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老いた男は捨てられる

「愛人のアポ、とれたぞ。忙しい人みたいでなかなか大変だったけど」


 電話の向こうにいる灯里からそう言われ、遥は思わず「うぇ」と不快感を露わにした声を出してしまった。


「うぇ、ってなんだよ、うぇって。今度こそ親父のスマホが開くかもしれないんだぞ、気にならないか?」

「いや、そりゃあ気になるっちゃ気になるけど……あんた平気なのかよ。前回あんな」

「あんな? ああ、阿藤さんのことか」


 先日、遥は父の浮気相手だったという女性・阿藤神奈子に出会い、死人の人生を辿ることがいかに大変かを身をもって知った。何より厄介なのは、死んだ本人にはもう何も言いようがないことである。


「あれはすごかったなあ、まさか泣くとは」

「そんな程度で済ますのかよ……大の大人があんな取り乱すんだぞ? 異常事態だろ」

「ま、大人もみんながみんな完璧じゃないってことだ。で、次の人……由井(ゆい)さんは明日ならいいって」


 何でもないようなことのように続ける灯里に、遥は深いため息をついた。

 だめだ、感覚が違いすぎる。それが大人と子供の差なのか、金持ちと貧乏の差なのか、正妻の子と浮気相手の子の差なのか、遥には分からなかった。


「ただその人のやってる店が開くのが夜みたいなんだよ。帰りが遅くなると思うから、遥は今回留守番でもいいけど」


 そう言われて、正直ラッキーだと思ってしまった。

 話を聞くだけのことがあんなに辛いと思わなかったのだ。人の感情に巻き込まれて本当のことが煙に巻かれるような感覚……思い出すとなんだかぞっとする。

 灯里もこう言ってる。何もしなくてもパスコードが解除されれば遺産は手に入る。というかそもそも半分でいいと最初から欲張らないでおけばこんなことにはならなかったのだ。

 遥は悶々と考えた末に。


「……行くよ、俺も行く」


 結局、行くことを選んだ。何もしないでもらう金は気持ち悪い、というのはある。しかしそれ以外にも自分ではなかなか認め難い感情があった。

 前回、阿藤神奈子と話した時に、彼女が灯里へ向けた言葉。神崎夫妻は愛のない結婚だった、と直接灯里にぶつけたあれが忘れられない。

 なんとなく、あれを言われるような場に灯里を一人だけ向かわせるのは気が引けたのだ。


 そうして、遥が連れてこられたのは。


「ボク……遥くんだっけ? まだ中学生?」

「こ、高校生です……」

「どっちにしろ未成年じゃない」


 まだ客のいない、薄暗い店内。カウンターテーブルの奥に並ぶたくさんの酒瓶。ちらりと横に目をやると埃を被ったカラオケセットが置いてあり、その隣の棚には瓶底に名前の書いた酒瓶が大量に並んでいる。

 遥が肩を丸めて縮こまっていると、白く揺れる液体がすっと目の前に差し出された。


「カルピスでいい? 君……灯里くんは?」

「あ、じゃあビールで。綾乃さんは?」

「じゃあ、いただこうかな」


 なだらかにくびれた細いグラスに注がれたビールは、家で母が飲み干しているものとはまったく違うものに見える。店の雰囲気の緊張感がそうさせているのか、店主……由井(ゆい)綾乃(あやの)が放つ威圧感にも似た色気がそうさせているのか。

 そんなことを考えながら、遥が反射的にカルピスに口をつけようとすると、灯里からやんわりそれを止められた。


「一応ね」


 綾乃が琥珀色の液体の入ったロックグラスを掲げる。


「乾杯……っていうより、献杯、かもね」


 灯里もグラスを持ち上げたので遥もそれに倣うと、三人のグラスが軽くかちゃんとぶつかった。

 灯里からは夜にやってる店、と聞いていたので居酒屋か何かと思っていたが、まさかスナックだとは……。

 当然、遥はこんなところに来たことがない。存在はさすがに知っているが、父親と同じ、あることは知っているが実感のないものとして認識していたのだ。そんな自分に比べると。


「あんた慣れてるよな……」

「そりゃ、大学生だから。いや、でもこういうところに連れてきたがるのは編集の人の方が多いかな」

「こういうところって何? 失礼ね」


 綾乃は灰皿を取り出すと、令和の今じゃ滅多に見ない紙タバコを咥えた。


「吸うわよ」

「どうぞどうぞ。綾乃さんのお店ですし」


 綾乃は煙草に火を灯すと、ぷかぷかと紫煙を浮かべながら遥と灯里を一瞥した。


「……奥さんの息子と、浮気相手の息子、だっけ。どっちも先生に似てないのね」


 駅から少し歩いたところにある古びた飲み屋「スナックのんのん」の店主であり、二十三年前に父と愛人関係にあったという女性……由井綾乃は、気怠げな様子でそう言った。


「……父とは連絡は?」

「別れてから一回もとってないわよ。で、遺作の話よね。奥さんの誕生日でも命日でも開かなかったっていう」

「はい。酷い話ですよね」

「こんなこと息子さんにいうのもなんだけど、そういう人だったわよ。先生って」


 綾乃が短くなった煙草を灰皿で潰す。そして、二人に向き直ると。


「……先生からは、多分好かれてたと思うわ」


 そう、語り始めた。




 由井綾乃が神崎雄一郎と出会ったのは、綾乃が十五歳になる年の二月だった。

 クラブのホステスをしていた母親が、酔っ払って連れ帰ってきた壮年の男……それが雄一郎だった。


「すまない、随分酔ってしまったみたいで……なんとか送ってきたが、僕もここで休んでいいかい」


 熊のような大きな体格に似合わない、気弱そうな男。それが、雄一郎の第一印象だった。

 ぐでんぐでんになってしまった母を寝室とは名ばかりの押入れの奥に押し込んで、綾乃は麦茶をどん、と出した。酔いが残っているのかまだ頬に赤みを残した雄一郎は、ぐい、とそれを飲み干すと、聞いてもないのにぺらぺらとことの顛末を語り出した。

 自分は作家で、母の店には編集との打ち合わせでよく行ってて、いつもはこんなに飲まないんだが今回は映画化の記念もあって……と何かを誤魔化すように喋るのを、綾乃は母譲りの慣れた所作でうんうんと聞いてやっていた。

 随分酔っ払っているようだし、もしかしたらこの人はこのまま家に泊まるかもしれない。そうしたらまた自分の布団を貸してやらなければ。前に貸した奴は布団の上で吐いて最悪だったな、なんて考えていると、雄一郎が不意に。


「君は?」

「え?」

「君は、何が好きなどんな子なんだい」


 今まで母は何人もの男を連れて帰ってきた。彼氏だったり、客だったり、一夜限りだったり。その中の何人かとは話したことがあるし、何人かは綾乃と一夜を過ごすことを望んだ。

 だが、雄一郎のように綾乃本人のことを気にする男は初めてだった。


「……分かんない。そんなの考えたことないし」

「じゃあ、好きな本は?」

「本? そんなの読むわけないじゃん、オタクじゃないんだから」

「なに、それはよくない。最後に読んだ本は何だ」


 雄一郎は机から身を乗り出すと、あの本が素晴らしいだのこの本はつまらないだのと知らない小説の批評を始めた。綾乃はいつもの通り聞き流していたが、それでも、なぜか。この雄一郎という男は、他の人とは違う何かを持っている。そう感じずにはいられなかった。


 雄一郎との再会は、思ったよりも早かった。

 母が仕事に行っている間、急に雄一郎が家に訪ねてきたのである。


「何? ママならいないけど」

「いや、いや。君に用事があって来たんだ。よかったらあげてくれないか」


 綾乃は迷ったが、母の話の断片や雄一郎の話の断片を思い出す。そういえばこの人は先生、なんて呼ばれる職業で、金払いはいいし問題も起こさない、言わば無害な常連なのだと。

 一時の気まぐれで雄一郎という客を失えば、きっと母の不安定さは綾乃に向くだろう。綾乃は渋々チェーンを外して、雄一郎を家に招き入れた。


「で、用事って何。あたしとやりたいの」

「違う違う。君がこの間本なんて読まないと言っていたからね、いくつか見繕ってみた」


 雄一郎は大きな紙袋からどんどん本を出しては机に並べていく。熊のような体格も合わせてサンタクロースのようだと綾乃が笑うと、雄一郎が首を傾げた。


「それで、この中だったらどれに興味がある?」

「ええ? 短くて絵が多いやつ」

「挿絵もセリフもない本なんてどこがいいのか、か。『不思議の国のアリス』だね」

「あ、それは知ってる。あたしの筆箱、その柄だもん」

「なら今度絵本とか、もう少しわかりやすい形で訳してる『不思議の国のアリス』を持ってくるから。とりあえず今日はこれを読んでみなさい」


 教育者じみた言い方に綾乃は少し嫌な気持ちを覚えたが、この男の機嫌を損ねることが悪手なのは頭の悪い自分でも分かる。


「言っとくけど、あたし馬鹿だから全部読みおわんないと思うよ」

「それでもいい、それでもいいから」


 その日から、夜の読書会とも呼ぶべき二人の逢瀬が始まった。


 神崎雄一郎は変な男だった。


 会うのは決まって夜、綾乃の家。たまに夕方に時間が合えば、雄一郎から少し洒落た喫茶店に連れ出されることもあった。そこで雄一郎が呪文を唱えるように豆を選んで珈琲を注文するのを見ると、本来この男は綾乃とは別世界の人間なのになんで綾乃に構うのか、そう思わずにはいられなかった。

 そして、対面して話を始めると雄一郎の変さはますます際立った。

 普段はこちらの機嫌を窺うようにもじもじしているかと思いきや、本の話になると急にくわっと目を見開いて聞いていないことまでぺらぺらと喋り出す。

 最初はその豹変を不気味だと思っていた綾乃だったが、一ヶ月もそんな日々を過ごすうちに雄一郎はそんな人なんだと受け入れて、三ヶ月も経つ頃にはその悪癖を雄一郎という男の可愛らしさとも捉えるようになっていった。

 そして、半年も経つ頃には。


「先生、この間貸してくれたのもう読んじゃったよ。先生の言う通り、難しいけど面白かった」

「そうかそうか。綾乃はやっぱり賢い。君なら分かると思って持って来たからね」


 綾乃はすっかり、文学作品というものを抵抗なく読破出来るようになっていた。


「先生のおかげかな、最近国語の成績だけいいんだ。学校の奴らがびっくりしてたよ、あたしが本読んでるの見て」

「そいつらは綾乃のことを分かっていないんだ。僕なら分かってあげられる。君は本当は、とても素敵な女の子なんだっていうことを」

「やだ、先生。口説き文句みたい」


 綾乃がからからと笑うが、雄一郎は笑っていなかった。ただ、綾乃のことをじっと見つめていた。

 雄一郎の手が綾乃の手に重ねられる。熊のようで可愛らしいと感じていた丸っこい手は、しっかりと熱い男の体温を宿していた。

 その晩、二人は恋人になった。


 恋人になってから初めてもらったプレゼントは、当時同級生の何人かしか持っていなかった携帯電話だった。


「会いに来れない日でも綾乃の声を聞きたいんだ。料金は全て僕がもつ。だから持っててくれないか」


 そう言って渡された銀色の無骨な携帯電話を、綾乃は「先生ったら私のこと大好きなんだから」と笑いながら受け取った。

 恋人が出来たのは初めてではない。雄一郎より歳上の男とも関係を持ったことがある。それでも雄一郎が誰より特別だったのは、雄一郎は身体や若さではなく自身を求めているような気がしてならなかったからだ。

 雄一郎は他人の一言にすぐに不安になっては綾乃に助けを求め、綾乃が気まぐれでそれをそっけなく追い払うと泣きながら縋ってくる。欲しいものは何でも買ってあげる、したいことも何だってしていい、だから僕を捨てないでくれ、と。

 自分の足元に縋りながらハイブランドのバッグや香水、アクセサリーを差し出して捨てないでくれと懇願する男はなんと惨めで可愛かったことか!


「先生、大丈夫よ。あたしが先生のこと捨てるわけないじゃない。ほら、もう泣かないで」


 綾乃がそう言って背中をとんとんと優しく叩いてやると、ようやく涙を涸らして自分に抱きついてくる、この男が好きで好きでたまらなかった。


 二人の関係性が変わり始めたのは、綾乃が十八歳になった夏のことである。

 すっかり読書が趣味になった綾乃がもっと本を読みたい一心で学校の図書室を訪れると、そこには自分と同じく読書を趣味にした生徒がぱらぱらと集まっていた。


「……ねえ、その本面白い?」


 その中で目についた男子生徒に声をかけた。完全に気まぐれだった。


 そうするともう、魔法が解けるように。


 徐々に雄一郎と話すのを億劫に感じるようになり、電話がかかって来てもすぐに話を切り上げることが増えていった。代わりに放課後の図書室でのお喋りが綾乃の居場所になっていった。

 家に雄一郎が来ることもあったが、綾乃の態度はあからさまにそっけないものになってしまった。少し前はこの人と共に死んだって構わないと思えるほどに愛していたのに、自分は案外薄情なんだと綾乃は思った。

 ある晩、綾乃は不意に聞いた。


「そういえば、最近ママのお店には行ってるの?」

「いや、編集も変わったからね。君のお母さんと話すより、君と話している方が僕は楽しいんだ」


 その瞬間、綾乃から雄一郎に向けていた、店の常連に払う義理も、恋人にかける愛情も、全て意味を失った。

 それからはもう家にもあげなくなり、電話もとらず、綾乃の人生から雄一郎という存在はゆっくりと薄まっていった。

 雄一郎もきっとそれを分かっていたのだろう。ある日、督促状にまじって一通の手紙がポストに投函されていた。


「十二月二十五日、十九時。クイーンズチェアというレストランで待っています」


 きっと別れ話だろう。最後の礼儀として、綾乃は指定されたレストランへ行った。


 クイーンズチェアは、高校生を連れてくるにはあまりにも場違いなレストランだった。窓から見える夜景、運ばれてくるコース料理、真っ白なテーブルクロス。ドレスコードこそないもののジーンズで来てしまった綾乃が異物のように感じるその空間で、雄一郎は。


「結婚してほしい」


 子供の指には重すぎる、ダイヤのついた白銀の指輪を差し出して来た。


「妻とはいずれ別れる。元々愛のない結婚で、離婚も視野に入れようという話をしていたところだったんだ。君に生活で不自由はさせない。だから、どうか」


 綾乃はため息をひとつついて。


「先生、あたしじゃ先生は手に負えないよ」


 そう言って、レストランを出た。

 背後から雄一郎の泣き喚く声が聞こえた。少し前だったら駆け寄って慰めてあげたいと思えたその声を、今は気色悪いとしか思えなかった。




「……だから、きっと好かれてたんだとは思うけど……最高の女ではなかったと思うわ。なんてったって、クリスマスに振った女よ?」


 綾乃が自嘲的に笑う。もう煙草は三本目を咥えていた。


「後から思ったんだけど、先生は恋人じゃなくて娘がほしかったのかもね。私のこと甘やかすっていうより、世話を焼いてくれてた感じがしたもの」

「……そうですか」


 灯里はすっかりぬるくなったビールを飲み干して、「では」と席を立とうとする。遥も慌ててついて行こうとすると、綾乃の「待って」という声がそれを止めた。


「遺作が入ったスマホ、持って来てるんでしょう。ここで開いてみせて。今」


 遥がごくんと息を呑む。阿藤神奈子の取り乱した姿が脳裏に浮かび、助けを求めるように灯里を見た。しかし灯里は綾乃を見つめたまま、「はい」と言って父のスマートフォンを取り出した。


「……多分綾乃さんに関する記念日は誕生日と、クリスマスかな。貴女と付き合ってた時は毎年律儀に手帳のクリスマスのところに印つけてたから」

「……可愛いところあるのよね、今思えば、って話だけど」


 灯里が遥の方に視線をやる。

 三年間も父の愛人をしていた、かつての少女。プロポーズまでしていたのだ。本当に、彼女が「最高の女」なのかもしれない。

 遥がこくんと頷くと、灯里の指が画面を叩いた。たぷ、たぷ、とゆっくり綾乃の誕生日をいれていく。……はずれ。そして。


「……開きませんでした、ね」


 「認証に失敗しました。一分経過後、もう一度お試しください」と無機質に書かれた画面を見せられた綾乃は、咥えていた煙草を灰皿へ捨てると。


「よかった……」


 どっと肩の力を抜くようにそう言った。


「……あの、父のこと、好きだったんじゃ……」


 遥が恐る恐る尋ねると、綾乃が「ええ、ええ」と頭を抱えながら答える。


「好きだったわ。愛してたし、愛されてたと思う。でも……愛され続けたい人じゃなかったのよ」


 心底安心したような綾乃の声に、遥はぽかんと口を開けることしかできなかった。


 店を出た時には、もう時刻は夜の九時を回っていた。街にはちらほらと出来上がっている酔っ払いが出歩き始め、夜特有の賑やかな匂いに自分の気持ちだけが重たく沈む。

 父のことを知れば知るほど、自分とその男に血の繋がりがあることがどこか悍ましくなる。しかしそんな父と二十年の時を共にした灯里は、果たしてどんな気持ちなのだろうか。

 夏の夜、煌めくネオンを背景に背負った美青年を見てみるが、その真意は掴めなかった。


「腹減ったろ。なんか食って帰る?」

「あんまり高い店にするなよ、俺は遺産から金返すんだからな」

「ええっ、じゃああれ。ハンバーガーは?」

「まあ、いいぞ」

「よし、じゃあそれで」


 父という存在をほどいていけば、いずれこの男のことも分かるのだろうか。遥はそんなことを思いながら、灯里の隣を歩いた。

「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡

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