心は内側ひきこもり
遺作は灯里の家で読もうと二人で決めた。刊行出来るような出来だったら、もうそのまま文字起こしにとりかかってしまいたいから、という灯里の希望だった。母の……美晴の家で、遥の出産予定日をパスコードにした小説を読む後ろめたさもあったのかも知れない。
朝一番の電車に揺られる間、二人とも何も話さなかった。オレンジがかった陽光がビル群を優しく照らしていく景色を、ただじっと見つめていた。
家の玄関を開く、というタイミングで灯里がようやく口を開いた。
「……別に、遥は読まなくたって、ちゃんと遺産は渡すから」
遥はふん、と鼻を鳴らして、兄の寂しげな後ろ姿に軽い蹴りを入れてやった。
「俺だって読む権利はあるんだよ。大体、そんな真っ白い顔してる奴一人で読ませられるか」
灯里は焦燥した表情を誤魔化すように、ふにゃりと微笑んだ。
どちらからともなく、何かの流れにのるように、父の仕事部屋に向かう。もし父の遺作を読むのなら、きっと場所はそこしかないと思ったからだ。
本と原稿用紙で作った檻のような部屋。その中心にある、父が好んで使っていたという座椅子を分け合うように二人で腰かけて、スマートフォンを起動した。パスコードを入力し、灯里が入れた小説を書くアプリを開く。
遺作のタイトルは、「遥」だった。
「……読むぞ。勝手にスクロールするから、読み終わってない時は言えよ」
「…………うん」
そして二人は、大作家・神崎雄一郎の遺作を、父が最高の女に遺した物語を、読みはじめた。
遺作は恋愛小説だった。恐らく、恋愛小説だった。
文才だけが取り柄のうだつのあがらない主人公が、人生に絶望して命を経とうとしていたところに無邪気かつ蠱惑的な少女・遥が現れる。遥は主人公を揶揄い、憐れみ、蔑み、煽て、まるで蜘蛛の巣が獲物を捕えるかのように翻弄していく。
二人の関係は恋人にも、母と子にも、主従にも、共犯者にも見えた。一番近いのは、作中に出てきた「きっと同じ地獄に堕ちる仲」という表現だった。
主人公は溺れるように遥に夢中になっていく。遥は海のような深さをもって、そんな主人公を飲み込んでいく。そして、二人は、本当に同じ地獄に堕ちることを選んだ。
誤字や脱字が大量にあった。大作家らしからぬ荒削りな文だった。それでも、その奥底から滲み出る欲の凄まじさは、どんなに目を逸らしたって見なかったことには出来なかった。
遺作には、ちゃんとあとがきまで添えられていた。そこには、妻と灯里への謝罪が書かれていた。
僕はきっと怪物なのだ。生まれついての怪物なのだ。そのことを自覚しないまま、最高の女さえいれば僕も普通の幸せが手に入れられると足掻いて、妻も、息子も、皆を僕の不幸に巻き込んでしまった。とりわけ、灯里からは多くのものを奪ってしまったと思う。母と共に暮らしていた時に、自分はこんな大人にはならないと固く誓ったはずなのに、結局灯里へもっと酷いことをしてしまった。本当に、本当に、申し訳ない。願わくば、僕の生涯が閉じる前に、それだけでも伝えられるように。
「……あは、は」
最初に口を開いたのは、灯里だった。
「なんだ……こんな、あとがきまで書いてたんだ……そっか、そう、か」
白い指が、何かを確かめるように画面をなぞる。灯里はごくん、と息を呑み。
「…………きっと、親父なりに、俺のこと、あ」
「そんなわけないだろ!!」
灯里の言葉を遮ったのは、立ち上がった遥の怒声と、父のスマートフォンが床に叩きつけられる音だった。
板張りの床に傷がつき、ぱたんと倒れたスマートフォンの画面には稲妻のようなひびが入っている。灯里が何か言おうと口を開くより前に、遥は怒りのままに「ふざけんな」とがなった。
「あんなんが愛なわけあるか!! 一人で勝手に悦に浸って、一人で勝手にすっきり死んでっただけじゃねえか!! ふざっけんな!!」
「はっ……遥、落ち着いて」
「はぁ!? お前これが落ち着いてられんのか!? 馬鹿にされてんだぞ、母ちゃんもお前の母親もお前も俺も!! 悔しくねえのかよ!!」
「そんなことない、謝ってくれてるし」
「謝られたからって、愛されてたからって、許していい話じゃないだろ俺達のされてることは!!」
灯里がぐっと下唇を噛んだまま、床に落ちたスマートフォンを拾う。それを見るとまた腹の底からふつふつと怒りが沸いてきて、遥は灯里の胸ぐらを掴んで無理やり立ち上がらせた。
「大体なんでお前は怒らないんだよ!!」
遥の言葉に、灯里がびくりと瞳を揺らした。
「いっつもへらへらして何も気にしてませんみたいなツラしやがって、本当は何も納得いってないからこんなとこまで付き合わせたんだろうが!!」
宥めようとしたのだろう。薄い唇から「あ」とか「う」とか声を漏らしては、何も言えなくてきゅっと結ぶのを繰り返している。遥の怒りは激しさを増すばかりで、額がぶつかりそうな勢いで顔を寄せた。
「分かってるのに見ないふりしてんじゃねえよ、普通こんなことされたら怒るんだよ!!」
「っ、俺に普通がわかるわけないだろ!?」
灯里が、遥に負けない勢いで怒鳴った。
「俺はずっと親父とお母さんの間で生きてきたんだ!! 今でも親父に似た人を見ると体が強張るし、人から触られると吐き気がする!!」
灯里の瞳が涙に潤む。しかしその表情は哀しみじゃなく、怒りに満ち溢れていた。
歳上で、背も高くて、得体が知れない。そんな兄の怒鳴り声も怒りの形相も何もかもがまったく怖くないのは、自分が灯里の深層に触れている自覚があるからだった。
「俺はこれに縋らなきゃ生きていけないんだ!! 遥とは違うんだよ、俺は!!」
「そんなこと言い訳にしてんじゃねえ!!」
胸ぐらを掴む手に力を込める。
「そんなことはどうでもいいんだよ、お前はあんなもん愛だとかなんだとか言って受け入れられるのかって話をしてんだよ、俺は!!」
灯里はひくりと顔を引き攣らせて、そのまま俯いて、はらはらと花びらのような涙をこぼしながら。
「俺だって、親父なんか嫌いだ……」
生まれて初めて、そう言った。
それから灯里は、静かに泣き続けた。時折しゃくりあげながら、流れる涙を拭いもしないで泣き続けた。
遥は帰ろうか迷ったが、帰る理由もないので帰らなかった。どうせアルバイトも出来ない暇な夏休みなのだ。十代の若者らしく時間を浪費してやろう。そう意気込んで、灯里の部屋の本棚から好きに本を借りていいか尋ねると灯里が小さく頷いた。ただしスケッチブックには絶対触るなと言っていたので、嫌がらせついでに見てやったら思っていたよりずっと下手な絵が出てきて笑ってしまった。それを灯里に見つかって少し叱られた。
遥が本を読んでいる間も、家に余っていた食材を全部入れたカレーを作っている間も、それを二人で食べている間も、灯里はずっとずっと泣いていた。たまにしゃくりあげた勢いで咽せるのを聞いて、こいつ泣くの下手だなあと遥はぼんやり思った。
灯里が泣き止んだのは、もう太陽が赤くなって、西の空へ沈もうとしている頃だった。縁側で、生い茂る草木の隙間から覗く夕焼けを眺めていると、灯里が「暑いだろ」と麦茶を遥の手元に置いた。
「いや……草とかのせいだろうな。思ったよりマシ」
「ふうん」
灯里は遥の隣に腰を据えると、まだ赤みの残る目元を隠すように俯いた。その手には、ヒビの入ったスマートフォン……父の遺品が握られている。
「さっき遥が叩きつけたから、多分壊れた。充電器差しても反応しないんだ」
「俺のせいかよ」
「まあ、今回は許してやろう」
叱るような口調の割に、弾む声音はどこか楽しそうだった。
「……泣き終わったのかよ」
「んー……まだ油断するとやばい……」
「あんまり泣くと目ぇ溶けるぞ」
「溶けないよ」
何かおかしかったのだろう。灯里は喉の奥でくつくつ笑う。遥は冷たい麦茶を喉に流し込んで、少しずつ夜の気配を纏い始めた空を見た。
「……親父がさあ」
不意に灯里が切り出した。その声は、もう震えていなかった。
「死ぬ何日か前に、『お前はいい息子だった』って言ったんだ。最悪だよな」
「……俺なんか一目見て捨てられた」
「はは、最悪だなあ」
蝉の鳴く声がどこか遠くに聞こえる。父の初盆が近づいていた。
「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡




