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怪しい男はよく笑う


 田村(たむら)(はるか)は緊張していた。


「遥、なんて女の子みたいな名前だよなあ。まあ俺が言えた話じゃないけど……あ、珈琲はミルク入れる?」

「あ、いや、いいです。俺は水で」


 遥はそう言うと、テーブルに置かれた革張りメニュー表に視線を向ける。

 何も飲まないのも悪いかもしれないと思ってさっき開いてみたら、珈琲一杯一五〇〇円なんて書いていたのだ。そんなもの、おいそれと頼めるわけがない。

 遥の向かいの席に座る男──神崎灯里と名乗った美青年は「遠慮するな」と言うと無遠慮にメニューを開いて、そこらを歩いていた店員にさらりと珈琲とオレンジジュースを持ってくるよう言いつけていた。黒を基調としたスーツ姿や彼自身の発する謎の色気のようなものも相まって、まるで映画の1シーンのように見える。

 それに比べて自分はどうか。着古して首元がよれたTシャツに、裾が擦り切れたズボン。買った時は真っ白だったスニーカーは靴底どころか靴紐までくすみ、ぼさぼさの頭もにきびが出来たばかりの顔も、自分の容姿どころか存在全てがこの場所……高級ホテルのラウンジなんてところにそぐわないような気がする。

 しかし灯里はそんなことを気にする様子は微塵もなく、店員が持ってきた珈琲を一口、優雅に飲んだ。


「あの、俺こんなの払えませんよ」


 遥は目の前におかれたオレンジジュースを突き返すように、コースターごとグラスを灯里の方にずらす。灯里は一瞬きょとんとした後ころころと子供のように笑うと、目を細めたまま遥を見た。


「払わせるわけないだろ。奢ってやるから、飲んでいいよ」


 ……目の奥に何かを潜ませたような、どこか信用できない男だ。しかしこのオレンジジュースを飲んだからと言って即座に交渉成立──なんて映画みたいなこと、ありえるわけがない。遥はおずおずとオレンジジュースに口をつけた。酸っぱいのになんだかねっとりした濃い味に眉を顰めると、灯里がまた笑った。


「高校生だっけ? 十七歳だから、俺より三つ下かあ。葬式の時は親父に似てると思ったけど、近くで見るとそんなことないな」

「……そうですか」

「葬式、つまんなかっただろ。あんまり盛大にやらなかったからなあ。もっと親父の全盛期だったら芸能人とかきてただろうけど。ああ、知ってる? 古い映画だけど、親父が原作で脚本にも口出したっていう──……」

「あの」


 灯里の無駄話を、遥が遮る。


「今日は何の用なんですか……灯里さん」


 灯里は笑顔のまま、一つ息をついて組んでいた脚をほどく。


「冷たいんだなあ、せっかく仲良くなろうとしてるのに」


 そう言う割にはまったく堪えてなさそうな笑顔のまま、灯里はポケットから一台のスマホを取り出した。画面は真っ暗、装飾もカバーも何もされていないそれを見て、遥は首を傾げる。灯里は遥の頭に浮かんだ疑問に答えるように。


「親父の遺作がこの中にあるけど、パスコードが分からないんだ。それで、君のお母さんに心当たりがないか、それとなく聞いて欲しい」


 そう言った。




 人生に成功と失敗があるならば、自分の人生はきっと失敗している方だろう。田村遥はそう考えていた。

 金に余裕のない母子家庭に生まれ、父親は誰かも分からない。家族の反対を押し切って産んだという経緯があるために親戚には頼りづらく、遥は援助を受ける見込みのない貧しい家の中でひっそりと育ってきた。

 外で遊べば貧乏を友達に揶揄われ、家で遊べば遊び相手が存在しない。それ故に一人で悶々と考え込むような性格になってしまったのだと遥自身は思っている。まあ、母曰く「産まれる時から産まれるかどうか一週間も迷ってようやく決心したような子なんだから、その性格は生まれつき」らしいが。

 貧乏な母子家庭育ち、という己の出自を呪ったことはあるが、母を呪おうとは不思議と思えなかった。産んでもらった恩か、育ててもらった恩か、それとももっと別の感情か。理屈屋で頑固だと自負している自分には珍しく、母に対しては無条件に「自分の存在が負担になってほしくない」と思った。

 だから遥は中学生の頃、高校に行かないで働くことを考えていたが、それを母に打ち明けたら烈火の如く怒られた。あんたに養われるような私じゃない、子供は黙って高校に行け、と。その時はこっちが配慮してやったのになんだその言い草はと大喧嘩になったのだが、結局母の熱量に負けて遥は高校進学を選んだ。今日日高校に行かなければ働き口も少ない、という現実に気付いたことも大きい。

 だからといって生活費と学費で母に負担をかけるわけにはいかない。遥は学校に申請を出して、アルバイトを始めた。母はそんなことしないで勉強に専念しなさい友達を作りなさいと言うが、勉強や友達が一体いつの将来を支える何円になるというのか。遥は学業も青春も疎かに、アルバイトに明け暮れる日々を過ごしていた。

 そんな日々のツケを支払うことになったのは、高校二年生にあがってから。夏休みに入る直前の期末テストである。今までも成績は低空飛行だった遥は、ついに七科目中五科目で赤点をとるというある種の快挙を成し遂げた。担任曰く、史上初だった。

 基本的にアルバイトは禁止、という校則の中、遥が許されていたのは家計が火の車であることとなんとか赤点をとっていなかったことが理由である。それが赤点をとりまくり、呼び出した親が「学費は大丈夫です」と宣言したとなると、答えは自ずと一つになる。遥は全てのアルバイトをやめた。

 こうして遥は友達との予定もない、そもそも友達がいない、追試と補習の予定がぽつりぽつりとあるだけの空虚な夏休みを迎える、はずだった。


 その空虚に石を投げ込んできたのは、父の訃報である。


 ある晩、母がいつになく真剣な顔で「明日お葬式に行くよ」と言ってきたので「誰の」と聞いたら「あんたのお父さん」と言われ、初めて遥は父の存在を知った。いや、生物である以上父が存在していないとおかしいのは分かっていたが、一度も見たことがないために実感が伴っていなかったのだ。

 思考の整理も追いつかないまま遥は制服を着せられて、葬儀場に連れて行かれ、そして入り口で母から香典を託された。参加しないのか尋ねると、「奥さんに見つかったら大事だから」と言われて初めて自分は不倫でできた子なのだと知った。


「あんたのお父さんは結構有名な小説家でね。知ってる? 神崎(かんざき)雄一郎(ゆういちろう)。昔はドラマとかにもなってた……とにかく、その人なのよ。言おうかどうか迷ったけど、父親に会わないままってのもね。ほら、行って来なさい」


 わけのわからないまま香典を受付に渡し、周囲の人間の流れに沿って会場である広間へ行く。周りは自分よりずっと大人ばかりで、時折異物を見るような目を向けてくるのが居心地が悪い。香典は渡したのだから、もう帰ってしまおうか。そう思った時に話しかけてきたのが、灯里だった。


「遥くん、だよね? 美晴(みはる)さんの……」

「母ちゃ……母と俺のこと、知ってるんですか」

「名前だけ。親父の遺品整理の時に戸籍謄本もとってきたから……ごめんね、来づらかっただろ。来てくれてありがとう」


 柔く微笑む姿に、柄にもなくこの男は信用してもいいのかもしれないと遥は思った。自分の父に関する真実やら周囲からの痛々しい視線やら、とにかく遥は不安だったのだ。


「え、ええと、あなたは……」

「あ、自己紹介してなかった。神崎灯里です。神崎雄一郎の長男の」


 目の前の男の立場を聞いて、頭から冷や水をかぶったような心地がした。相手は正妻の子供、自分は浮気相手の子供。憎まれ恨まれこそすれ良い扱いを受けるわけがない。

 途端に身体が強張った遥を見て、灯里はくすくすと笑う。


「いや、いや、そんな構えなくても大丈夫。親父の女癖の悪さなんか暗黙の了解みたいなもんなんだから」


 それはそれでどうなのか、と思う遥に、灯里は笑顔を崩さないままスマホを差し出してきた。


「よかったら、連絡先聞いておいていい?」

「っえ……」

「保険とか、資産とか、まだ全部は整理できてないんだけどある程度遺産がありそうなんだ。親父の子供は俺と君の二人だけだから、俺達で分け合うことになる。面倒な手続きは俺が済ませとくから、また遺産を君に分配できる形になったら連絡するよ」


 浮気相手の子供に相続権なんかあるのか。今まで顔も見たことない自分と分け合うって、あんたはそれでいいのか。そもそもこの男は本当に信用していいのか。

 ぐるぐると遥の頭を巡る不安をかき消したのは。


「まあ、相続税とかで結構削られるだろうけど……ざっと億はいくかな」

「億っ!?」


 裏返った声が会場に響き、一斉に向けられた怪訝な視線に縮こまる。しかし、億は声を出してしかるべきだろう。

 全ての迷いや不安を打ち砕く大きな数字を前に、遥は。


「ば……番号とメッセージアプリ、どっちがいいですか……」


 そう、答えてしまった。それが運の尽きであった。


 一ヶ月ほど経った頃、灯里は本当に連絡を寄越してきて、遥が何か口を挟むより前にとんとんとこの日この時間このホテルのラウンジで、と決められてしまい……今に至る。




 父の遺品というスマホを前に、遥は窺うように灯里を見た。灯里がどうぞ、と言わんばかりに微笑むのを見て、恐る恐るそれを掴む。

 きっと初期設定のままであろう壁紙。そこに浮かぶロック画面には、四桁の数字を入力しろと命令するような丸が四つと、十個の数字が並んでいる。


「多分、何かの日付だと思う」


 灯里が顎を撫でながら言った。


「親父、そういう四桁のパスコードは大体誕生日なんだ。銀行の暗証番号も自分の誕生日。危ないだろ?」

「ならそれで開くんじゃ……」

「それはない。親父が生きてる時にパスコードの変え方を教えてくれって言ってきた時があって、その時に誕生日から変えたはずなんだ」


 灯里が窓ガラスの外を見る。そこに何かあるのかと思って遥もそれに倣ったが、なんのことはない、普通に夏休みの浮かれた空気とそこに馴染んでいる人々がいるだけだった。母親に手を引かれた子供がきゃあきゃあと騒いでいる……その声が聞こえはしないが表情だけで分かってしまうのが、なんだか可笑しい。


「親父があと一年持たないだろうっていわれたのが去年の春先くらいだったかな。膵臓癌でさ、見つかった時にはもう手遅れで。まああとは隠居老人らしくのんびり暮らしてくんだろうと思ったら、急に遺作を書く、なんて言い出したんだ」


 灯里曰く。神崎雄一郎はこの令和の時代に追いつけていない、アナログな人間だった。だから当然遺作も原稿用紙に書いたものを灯里がデータに起こすのだろうという心積もりでいたが、なんとスマートフォンで書くから小説を書くアプリを教えてくれという。理由を聞けば、「これは俺の人生で最高の女に読ませるものであって、大衆の娯楽じゃない」と。父親は昔から言い出したら聞かない、頑固な男だった。灯里は二つ返事で了承して、誰にも進捗を見せない遺作の執筆が始まった……らしい。


「最高の女、っていうのが誰なのか分からない。うちのお母さんの誕生日も入れてみたんだけど駄目だったんだ。まあ、予想はしてたけど」

「それで、なんでうちの母親に……」

「親父が子供まで作ったのは俺と、君のお母さんの美晴さんだけ。美晴さんなら、もしかしたらパスコードに心当たりがあるかもと思ってね」


 なるほど、理にかなっている。しかし、どうしても飲み込めなかった。

 母はこの十七年間、父のことを一度も話してこなかった。きっと母としても苦い思い出なのだろう。葬式に連れて行ってはくれたが、それは息子の自分への誠意のようなものだ。

 言ってしまえば、済んだ話だ。遺作なんてもののためにそれを掘り返して母を揺らすのが正しいこととは、とてもじゃないが遥には思えなかった。


「……お断りします。そんな目的のためにうちの母親を……」

「待った待った。遺産、欲しいんだろ」


 席を立とうとした遥を、灯里の一言が止めた。

 情けない話だが、金は本当に欲しい。ここでこの男の機嫌を損ねて遺産がパアになってしまうことは絶対に避けたい。

 しかしお互いに相続権があるはずだ、この男の裁量一つで自分の分まで奪えるわけが……。


「俺の分の遺産も君に渡すよ」

「……っへ?」


 遥は思わず間の抜けた声をあげた。


「現金化出来る分の遺産は順当にいけば俺と君で半分こ、って形になる。俺はその現金化出来る分を全部君に渡そうと思ってるんだ」

「っな、なんで、そんな……っあんたの父親の金だろ!?」

「今は俺と君の金だ」


 すぱん、と切るような一言に遥の全身から力が抜ける。どさりとソファ席に沈み込んだ遥を見て、灯里は微笑んだまま続けた。


「俺だってもらえるものはもらうよ。でも俺が欲しいのは実家だけ。あの家とおばあちゃん達の仕送りさえあれば、とりあえず大学にいる間は困らないからな」

「でっ、でも親父の遺産を全部っ、俺が!?」

「悪い話じゃないだろ? 一生遊んで暮らせるほどじゃないけど、生活は少しは楽になると思う」


 細められた目がちらりと自分の容姿を撫でる感覚に、遥は思わず灯里を睨んだ。灯里は「ごめん」と言うと珈琲を啜って、もう一度遥に向き直る。


「親父がどんな遺作を書いたのか、親父が言った最高の女って誰なのか、どうしても気になるんだ。協力してほしい」


 遥は迷った。頭の中の天秤に二つのせた。母のこと。金のこと。そして。


「……分かった」


 金を取った。

 しかし。


「だけど、条件がある。母ちゃんに聞くのは最後の最後だ」


 タダで勝たせたわけではなかった。

 今度は灯里がきょとんと目を見開く番だった。


「あんた、言ったよな? 親父は女癖が悪いって……それなら、他にも候補がいて、母ちゃんはその一人なんだろ?」

「……すごいな、当たり。たしかに子供作ったのは美晴さんだけだけど、そんなもんたまたま出来ただけだろうと思ってた」

「最低だな……」


 灯里は「親父の子だから」と笑うと、握手を求めるように遥に手を差し出した。


「分かった。美晴さんに聞いてもらうのは最後の最後。それまでは他の候補に話を聞く。パスコードが分かったら、俺の分の遺産を君に……遥にあげる。それでいいな?」

「……それだと俺に都合が良すぎていやだ、気持ち悪い」

「わがままだなあ」


 灯里がううんと悩むのを見て、遥は自分の夏休みの予定を思い出す。補習、追試、あとは空虚。ああ、自分は今とんでもなく面倒なことを言おうとしているが、何もせずに金をもらう可能性がある方がよっぽど嫌なのだ。


「……俺も、その候補に話を聞く、ってのについていく」


 遥の言葉に、灯里は再び目を丸くした。


「……いいか、俺はまだあんたのことを信用してないんだ。あんたが本当にちゃんと候補とかいうのに話を聞くのか、それで候補とかいうのはちゃんと嘘つかないのか、俺が見に行ってやる」

「……いやいや、まだ高校生だろ。そんな嘘を見抜くとか出来るわけ……」

「でも、あんたが俺に隠し事してるのは分かっただろ」


 灯里は「たしかに」と頷く。


「なら、それ採用で。でもいいのか? 夏休みだろ。予定とか」

「……なんにもないんだよ……」

「はは、それならこの夏は兄弟仲良く過ごそう」


 兄弟、と言われると違和感しかないが、実際そうなのだから飲み込むしかない。


「パスコードは十回間違えるとデータが初期化されるらしいんだ。そしたら親父の遺作は永遠になかったことになる。もう二回間違えたから、慎重にいかないと」

「二回? あんたの母親の誕生日いれて、一回だろ」

「いや」


 灯里があっけらかんと言う。


「お母さんの命日も入れたんだ」


 かくして、遥は高校二年生の夏休みを、会ったことのない父親のために費やすこととなった。

「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡

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