母と女は紙一重
神保町にある、個人経営の古い喫茶店。赤いベルベットの生地で出来たソファに腰掛ける狭山……今は離婚して浅木千早になったという女性は、ベテランのキャリアウーマンというより往年の大女優のような気品を纏っていた。長い睫毛。真っ赤なルージュ。スーツはよくあるものに見えるが時計や靴は一級品だと一目でわかる。
年老いたペルシャ猫を思わせる彼女はストレートの紅茶を啜ると、「それで」と少し酒に焼けた声で切り出した。
「先生の遺作の話よね。私も気になるから、知りたいことはなんでも聞いてちょうだい」
正直、今まで父の愛人として会った女性は皆、年老いた中に「きっと若い頃は可愛らしかったんだろう」という予感を滲ませていたから、浅木千早もそのタイプなんだろうと踏んでいた遥は未だ驚きから帰ってこれなかった。
……いや、正確には驚きだけではない。じゃあなぜ父は彼女に近付いたのか。それを考えると、吐き気が込み上げた。
吐き気を誤魔化すようにアイスティーを一気飲みすると、千早の目が遥の方に向けられる。
「にしても、先生に隠し子がいたなんてね。奥さんとのお子さんはともかく……先生、子供欲しいってタイプじゃなかったもの」
「じゃあ、貴女とはそういう話は一度も?」
「ええ。娘がいたから、将来的には一緒になって、三人家族で暮らそうと思ってたけど……」
千早は窓の外を見た。向こうにある少し古びたオフィスビルは、千早の勤める出版社が入っている場所だ。
「……ねえ。洗いざらい話すけど、本当に秘密にしてくれるのよね」
「ええ。木更津さんにもうまく言っておきます」
灯里がにっこりと目を細める。つくづく信用できない笑顔だと遥は思った。それはきっと千早もなのだろうが、目の前にちらつく「大作家・神崎雄一郎の遺作」という餌はそんなに魅力的なのだろうか。千早は姿勢を正すと、灯里を見て。
「……最高の女、なんて調子に乗ったこと言うつもりはないけど、先生にとって私は特別な女だったと思うわ」
そう、語り始めた。
浅木千早……その時はまだ別居中の夫との離婚が成立していなかった狭山千早が神崎雄一郎と出会ったのは、二十年前。彼女が三十五歳の頃のことである。後輩である木更津が体調不良で早退したことがきっかけだった。
「神崎先生の原稿、誰が取りに行く?」
「あの人だいぶその、あれだろ? 木更津じゃなきゃ……」
「前に中田が怒らせて、そのまま担当外れたんだよな。だから中田はなしとして」
「宮野も駄目だ、あいつは若すぎるから」
ざわつく編集部の中で白羽の矢が立ったのが、当時敏腕女性編集者として男社会を生き抜いてきた千早だった。編集長曰く、千早が一番つつがなく原稿だけを受け取って帰れるだろうから、と。
「いいか、絶対怒らせるなよ。あの人は気難しいし無愛想だが、うちの看板作家といって過言じゃないんだ。下手なことして筆を折らせてみろ、お前の席は無くなると思え!」
千早は深いため息をつきながら、編集長の言葉に頷くことしかできなかった。
まったく、男というのはどうしてあんなに権威に弱いのか。本来作家と編集者は上下関係があるものではなく、並走して走るべきものなのだ。気を遣って煽てて甘やかして書かせた本なんて、世間が認めても私は認めない。
そんな思いを抱えたまま、御成門駅を降りて神崎雄一郎の家へ向かう。クリスマスを超えて、もうすっかり年末の寂しさを纏った街をヒールを鳴らしながら歩いた。
神崎邸は、昭和の文豪気取りが住むに相応しい日本家屋だった。瓦屋根にくすんだ漆喰の壁。築年数は浅いと木更津から聞いていたのに古ぼけて感じるのは、草の生い茂った庭のせいだろうか。
インターホンを押して木更津の代理で来たことを伝えると、家政婦らしき女性がすぐに中に通してくれた。
「旦那様、菫田出版の方がお越しです」
「……入ってもらえ」
横柄な声に応えるように家政婦が襖を開くと、これまた昭和生まれの文豪らしい本と資料と原稿用紙の積み上がった仕事部屋が現れた。その中心の文机に向かっている雄一郎はご丁寧に着流しに半纏なんて羽織っていて、一周回って笑いたくなるのを堪えながら千早は部屋に踏み込んだ。
「木更津の代理で参りました、狭山と申します。原稿を受け取りにうかがいました」
そう言って頭を下げると、それまで原稿用紙と睨めっこしていた大作家はようやく顔を上げて千早を見た。
ぎょろりとした目が蛙を思わせる不気味な男だ。とっとと原稿を受け取って、こんな時代錯誤の空間からはおさらばしてしまいたい。
「……木更津は」
「体調が優れなくて、早退したんです」
雄一郎はふん、と鼻を鳴らす。そして、くい、と文机の隅を顎で指した。
「そこに今書き終わってる原稿がある。確認するなら勝手にしてくれ」
大作家らしい横柄な態度に辟易しつつも、千早は原稿用紙を手に取った。
粗を探してやろうと思ったが、雄一郎の文章に千早が指摘できるような粗は見つからなかった。誤字だとか脱字だとか、校正で直せばいいような粗を指摘するのはなんだか恥ずかしく感じられて、目を皿のようにして矛盾点や読者が置いていかれる点を探すのにまったく見つからない。悔しいことに、雄一郎は天才なのだと理解せざるを得なかった。
「全部読んだか。指摘は」
これが自分の担当作家なら、一言でも二言でも言ってやって成長させようと思えただろう。しかし雄一郎は木更津の担当作家で、しかももう四十路を超えたいい大人だ。千早は自分が言うことは何もないと断じて「特には」と応えるとそそくさと立ち上がった。
すると。
「……娘がいるのか」
千早は目を丸くした。
男社会で生き残っていくためには、女の顔を見せても母の顔を見せてはいけない。だから毎日濃い化粧をのせて、いいスーツを着て、背筋を伸ばしてやってきたのに、なぜ。
雄一郎の目は千早の鞄に向けられる。そこにあったのは、娘──奈々が勝手に貼ったであろう、その時やっていた子供向けアニメのシールだった。
「……はい、それが何か」
千早はなるべく平静を装って答えた。揺れるな、揺れても悟られるな。男はこうやって揺れる女を試しているだけだ。そんな男を何人も蹴散らして、千早は今の地位を築いたのだ。
しかし、雄一郎は。
「どんな子だ」
揺れない千早をつまらないと切り捨てることなく、だからと言って揺らすことを楽しむこともなく、そう言った。
「……えっ」
「だから、何が好きかとか、どんな本を読むか、とか」
「えっ、ええと……」
仕事中はずっと実家の両親に預けている奈々のことを思い出す。小さい頃は象のぬいぐるみを離さなかったが、最近はどうなんだろうか。小さい頃は絵本を読み聞かせていたが、十歳にもなって絵本は読まないだろう。
考え込んでいると、雄一郎はさして興味なさそうに文机に視線を落とした。
「……もし次に来る機会があれば、その時に教えてくれるといい」
この時の千早には雄一郎の意図が掴めなかったが、あとから神崎家には最近一人息子が生まれたのだということを知った。
あの偏屈な作家先生なりに、子供とは如何なるものか知ろうとしているのだろうか。そう思い、千早は雄一郎に個人的に連絡を取り始めた。別に、情が湧いたわけではない。ただ、作家から父になろうとしている男を応援してやるのも一興だと思っただけだ。
しかし雄一郎と連絡をとるうち、その考えも的外れだったことに気付いた。
「君の娘に会いたい」
雄一郎がそう言ってきたのは、年が明けてしばらく経った頃。週末、個人的に二人きりで会うような仲になった頃だった。
会うのは決まって、雄一郎の家の近くの喫茶店だった。雄一郎は子供ができたばかりの大作家。千早は別居中とはいえまだ人妻。会社の近くで会えば、あらぬ誤解を生みかねないと考えたからである。
「娘って……奈々に? どうして」
「いや、君が会わせたくないというのなら無理は言わない。ただ、ただ、僕は」
雄一郎は大きな体格に似合わない、華奢なティーカップを両手で包み込んだ。
「……家族というものが、どういうものか知りたいんだ……」
大作家・神崎雄一郎が見せる、弱々しい姿に。自分を見下していると信じてきた男の、震える肩に。千早は憐憫にも似た胸の締め付けを感じてしまった。きっと、これが決め手だった。
雄一郎の正妻は、生まれたばかりの息子の世話に専念するために南青山にある実家に里帰りしている。雄一郎の家を訪ねるのは、原稿を取りに来る編集部の人間と、週に三、四回来る家事代行の業者だけ。その隙間を縫うのはまったく難しいことではなく、翌週には奈々を連れて神崎邸に来ることが出来ていた。
この日のために雄一郎が準備したのであろう、女児用の玩具を庭で弄る奈々のぽつんとした背中を見ながら、雄一郎がぼやく。
「……無邪気だな」
千早はそれを聞いて思わず笑ってしまった。
「無邪気だなんてとんでもない、もう一端の女よ。今日も最初は乗り気じゃなかったくせに、この大きなお家見た途端に目の色変えたんだから」
「……気に入ってたか? この家を」
「ええ、それはもう」
千早がにっこりと微笑んで見せる。雄一郎は少しばつが悪そうに「そうか」とだけ言った。
そして千早は、雄一郎が奈々のことを知りたがった意図は、もしかしてもっと別のところに──自分と雄一郎の関係の中にあるんじゃないか。そう思った。
それから数日。いつものように二人で喫茶店に行き、いつものようにお茶と雑談を楽しんで、夕方には店を出て、そして。
「……今日、奈々は実家に泊まらせたわ」
「…………分かった」
雄一郎が頷くのを見て、千早はそっとその腕に自分の腕を絡ませた。雄一郎は拒まずに、そのままホテル街へとゆっくり歩き出した。
神崎雄一郎は脆い男だった。
二人きりのベッドの中、生まれたままの姿の雄一郎は何度も何度も謝った。すまない、すまない、男として不能で、と。期待外れではなかったといえば嘘になるが、謝りながらも千早の手を握って離さない雄一郎を見ると、怒りや呆れより強い強い憐憫の気持ちが湧き上がった。つまり、絆されてしまったのだ。大作家・神崎雄一郎が見せる、その弱さに。
「……大丈夫、大丈夫よ。私、ちっとも気にしてないわ。こうしてね……こうしてるだけで、満足だから」
千早が雄一郎を抱きしめてやると、雄一郎は一瞬身体を強張らせた後、弱々しく千早の背中に手を回した。
ああ、なんて不器用な男なんだろう。偏屈で横柄な態度は、甘え方も知らない幼さを隠す虚勢なのだ。触れれば触れるほど、体温が重なれば重なるほど、千早は雄一郎という男に惹かれていった。
「……今度は」
「ん?」
「今度は、水族館に行こう……奈々も連れて」
運命なんて馬鹿げたものを信じる気は毛頭ないし、今の夫とだってそんなもの感じたことは一度もない。しかし雄一郎とは運命じみた、互いが互いを必要としているような不思議な感覚があった。
雄一郎とは、恋人というより家族のような時間を過ごした。
「ほら、奈々。あの魚は何か分かるかい」
「えー……知らない……」
「奈々ってば、ずっと私の後ろに隠れてばっかりじゃない。せっかく雄一郎さんが連れてきてくれたんだから、ちゃんとしてよ」
三人で水族館や動物園、美術館、観劇……色んなところに行って、そのどこでも雄一郎は甲斐甲斐しく奈々の世話を焼いた。
これはおそらく相当な子煩悩なのだろう。今の正妻と離婚したら、その子供を引き取るなんて言い出すんじゃないだろうか。千早がそれとなく聞くと、雄一郎はふるふると力なく首を横に振った。
「いや……まともに会ったこともない息子だ。もし妻と別れることになったとしても、親権は妻に譲るよ」
「意外……奈々のことはあんなに可愛がるのに」
「それは、奈々が……」
雄一郎の目が遠くを見つめる。その視線の先にいる奈々は、大きな水槽の中で泳ぐ鰯の群れを眺めながらも、ちらちらとこちらを窺うように何度も振り返っていた。
「見て。あの子ったら、あなたにどう見られるか気にしてる。女の子って、生まれた時から女よね」
「……ああ」
雄一郎はのそりと立ち上がる。奈々はそれを見て一瞬びくりと肩を揺らして、一瞬千早の方に視線を向けた。未だに人見知りでもしているのだろう。楽しんでおいで、と唇の動きだけで伝えると、奈々は一瞬目を伏せて水槽の方に顔を向けた。
「奈々、どの魚が一番好きだった?」
「……知らない……」
こうして見ると、初めから自分達はこの形で家族としてやってきたようにすら思えた。
そんな日々に終わりを告げたのは、他ならぬ奈々だった。
「お母さん。いつお父さん戻ってくるの?」
ある日、皿洗いをしていた奈々が急にそんなことを聞いてきた。換気扇に紫煙を吸わせるようにして煙草を吸っていた千早は、呆れたように笑って「ええ?」と返す。
「なに、急に。あんたそんなにファザコンだっけ?」
「違う、違うけど……離婚して雄一郎さんと再婚とか、考えてないよね?」
奈々はきゅ、と蛇口を閉めて、何かを訴えるような目で千早を見る。千早は思わずたじろぎかけたが、自分の娘に何を恐れることがあるのか。煙草を咥え直して、目線を落とした。
「そのつもりだけど……あんただってあんな貧乏な男より雄一郎さんの方がいいでしょう。あの家は気に入ってるんだし」
「そういう問題じゃないじゃん!!」
奈々の震える声が部屋に響いた。
「大体お母さん変だよ、お父さんとまだ別れてないんだよね? なんで雄一郎さんとあんな、カレカノみたいなことしてるわけ? 二人だけで会うならまだいいけど、なんであたしまで巻き込まれてんの!?」
子供が、子供の語彙で、一生懸命に何かを訴えようとしている。きんきんと甲高い声に不快感を覚えながら、千早はため息と煙を吐き出した。
「大人には色々あんのよ」
「色々って何!」
奈々は顔を真っ赤にして詰め寄ってくる。
「お母さん知らないかもだけど、あの人なんかキモいし変なんだよ!? あたしに話しかける時、絶対肩とか触ってきて、こないだとか髪触られてっ」
「髪なんて別に大したことじゃないでしょう!!」
奈々がぎくりと身体を震わせて、息を呑む。しまった、つられて大声を出してしまった。しかし奈々の言っていることはあまりにも、あんまりだった。
「……あんた、それくらいでぎゃあぎゃあ騒いでるわけ? 大人気ない……」
「それくらい、って」
「いいわよ、そんなに言うならもう雄一郎さんには会わなくていい。でも、もし雄一郎さんがあんたの父親になった時……困るのは、あんただからね」
そう言って、煙草をビールの缶に押し潰す。奈々は声になっていない唸り声をあげると、急に踵を返して自分の部屋に駆け込んだ。すぱん、と強く襖が閉められる音を聞いて、これは明日の朝になっても口をきかないのだろうなと千早はぼんやり思った。
その日から奈々は本当に雄一郎と会うのを拒んだ。雄一郎が来ると事前に知っていたら勝手に実家に行くようになってしまったし、知らせなくて急に連れ帰ってみても部屋に引きこもって出てこなかった。何度叱っても奈々は雄一郎とまともに顔を合わせようとせず、日に日に雄一郎の足は狭山家から、いや、千早から遠のいた。
一度、千早の方から雄一郎を喫茶店に呼び出して、聞いてみたことがあった。
「……私達の関係って、どうなるのかしらね」
雄一郎は深い深いため息をついた後、眉間を揉んで。
「奈々があの調子じゃあ、無理だ」
千早は今でもたまに思う。雄一郎はあれからあの脆さや弱さを受け入れてくれる人を見つけたのだろうか。あのベッドの中だけが彼の安心できる場所だったのに、こっちの都合で奪ってしまって本当によかったのか。
しかし、雄一郎が亡くなった今となっては、もう分からない。
「……まあ、どちらにせよ長続きする関係じゃなかったものね。綺麗な言葉で飾ったって、所詮不倫だもの」
千早が「吸っても?」と聞くと、灯里が「どうぞ」と笑顔で返す。小さなポーチから取り出された細い煙草を咥えると、甘ったるい紫煙がかつての美女を覆い隠した。
「……すみません、あの、今……奈々さんは」
我慢の限界のような震え声で遥が尋ねる。千早は「ああ」と思い出したように呟くと。
「もう何年も前に家を出てって、そのまま。連絡も寄越さないなんて薄情な子よね」
呆れたように笑った。
「それより遺作よ、遺作。私の誕生日、入れてみてよ」
「ああ、はい」
灯里はポケットから父のスマートフォンを取り出す。千早にも遥にも見えるようテーブルの真ん中にそれを置くと、手慣れた、しかし慎重な手付きで千早の誕生日を入れた。
そして。
「……開かない、ですね」
スマートフォンには、「認証に失敗しました。五分経過後、もう一度お試しください」と表示されるだけだった。
千早は一瞬目を見開いたが、すぐに細かいラメで彩られた瞼を伏せた。
「…………入力ミス、ってことは?」
「ないと思います。一緒に確認しながら入力したでしょう」
千早は何か言いかけたが、きゅっと唇を結ぶと、伝票を持って立ち上がった。
「それじゃあ、私はこれで。暇な学生と違って忙しいのよね」
「はは、ありがとうございました。ご馳走様です。ほら、遥も」
「あっ、ありがとうございました……」
千早はふん、と鼻を鳴らすと、年季の入ったヒールを鳴らしながら立ち去っていった。
遥は気まずい空気に押し潰されまいとなるべく背筋を伸ばしたまま、灯里の方に目をやると。
「いやあ、ちょっと胸糞悪い話だったなあ」
灯里があんまりにもあっけらかんとしてるので拍子抜けした。
「お前なあ……そんくらいで済む話かよ……」
「ま、もう過ぎたことだしなあ。ほら、ちょうど五分経った。奈々さんの誕生日も入れてみよう」
灯里はスマートフォンを手に取ると、今度は奈々の誕生日を入れる。しかし、案の定というべきか。ロックは外れず、今度は十五分後に試せという表示が出た。
失敗出来るのは、あと一回。もう後がない。
「……やっぱり美晴さんかなあ」
灯里が顎を撫でながらぼやく。
遥だってその可能性は考えていないわけではないが、それでもこんな不確定要素だらけの状態で母親に父の話を振るのは避けたい。何より、阿藤神奈子の話に出た父も、由井綾乃の話に出た父も、浅木千早の話に出た父も……いずれもろくな男に思えず、下手に聞けば母の古傷を無遠慮に抉ることになるのではないかと思ったからだ。
「……木更津さんは、他に何も知らないのかよ」
「うん。あの人はあんまりプライベートに深く踏み込む人じゃないんだ。だから親父が女子高生と付き合ってたって聞いて、かなり驚いてた」
「二十年の付き合いの編集にも明かしてない『最高の女』、ねえ」
「俺も最初は母さんの誕生日か命日で開くだろ、って思ってたよ。さて、どうしたもんか」
正妻ではない。阿藤神奈子でもない。由井綾乃でもない。浅木千早でも、その娘の奈々でもない。二十年間一緒に暮らしてきた灯里でさえ検討もつかない女。そんなもの、本当にこの世に存在するのか──そこまで考えた時、遥の脳裏に一つの可能性が過った。
「そう……そうだよ、実在しないんじゃないか!?」
「え?」
「父親の書いた小説のヒロインとか、読んだ小説の登場人物とか……そういう可能性ってないか!?」
灯里は首を捻ったが、それでも「よし」と小さく言うと。
「遥、次いつ空いてる?」
「え?」
「うちにおいで。その線で探してみよう。親父の性格的に人の本より、自分の本だろうな」
灯里が一人で納得したようにうんうんと頷く。遥は一拍遅れてスマートフォンを取り出して予定を確認すると、ちょうど今週末が空いていた。
「……で、でも俺あんまり本って読まないぞ。役に立たないんじゃないか?」
「いやいや。親父の原稿は吐いて捨てるくらいあるんだ。人手なんてあるだけでありがたい」
それはそれでどうなんだ、と遥は口に出しかけたが、自分には文句を言う権利はないと思って飲み込んだ。父の小説の中にいる女、なんて突拍子もないことを言ったのは自分の方だからだ。
「全部引っ張り出して見つけよう。『最高の女』ってやつ」
なんだか共犯じみた灯里の笑顔に、遥はつられたように笑ってしまった。
「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡




