の春先、夕飯中に急に父がそう言った。灯里はなんと答えたらいいか分からず、「分かった」とだけ呟いた。
「…………それで、明日から遺作の執筆にとりかかりたい。木更津にはしばらく療養で仕事は受けられないと言っておいてくれ」
「ん、分かった。じゃあいつもみたいに仕事部屋にまとめて原稿置いといてくれたら、俺まとめて打っとくから」
「いや、刊行の予定はない」
「え」
父は食事の並ぶ卓袱台の上に、スマートフォンを置いた。
「これで小説を書く方法はあるか?」
縦書きがいいだの文字は明朝体で表示されないと嫌だだのいちいち上書き保存を押すのが面倒だのという文句なのか要望なのか分からない父の話を聞きながら、灯里は小説を書くためのアプリを父のスマートフォンに入れてやった。
そして、大作家であり灯里の父親であった神崎雄一郎は。
「……親父、ちゃんと書けた? 遺作……」
灯里の言葉に小さく頷くと、今年の初夏、その生涯を閉じた。
全て語り終えた灯里の手は震えていた。また倒れるのではないか、と遥は灯里の顔を見つめたが、灯里は深呼吸を繰り返してなんとか平静を保っている。そして、いつものような、いつもより哀しい笑顔を作った。
「……だから、ここに写ってるのは、『最高の女』じゃない。だって、女ですらないんだから」
初めて灯里の内側に触れたような心地に、遥は気まずさから俯いた。
灯里の言いたいことは分かる。灯里は女の代替として扱われていただけだ。しかし。
「……なあ、パスコード、お前の誕生日は試したのか?」
それでも、父にとってきっと灯里は「女」だった。
灯里ははっと目を見開く。遥は卓袱台の上にあった父のスマートフォンを手に取ると、パスコード入力の画面を出した。
「浮気相手の扱いはみんな同じようなもんだ。でもお前は違うだろ。父親にとって、お前は──……」
「やめろ!!」
遥がぎくっと肩を跳ねさせる。灯里のこんな大きな声を初めて聞いた。灯里も思ったより大きな声が出たのか、自分の口元を掌で覆うと潤んだ黒曜石の瞳からぽろぽろと涙をこぼす。
「それ……それ、で……それで、もし」
ひっ、ひっ、としゃくりあげながら泣く姿に、話の中でしか知らない幼い灯里の面影が見える。
「それでもし開かなかったら…………俺、どうしたらいいんだよ……」
遥は何も答えることができずに、震えて泣く異母兄と、ただじっと向かい合っていた。
「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡




