愛しい女は闇の中
神崎邸は、まるでそこだけタイムスリップしたのかと思うような外観をしていた。
夏の陽光を浴びて黒々と光る瓦屋根。ざらりとした質感の漆喰の壁。まるで大正や昭和の文豪でも住んでそうな邸宅を覆い隠すように生い茂った草花は、東京の一等地にあるこの家を余計に異質なものに見せていた。
「はは、古く見えるだろ。そこまで築年数は経ってないから、急に崩れたりしないよ」
「そんなこと気にしてねえよ……」
住所さえ教えてくれれば一人で行けると言ったのに、灯里はわざわざ駅まで迎えに来た。
この男がこんなに過保護なのは貧乏な遥への施しや、浮気相手の子供への罪悪感からではない。ただ兄ぶってみたいだけなのだ。そう遥が気付いたのは、本当にここ最近だった。
灯里が玄関の扉を開けると、冷たい空気がひんやりと肌を撫でる。広い家なのに玄関に入った瞬間涼しいのは、あの天井に埋め込まれたクーラーのおかげなのか。廊下を冷やすためだけのクーラーがあるなんて、と妬みと羨望の混じった目で睨め付けてみるが、灯里は何も気にせず「ま、お構いなく」と言った。
「貴金属とか服とかはさすがに処分したけどさ。原稿とか本はどうしたもんかと思ってまだとってるんだ」
「そういえば、父親って何冊くらい本出したんだ?」
「えーと……デビューしたてのほんとに売れなかったやつ含めたら……大体四十冊いかないくらいかな。文庫になってあとがき書き直したやつとか含めたらもうちょっとある」
「……気が遠くなる……」
「だよなあ」
数を聞いただけでもう嫌になってきた遥にとどめを刺したのは、灯里に案内された父の仕事部屋だった。
襖を開いた瞬間、本、本、本、原稿用紙、本、原稿用紙、本、本……。目眩がしそうな光景に立ち止まると、灯里が「やっぱりやめとく?」と聞いてきた。
「大変だもんな、この量探すの」
笑顔だ。笑顔ではある。しかしその眉尻が若干下がっているのを見ると、ため息をつくことしかできなかった。
「……別に、俺が言い出しっぺだしな」
「…………ま、気長にやろう、気長に。別に遺作も逃げないし、この部屋だって俺が下手に片付けなきゃこのまんまだし」
「お前だってとっとと整理したいだろ、あんな……」
そこまで言って遥は口を噤む。
遥にとっての父親は、今まで一度も会いにも来なくて、母がどんなに苦労していたって知らんふりで、愛人達から聞く話もろくなものではない……そんな最低の父親なのだ。しかし、灯里にとっては二十年間を共に生きてきた父親で、それなりに思い入れもあるはずで。
恐る恐る灯里の方を見ると、灯里は何も気にしていないかのように。
「ま、大学にいる間に片せればそれで。遥、そっち漁っといて」
そう言った。
遥は小説というものに触れたことがほとんどない。
そりゃあ、教科書に載ってる分はある程度読んだし、印象に残ったものだってある。母曰く、小さい頃は夢中になって児童書を読み漁っていた時期もあるらしい。
しかし成長するにつれてそういう機会はどんどん減って、アルバイトに明け暮れていた頃は本なんて贅沢品だと一番に切り捨ててきた。だから。
「遥、そんな熱心に読まなくても……」
「……ん……」
「……」
十七にもなって、父親の小説で、自分の知らない一面を引き出されるなんて、思いもしていなかった。
あぐらをかいて背中を丸めて、じっと小説を読む遥を見て、灯里はため息混じりの笑いを漏らしてから本棚の方へ視線を戻した。
遥はそんな灯里の表情に気付くことなく、夢中で父の書いた物語のページをめくる。書いている言葉は、文芸誌に載る小説なだけあってさすがに難しい。それなのにすんなりと受け入れられるのは、登場人物の思いがこれでもかというほど丁寧に描かれ、気付けば自分が感情の濁流に飲まれているからだ。
まるで物語の上を走り抜けるように一冊読んで、また次の本に手を伸ばす。こんなことしていたら日が暮れてしまうと分かっているのに止められない。今まで読まなかった分を取り返すように、遥は夢中で本を漁った。
そうして、四冊目の本に手を伸ばそうとした時。
「遥。もう昼過ぎだから。出前でもとろうぜ」
灯里に肩を叩かれて、ようやく暴走のような読書は止められた。
灯里が選んだ出前は蕎麦だった。蕎麦なんて家でも湯がけるものをどうして出前に頼るのか、金持ちの感覚はよく分からない。
「小さい頃から出前って言ったらここなんだよなあ。あんま美味くはないけど、安定っていうか」
「美味くないもん食わすなよ……」
灯里はそう言うが、注文してくれた天ざる蕎麦は充分すぎるほどに美味い。どこか高級そうに見える器や、いつも使ってるそれより滑らかに削られた割り箸がそう思わせるのかもしれない、なんて思いながら、遥はあっという間に完食した。
「……ごっそさん……」
「ん、腹一杯になった?」
「まあ……」
まさかこんなに早く食べ終えるとは。思ったより読書というものは栄養をとられるらしい。
膨れた腹を撫でる遥を見て、まだ半分も食べ終えてない灯里がけらけら笑う。
「親父の本、気に入ったなら持って帰っていいよ。献本だけで埋もれそうなくらいあるから」
「気に入った、っていうか……あんまり本とか読まなかったから、珍しかった、っていうか……」
「でもあそこまで夢中で読んでたんだから、やっぱ本が好きなんじゃない? 遥は。俺もなんだかんだ好きだし、そこは兄弟なんだなあ」
「そんなの関係あるのかよ……」
父の遺作を追ってこんなところまでやってきたが、遥には未だ自分は大作家・神崎雄一郎の息子なのだという感覚も、灯里と異母兄弟という感覚もあまりない。だが、本を読んでいると、本を読んでいるその時だけは。
もしかしたら自分にはこの家で、このへらへらと笑う異母兄と共に、最低な父親の仕事部屋に忍び込んで本を読み漁る……なんて人生もあったんじゃないか……そう、思ってしまった。
なんだか母に悪いような気がして、慌ててその考えを頭から振り払う。
灯里はようやく食べ終わったらしく、食器を片付けた後一息つくと、「じゃあ、探すの再開だな」と立ち上がった。
「遥は好きなの読んでていいぞ。俺がちゃんと探しとくから」
「俺だって探す! ……悪かったよ、真面目に探さないで……」
「怒ってない怒ってない。遥が本が好きだとなんか嬉しい。なんでだろうな?」
「知らねえよ……」
ばつの悪さを誤魔化すように早足で仕事部屋に戻り、今度は真面目にやるぞと気合いを入れる。両頬を挟むように叩く遥を見て、灯里がまた笑った。
午後は午前中より冷静に「最高の女」捜索に臨むことができた。午前中に何冊か読んだことで父の文章の癖のようなものを掴むことが出来たからだろうか。何ページか読み進めると、このヒロインは違うな、とすぐに切り捨てるようになった。……いや、鞄には入れたが。
「……おい。そっちなんかそれっぽいのあったか?」
「んー……なんとなくこういう系統かなっていうのはあるけど、いまいちピンとはこないんだよな。遥は?」
「こっちも収穫はない……」
もしかして、最高の女はフィクションの中にいる、という推理自体が間違っているんじゃないか。そうしたら今までの時間、自分達は何を。そんな恐ろしい考えがちらついてきた、その時である。
父にしてはかなり責めた官能描写をしている恋愛小説。その一番後ろのページに、何か紙が挟まっているのを見つけた。
手に取って見てみる。それは、古い写真だった。
恐らく、撮っているのは父の仕事部屋。その中心の文机の前に、白いワンピース姿の女の子がちょこんと正座している。歳はまだ五、六歳くらいだろうか。画質の荒さやフラッシュの暗さから、プロが撮ったものではないと一目でわかったが、それを感じさせないような気迫と儚げな雰囲気のある、美しい少女だった。
「っ、灯里! これ!」
遥が声をかけると、原稿用紙と睨めっこしていた灯里がぱ、と遥の方に顔を向ける。そして、写真を見た途端に、硬直した。
「これ、隠し子なんじゃないか!? 俺と同じような……」
父親の面影はないが、どことなく灯里に似た雰囲気はある。もしかしたら灯里の調べから漏れていただけで、愛人はまだいるのかもしれない。
「でも問題はどうやってこいつに辿り着くかだな……とりあえず阿藤さんとか由井さんとか、浅木さんにも連絡とって、知らないか聞いてみるか」
「……っ……」
「あ、それより木更津さんとかに聞いた方が早いのか? 仕事部屋にまで来てるような女の子だし」
「っ……っ……」
「なあ、お前木更津さんに──……」
遥が写真ではなく灯里の方に視線を向けると、灯里が真っ白な顔で、はっ、はっ、と浅い呼吸を繰り返していた。
一目で異常事態と分かるその状態に、遥は「えっ」と間の抜けた声を上げた。
「ちょ、どうしたんだよ、おい!」
「っは、るか……っ……ふくろ、ふくろもって、きて」
「袋!? お前何言ってんだよ、なあ、なあって!!」
ぐらりとよろめいた灯里を支えると、遥まで倒れそうになる。灯里はそれを察したかのように遥の手を振り払うと、荒い呼吸を繰り返す口元を掌で覆った。
指の隙間から漏れるどう考えてもおかしい呼吸音。窓の外から聞こえる蝉の声。灯里がよろけた拍子に本棚にぶつかって、ばらばらと本が落ちる。遥は混乱して、何をしてやっていいか分からないまま。
「っ、ごめ」
なぜか必死で謝ろうとしていた灯里がばたんと床に倒れるのを、見ていることしか出来なかった。
「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡




