馬鹿な女と人は言う
灯里は遥に自分の隣に座るよう促すと、阿藤神奈子は会釈をしてから遥の座っていた席……灯里の向かいに腰を下ろした。
「あの、この度はご愁傷様でした。本当はお葬式で言いたかったんだけど……」
「いえいえ。関係者ばかりの式だったから、来られてもあまり悼むという気持ちになれなかったかもしれません。それより今日はわざわざありがとうございます」
灯里が貼り付けたような笑顔のまま「飲み物は」と聞くと神奈子がおずおずと「アイスティーを」と答えながら、ハンカチで汗を拭った。
「それで、雄一郎さんの遺作があるんですよね? なんでしたっけ、その……」
「『自分の人生の中で最高の女に捧げる』ってやつです。今、心当たりに片っ端から連絡してる最中で」
神奈子は躊躇うように視線を揺らし、そのまま遥の方にそれを向ける。
「この子は……?」
「ああ、すみません。紹介が遅れました。この子は田村遥。神崎の婚外子で、もし遺作を刊行するなら彼にも権利があると思ってついてきてもらってます」
「そうですか……」
神奈子は運ばれてきたアイスティーのグラスのふちを指でなぞる。少女じみた仕草と疲れきった大人の表情にちぐはぐなものを感じながら、遥は灯里に促されるまま「どうも」と会釈した。
神奈子の指はグラスを一周すると、ぎゅっと拳の中に握り込まれる。そして、意を決したように灯里を見ると。
「……その遺作は、私も刊行前に読む権利はありますか?」
そう言った。
そういえば彼女はファンレターを何度も出すほどの熱心なファンなのだ。葬式に参加したかったのも、作家・神崎雄一郎を追いたい気持ちからきていたのかもしれない。
「……まあ、刊行する予定があればもしかしたら。それか……」
灯里はにこりと微笑んでみせる。
「貴女が父の言う、『最高の女』なのであれば、それはぜひ」
神奈子は眉尻を下げて俯く。そして。
「……雄一郎さんにとって、私は……きっと忘れられない女だとは、思います」
そう、語り始めた。
阿藤神奈子が神崎雄一郎と出会ったのは──名前を知ることを出会った、と定義していいのなら、神奈子がまだ十五歳、中学生の頃だった。
図書館でたまたま見かけた神崎雄一郎の小説は、彼女の人生に大きな衝撃をもたらした。この世に自分の理解者など一人もいないと信じ込んだ主人公が救われていく物語に神奈子は何度も何度も涙をこぼし、これは、この小説こそは自分のためにある本だと確信して疑わなかった。そこからである。神奈子が神崎雄一郎という作家を意識し始めたのは。
神崎雄一郎は天才だった。
新作を書けば飛ぶように売れ、過去の著作も名作として語り継がれる。
雄一郎の本を読み漁る内に、主人公の台詞や、地の文や、あとがきから滲み出る雄一郎本人への憧れが神奈子の胸を占めるようになっていった。
ファンレターを何通も出したが、返信が来ないだろうとはわかっていた。神崎雄一郎は大作家だ。自分のような一読者にかまっている暇はない。しかし、それでも。そう夢を見て、神奈子は自分の写真と連絡先を書いた紙をファンレターに同封した。
そうしたら、来たのだ。返事が。
男らしい無骨な字で、何度か書き直した跡を隠しながら、誠実に、真摯に、自分のファンレターへの謝礼を書いていた。神奈子は一文字一文字を噛んで含めるようにして読み、最後に書いていた一言。
「君とは直接やりとりをしたいから、今後はこちらの住所に送って欲しい」
それを見た瞬間、口から感嘆の吐息を漏らした。
個人的な文通を始めると、雄一郎の大作家としての仮面はすぐに剥がれ落ちた。神奈子に、天才小説家・神崎雄一郎としての顔ではなく一人の男としての顔を見せるようになったのだ。
雄一郎は神奈子が思っている以上に脆く繊細な男だった。他人の軽口をどこまでも気にして、神奈子にも何度も何度もまだ自分の小説が好きかと聞いてきた。不思議と嫌だとは思えなかった。むしろ、自分こそが彼を支えているのだという達成感すらあった。
二人の関係が変化したのは、神奈子が十七歳になった時である。神奈子は雄一郎と接する内に自分も小説を書きたいと思うようになり、それを雄一郎との手紙の中で打ち明けた。すると。
「それならば書いたものを私に見せるといい。手紙ではなく、直接会って。ここに電話をかけなさい。すぐにとれるようにしておくから」
神奈子はその晩、親が眠った後にそっと雄一郎の家に電話をかけた。雄一郎は本当にすぐに電話をとり、神奈子が「もしもし」と言った瞬間に「君か」と分かってくれた。
「いつも手紙を読んでるよ。励みになってる。ありがとう」
「いっ、いいえ、私はそんな」
「それで、話を書いてみたい、と言っていたね」
「は、はい、実は」
神奈子がしどろもどろにどんな話か伝えると、雄一郎は「そこは動機として弱い」「その話は必要だから削るな」と時折厳しく口を挟みながらも、最後まで神奈子の話を聞いてくれた。そして。
「大筋は出来上がっているね。いつまでに書けそうかな。書けたら喫茶店でも行って、直接添削しよう」
「でも、先生はお忙しいんじゃ」
「なに、未来の才能のためだ。惜しくない」
雄一郎の言葉に奮起した神奈子は、一週間足らずで自分の小説を書き上げ、雄一郎に連絡した。早すぎる完成に雄一郎は驚いていたが、それよりも早く読みたいと言わんばかりの声で待ち合わせ場所を指定してきた。
雄一郎との逢瀬は、夢のような時間だった。
神奈子一人では絶対に入れない喫茶店で、自分の作品や雄一郎の作品について意見交換をし合う。こんな豊かな時間がこの先の人生にあるのだろうかとすら思った。
「先生、今日はありがとうございました。私、このこと一生忘れません!」
そして、神奈子の門限が迫った頃。雄一郎は駅へ向かおうと踵を返す神奈子の手を握った。何も言葉はなかった。しかしその目が雄弁に語っていた。神奈子は何も言わず頷くと、雄一郎に連れられるまま夜の街へ溶けていき、翌朝には二人は恋人になっていた。
雄一郎から求められるのは、神奈子にとってこれ以上なく喜ばしいことだった。大人の男が、大作家・神崎雄一郎が、自分の初恋の人が、他の誰でもない自分を選び、求めてくる。その事実は神奈子の心をじんわりと満たし、満たされた心は書く小説にも反映された。
「最近、前に書いていたのと随分違うものを書くね。何か心境の変化があったのかい」
ある晩、雄一郎がベッドの上で聞いてきたことがあった。神奈子は乱れた髪を整えながら、「だって」と雄一郎に向けて微笑んでみせた。
「大好きな人と心が通じ合っているんだもの。幸せになった作家は死ぬって、ある意味本当ね」
「……そうか」
「ねえ、それより雄一郎さん。次はいつ会えるの? 私、春休みに入るからいつだって会えるわ」
神奈子が身を寄せる。いつもなら肩を抱き寄せてくれるはずの雄一郎は神奈子の方に視線すら向けず。
「……しばらく、忙しくなる」
それだけ言った。
思えば、その時雄一郎の様子のおかしさに気付いていれば、今頃雄一郎の隣には自分がいたのかもしれない。しかしまだ子供だった神奈子には雄一郎の意図が分からず、忙しくなるというのを鵜呑みにして受け入れてしまった。あの時雄一郎は、もしかしたら寂しがって自分を求めていたかもしれないのに!
次に雄一郎に会ったのは、二人で何度も行った喫茶店のあたりだった。
待ち合わせをしていたわけではない。しかし急に電話にも出ず、手紙の返事もくれなくなった雄一郎が心配で、思い出の場所を何度も何度も見に来ていたのだ。
そんな生活を一ヶ月続けていた頃に、雄一郎はその喫茶店の前を通りかかった。……隣に自分ではない女を連れて。
神奈子は泣いて雄一郎に縋った。自分の何が悪かったのか、悪いところがあるなら直すから考え直してほしいと必死に訴えた。しかし雄一郎は立ち止まりもせず、隣に連れている浮気相手の軽蔑するような視線からも守ってくれなかった。
これ以上騒ぐなら警察を呼ぶ。そう言われて引いてしまったのを、今でも後悔している。雄一郎はあの浮気相手に騙されて、本当は助けて欲しかったんじゃないか。自分は雄一郎の理解者として、もっとやるべきことがあったんじゃないか、と。
「……ちょっと、待ってください」
神奈子の独白を、遥が止めた。
「あの……父はその時点で結婚してたって、ご存知ですよね? それなのに、今更……浮気、なんて」
遥の疑問を、神奈子が鼻で笑う。
「……灯里くんには悪いけど、あれは愛のない結婚だもの。雄一郎さんが言ってたんです。映画のスポンサーの娘だったから籍を入れた、って」
遥はちらりと灯里を見る。灯里は眉ひとつ動かしていなかった。
「……なるほど、なるほど。それなら阿藤さんに関するパスコードは、誕生日と……その、お付き合いした日がそうなのかな」
「私もそう思います…一年で別れちゃったけど、二人で記念日だねって言い合ったもの」
灯里はポケットに伸ばした手を一瞬躊躇うようにぴたりと止めた。しかし神奈子から「どうぞ、やってみて」と言われ、頷いてから父のスマホを取り出す。
「私に関する記念日だったら、一番に遺作を読ませてね」
神奈子は目を輝かせてスマートフォンを見守る。灯里が彼女の誕生日を入力すると、拒否するような音と共にもう一度入れ直すよう画面が促してきた。そして、二人が交際を始めた日を入れる、と。
「……開きませんね」
「…………っ、うそ!!」
神奈子の甲高い声が店内に響いた。
「うそ、入れ間違えたのよ、もう一回試してみて!! それか、もしかしたら初めて文通を始めた日かも、初めて電話した日だってあるかも、ねえ、全部試してよ!!」
テーブルから身を乗り出してきた神奈子がスマートフォンを奪いとるより前に、灯里がすっと手に取った。そして、何事もなかったかのようにポケットに入れる。
「……阿藤さん、今日はご足労いただいてありがとうございました」
「そんなこといいから! 早く、試して!」
「…………阿藤さん」
灯里の声が重たくなる。
「父は、大事な日と考えてる日は手帳のカレンダーに印をつけて、何の記念日か書いておく癖があったんです。……でも、あなたの名前があったのは、誕生日だけでした」
阿藤神奈子はそれを聞くと、ぷつんと糸が切れたように椅子に座った。そのまま項垂れて静かに泣く彼女に、遥も灯里も何も声をかけず、支払いだけして店を後にした。
池袋駅まで向かう道はもう夕陽がさしている。夜に向けて賑やかになっていく街並みを歩きながら、遥が。
「……父親って、もしかして最低なのか?」
そう聞くと。
「まあ、ちょっとな」
灯里が呟くようにそう答えた。
「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡




