遥か未来を夢に見た
「……遥、寝た?」
真っ暗な部屋の中、不意に灯里が聞いてきた。
「……寝てる」
「起きてるだろ、それ」
くすくすと笑う声が聞こえる。遥がベッドの上で寝返りを打つと、床に敷かれた布団に寝転んだままの灯里が「よいっぱり」と揶揄うように言ってきた。
「お前も起きてるだろ……それで? なんか話あるんだろ」
「うん……結局、美晴さんの誕生日を入れようかどうか、まだ迷ってて」
灯里がのそりと身体を起こして、父のスマートフォンを荷物から抜き出す。もう、あと一回しか失敗できない。そう思うと、遺作の入ったスマートフォンは初めて見た時よりとても重たく見えた。
「……俺も正直微妙だとは思ってる。母ちゃんも、言ってしまえば他の愛人達と同じような扱いだったわけだし」
話の中の父はいつも、少女に向けて性欲と庇護欲が入り混じった、何かどろどろした感情を向けていた。まるで子供が気に入った人形を手に取ってはすぐに飽きたと捨ててしまうような気まぐれさに、阿藤神奈子も由井綾乃も浅木千早も巻き込まれてしまったのだ。そしてそれは、きっと母も。
遥を一目見て帰ったのも、多分期待外れだったからだ。好き勝手にできる娘が生まれたと思ったのに、生まれたのが男の自分だったから。
灯里の話を思い出す。もし自分が女に生まれていたらと思うと──ぞっとした。
「……ごめん。俺、美晴さんに全部話して」
「ほんとだよ。せめて言っていいか確認しろよ。まあ、もう過ぎたことだから別にいいけど」
それに、きっと自分も灯里の立場だったら本当のことを話してしまっていたと思う。
容姿も違う。生まれも違う。育ちも違う。何もかも違うが、自分は一歩間違えばこの男の辛さを全て引き受けていたのだ。
ほっとしたような、そう出来なかったことが悔しいような気持ちに苛まれる。もし自分が、あとほんの少しでも父の期待通りに生まれていたら。灯里の抱える荷物を二人で分け合えたのだろうか。
そう、思った瞬間。
「……っ、誕生日……!」
遥は弾かれるように起き上がった。
「ん? どうした? やっぱり美晴さんの誕生日……」
「違うっ、俺の! 俺の、誕生日!!」
灯里は一瞬ぽかんと口を開いたが、すぐにはっと目を見開いた。
父にとって、遥は。遥という、存在は。
「で、でもいいのか、もし開かなかったら、いや、開いても」
「今更何言ってんだ、ここまで巻き込んどいて! ほら、入れろ、四月十三日!!」
「わっ、わかった」
灯里は震える指で、慎重に、確実に、遥の誕生日を入力する。しかし。
「……開かない……」
二人同時に呟いた。
画面はまた振り出しに戻り、無機質な文字が次のパスコードを試すには六十分待てと告げていた。
「違ったか……絶対これだろって思ったんだけどな……」
「……すごいよ、遥は……。俺なら怖くて、入れられない……」
灯里が自嘲気味に笑う。自分の誕生日で開かなかったら、どうしたらいいのか。そう泣きながら聞いてきた灯里の姿が、脳裏に過った。
「……お前、本当は遺作読みたくないの?」
「…………分からない」
不意に浮かんだ遥の疑問に、灯里が力なく首を振った。
「お母さんの誕生日でも命日でもないって分かった時に、もうほとんど勘なんだけど、絶対俺の誕生日じゃないじゃんって思ったんだ。まあ、息子が『最高の女』なわけないんだけど」
灯里のあぐらは、少しぎこちなかった。子供が大人ぶっているような、少女が青年ぶっているような、そんな不安定さがこの男の得体の知れない雰囲気の根源なのだろう。灯里という男を知っている遥には、ただの脆さにしか思えなかった。
「……だけど、まだ少し期待してる。『最高の女』に捧げる遺作って言ってたけど、少しくらい、ほんの一行でも俺のこと書いてないかなあって……馬鹿だよな」
「……ああ、馬鹿だよ、お前」
遥はもう一度寝転ぶと、星を見るように天井を仰いだ。
「やめだ、やめ。どっちにしたって一時間待たないと新しいパスコードは入れられねえんだ。それならまだ実になるようなこと考えた方がいい」
「実になることって?」
「遺産の使い道とか……」
遥は目を閉じて想いを馳せる。億を超える大金。果たしてどう使うのが有意義か。
「……決めた、マンション建てる。場所は麻布台! 夢の不労所得だ!」
「……親父の遺産じゃ足りないんじゃない? 土地代も、マンション代も」
「嘘だろ!?」
億でも足りないとは、世の中はなんと世知辛いものなのか。なんだか急に父親の遺したものがちっぽけなものに思われて仕方がない。
「そうしたら普通に生活費だな……ああ、焼肉は食いたい」
「あ、いいなあ。俺も行きたい」
「お前また変に高いの想像してるだろ。五千円で食べ放題くらいのでいいんだよ」
「俺だってそのくらい行ったことあるよ。その、大学の飲み会とかで……」
「つまり家族で行くのはとんでもなく高いとこだったってわけか。ボンボンめ……」
焼肉も食べたいし、回転寿司も行きたいし、そういえば遊園地や水族館なんてものにも縁がなくてほとんど行ったことがない。もしかしたら全部手に届くのかもしれないと思うと、不謹慎だが、柄にもないが、なんだかわくわくしてきてしまった。
「……俺、あれもやりたいなあ、キャンプ。飯盒でご飯炊いて、カレー食べるんだ」
それは灯里も同じらしく、気怠げに布団に寝そべると、眠気を含んだ甘い声でそんなことをぼやいた。
「お前無理だろ、虫とか出るんだぞ」
「大丈夫大丈夫、昔だんご虫飼ってたから」
「あー……俺も飼ってたわ、ガチャポンのボールの中で……」
二人同時に、瞼が重くなっていくのを感じる。
だんだんもやがかかっていく意識の中、金があったらすることがたくさん浮かぶ。なぜかその中には、必ず灯里の姿があった。
その夜、遥は夢を見た。
夢の中の自分はまだ幼い子供で、そのくせに一生懸命難しそうな本を読んでいた。それが父の書いた本なのかは分からない。ただ、誰が書いたかなんてどうでもいいと言わんばかりに、難しい文字に必死にかぶりついていた。
「……ここはね、シェイクスピアを知ってるともっと面白くなるんだよ」
隣にはなぜか、灯里がいた。
灯里も子供の姿だった。だが、写真で見た女装姿ではない。今とあんまり変わらない格好をして、遥に本の読み方を教えていた。
「偉そうにいうなよ、俺だってちゃんと読んで、考えれば分かったんだ」
遥が舌足らずに、しかししっかりと反論すると、灯里はころころと鈴を転がすように笑う。
「そうだね、遥は考えるのが好きだから」
優しく目を細める笑顔は、なぜか母のそれに似ていた。
「だから、一週間も悩んでから生まれてきたんだもんね」
母が小さい頃から何度も遥に向けて言ってきた台詞。それは驚くほど、灯里の口に馴染んでいた。
「……っあ…………」
寝言に近い自分の声で目を覚ます。空はようやく白みはじめたあたりで、遠くの方に夜と朝の境目が見えた。
遥はのそりと起き上がり、灯里を見る。灯里はまだすうすうと規則正しい寝息を立てていて、その枕元には父のスマートフォンが転がっていた。
「……おい、灯里、灯里」
「んぇ……」
遥が灯里の肩を軽く揺すると、灯里がきゅっと眉間に皺を寄せながら目を開く。
「遥がだんご虫百匹持って帰ってくる夢見た……」
「どんな夢見てんだお前……」
怠そうに起き上がった灯里はまだ眠気が残っているらしい目をこすりながら、「どうした?」と遥に聞いた。
「……パスコード、入れるぞ」
「へ……なんか思いついたの」
「…………俺の、出産予定日」
遥はそう言うと、灯里が差し出してきたスマートフォンを受け取って、息を呑んだ。これで開かなければ、もう遺作は永遠に読めなくなる。
だけど、もう試さずにはいられない。
遥はゆっくりと、一つ一つ踏みしめるように数字を打っていく。誕生日の一週間前。「遥」が生まれるはずだった日。
スマートフォンが、開いた。
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