勝手な男にさようなら
灯里はぽつぽつと、自分と遥の出会いと今何をしているかを母に語った。自分の過去についてはさすがに隠していたが、それでも父と灯里の間にただならぬ何かがあったのは、はたから聞いている遥にも伝わってきた。
「……それで、父のスマートフォンのパスコードは、もしかして美晴さんの誕生日なんじゃないかと思って……」
手をつけていないビールの缶から、つぅ、と水滴が垂れる。それが水溜まりを作っているのを見ながら、母はもう空になったビールの缶をゆらゆらと揺らした。
「灯里っていう、男の子が来るって言った時にね。ああ、もしかしたら、って思ってたんだよね。そしたらなんか、育ちが良さそうな子が来たから、多分先生のところの息子さんだろうなあって」
母が父のことを語るのは、父の葬式以来である。だが、その時も母は父のことを「あんたのお父さん」と呼び、母としての顔を見せながら父の人物像をさらりと語っただけだった。だから、女の顔を見せながら父のことを「先生」と呼ぶ母なんていうものを、遥は初めて見た。
まるで知らない女のような母は、まっすぐ灯里の方に目を向ける。
「……遺作ね。あたしが『最高の女』の可能性は、可能性だけはあると思う」
意志の強さを孕んだ瞳を、一度も揺らさず。
「でも、あたしの誕生日は入れないで」
そう言った。
「……っえ」
声を上げたのは、遥の方だった。
「なんでだよ、単に誕生日入れるだけだろ!」
「……っ、遥にも……灯里くんにも、悪いとは思うんだけど……」
母は苛立ちを隠すように頭を抱える。
「……あたしは、生まれたあんたを一目見て捨てたあの人を許せない。開かなかったら別にいいけど、もし開いたら、って思うと、腹が立って仕方がないのよ……」
遥が「でも」と言いかけたのを、灯里が「いいよ」とやんわり止めた。
「……美晴さんの気持ちは、当然だと思います」
「…………ごめんなさいね、灯里くんは何も悪くないんだけど」
「いえ……遺産をちらつかせるなんて卑怯なことをして遥くんに近付いたのは、俺の方ですから」
大人の間で静かに、なあなあに、話が終わろうとしている。遥はそれを見て、腹の底からぐつぐつと何かが湧き上がるような錯覚を覚えた。一言で表すと──「ふざけるな」という気持ちだった。
遥は二人の間にだん、と麦茶を置くと、灯里の隣に身を投げ出すようにして腰掛ける。いつも、愛人相手に話を聞く時にそうしているように。
二人が目を丸くするのも気にせず、遥はふんぞり返って鼻を鳴らす。
「……父親と何があったのか、話せよ」
「……遥、美晴さんは」
「母ちゃんがどうだって関係ないだろ!」
灯里の制止を振り切るように怒鳴る。
「俺は勝手に母ちゃんの誕生日入れることだってできるんだ。でもあと一回しか失敗できないのに、何も分かってない状態で入れたくない」
母の瞳が初めて揺れる。
「俺には聞く権利があるはずだ。俺だって父親の息子で、母ちゃんの息子なんだから……っ、聞かせろよ、なんだよ、一目見て捨てたって」
遥に気圧されるように、母は目を逸らす。しかし、逃げられないと分かったのか、その目をもう一度遥と、灯里の方に向けると。
「……先生があたしをどう思ってたのかは、今でもよく分からないのよ」
そう、語り始めた。
遥の母──田村美晴が神崎雄一郎と出会ったのは、十九年前の冬。まだ十九歳だった美晴が店員として働いていた書店に、雄一郎が来たことがきっかけだった。
当然、客としてではない。数年ぶりの完全新作を記念したサイン会のためである。サイン会開催前から店全体で気合を入れて準備をしていたし、雄一郎の書く話も不安定な若者が揺れ動く繊細な話が多かったから、美晴はすっかり「神崎雄一郎というのはとてつもない美丈夫なのだろう」と思っていたら熊のような男がのっしのっしと歩いてきて拍子抜けしたのを覚えている。
「先生、お待ちしていました! さあ、外は寒かったでしょう、こちらに」
「……ん……」
横柄で無愛想。なんとも大作家のイメージ通りの雄一郎に、美晴は住む世界が違う人だなと思いながらその日の仕事をこなした。
そして、仕事から帰る時。
「……あ」
書店の裏口で、雄一郎がぼんやりと立っていた。その視線の先にはしとしとと外の世界を濡らす冬の雨。あとから考えてみればただ迎えの車を待っていただけなのだろうが、その時の美晴は若く、愚かで、「大作家が雨で帰れなくて困っている」と思い込んでしまった。
「神崎先生、これ」
美晴は何の気無しに折り畳み傘を取り出した。
「……は」
「それ、持ってっちゃっていいですよ。私どうせ自転車だから。今日はサイン会ありがとうございました」
美晴はそれだけ言うと、雨の降る中を自転車で走り出した。さすが、冬の雨というのは冷たさが身に染みる。自分はともかく、あの不健康が服を着て歩いているような大作家は風邪をひいてしまうだろう。うんうん、いいことをした。そう思いながら、美晴は帰路を辿った。
それから数日、美晴が雄一郎に傘を貸したことなんかすっかり忘れた頃。
「田村さん、君に用事があるって方が……」
「へ? お客さんですか?」
「い、いや……それが……」
神崎雄一郎は、律儀にも傘を返しにきた。
書店の奥にある店員用の休憩室に通された雄一郎は居心地悪そうにパイプ椅子に座ると、綺麗に畳まれた折り畳み傘を机に置いた。
「そんな、よかったのに。あの時は大丈夫でしたか」
「……すぐに車が来た」
「あ、ああ、そっか」
美晴はこの時自分の優しさが余計なお世話だったことを知り、途端に恥ずかしくなって逃げたくなった。しかし、雄一郎はもごもごと言い淀むように唇を動かすと、今度は映画のチケットを懐から取り出した。
「なんですか、これ?」
「……謝礼だ」
「二枚とももらっていいってこと?」
「…………」
「え、二人で? 先生と、あたしで?」
雄一郎がふい、と目を逸らす。その態度が、どんな言葉より雄弁に語っていた。
「……いつにします?」
神崎雄一郎は普通の男だった。
表情にこそ出にくいものの、冗談を言えば軽く笑い、気に入らなければ眉を顰め、嫌いなものを語るときは饒舌なのに、好きなものを語るときは不器用な、どこにでもいる普通の男だった。
「何、シェイクスピアも太宰も読んだことがない? 古典に触れないで僕の小説を読むのは米のない寿司を食べるようなものだ」
「何それ、先生の小説は大トロみたいなもんってこと? 大きく出たね」
「そういう問題じゃない。まだ高校生だろう、教科書に載っているものでもいいから──……」
「え、先生。あたしもう十九だけど」
何度か会った後に知ったことだが、雄一郎は美晴のことをまだ学生だと思っていたらしかった。童顔に化粧っけのない顔、中学生の頃から何一つ変わらない服装。まあ、雄一郎の気持ちもわかる。だからあれこれ教えてやろうと息巻いていたのかと腑に落ちた。
「……それでも大学生だろう」
「大学なんか行かないよ。お金ないもん。食ってくのが精一杯なの、先生とは違うの」
美晴の希望で、二人が会うのは決まってチェーンのファストフード店だった。恋人でもない男に金を出させたくない、という美晴たっての希望だった。
金持ちの雄一郎のことだ。きっとこんな貧乏人の店は嫌がって、すぐに自分と会うのをやめてしまうに違いない。そう思っていた美晴だったが、雄一郎は案外すんなりとこのファストフード店での逢瀬を受け入れた。
「僕だって生まれた時から大作家なわけじゃない。近所の焼肉屋の匂いを嗅ぎながら握り飯を頬張るような生活をしたことだってあるんだ」
「ああ、それ。あたしは今でもたまにやるよ。焼肉のたれとかご飯に仕込んどくと美味しいよねえ」
不義の恋だと分かっていた。住む世界が違うと分かっていた。それでも雄一郎と過ごすこの時間が愛しくて、大切で、手放すことが出来なかった。
一線を超えたのは、美晴からだった。
「先生が好きなの」
バレンタインの夜。いつものファストフード店に雄一郎を呼び出して、目を合わせないままそう言った。
安月給の自分が奮発して買ったチョコレートは、妻や他の女からもらうそれに比べたらきっと見劣りするだろう。少しでも魅力的に見せようと着てきたワンピースも、履いてきたヒールも、引いてきたルージュも、きっと雄一郎の周りのどんな女より、自分が一番劣っている。
そんなことは分かっている。分かっていたのだが。
「返事はいらないの。知っておいてくれたらいいの。ごめんね、先生。困るよね」
震える声でそう呟いて、店を出ようと立ち上がる。歩き慣れないヒールで踵を返した、その時だった。
雄一郎の手が、美晴の手を掴んだ。
「……場所を、変えよう」
「せん、せい」
「…………僕達はきっと、もっと話をするべきだ」
この世界に、二人しかいないみたいな夜だった。
何度も何度も確かめ合うように掌を重ねた。雄一郎の体温や匂いが自分にうつるたびになぜか涙が溢れ出て、雄一郎がそれを拭う仕草がなんとも不器用で、可愛らしくて、愛おしくてたまらなかった。
「……今度、読ませたい本を持ってくる。君はもっと教養をつけるべきだ」
「……じゃあ、その時は私も先生が知らないような話持ってくるね」
手を繋いだままベッドで一夜を明かした夜を、きっと生涯忘れることはないだろうと美晴は思った。
いわゆる不倫関係になった二人だったが、やることも行くところも関係を持つ前と何ら変わらなかった。
「先生におすすめの漫画持ってきたよ。多分好きなやつだから読んでみてよ」
「漫画なんか低俗だろう」
「出た、偏見。創作者はインプットの幅を狭めちゃいけないんですよ。これは本当に頭空っぽにして読めるから、見てみて」
駅前のファストフード店で待ち合わせて、二人で互いに読ませたい本や漫画を持ち寄って、心ゆくまで感想を言い合ったら、たまにホテルへ寄る夜があって。住む世界が違う。不義の恋なのは分かっている。それでも美晴は、こんな日々が少しでも長く続けばいいと、本当にそう思っていた。
思っていた、が。
「……うそぉ……」
妊娠検査薬にくっきりと浮かび上がる赤い線を見て、美晴は自宅のトイレの中でそう呟いた。
迷いはなかった。避妊はしていたが、こうなる可能性は考えていたから。だから美晴はすぐに雄一郎を呼び出した。
「先生、あたし子供出来たわ」
美晴があんまりにもあっけらかんと言ったせいか、雄一郎の方が追いつかずに間抜けな声を上げた。
「あ、大丈夫。結婚しろとか言わないから。でもお金はちょうだい。言っとくけど、堕ろすつもりないからね。あたしが一人で産んで一人で育てるから、先生は」
「す、すっ、少し待て!」
雄一郎が震える声で止めた。
「……子供、子供か? 君と、僕の……君の」
「……うん、そうだよ」
まだ混乱している様子の雄一郎は深い深いため息をついて、悩ましげに眉間を揉んだ。この男が何を言っても関係ないと思っていたが、ここまで思い悩まれると苦しいものがある。美晴が不安げに自分の腹をさする。すると。
「…………性別は、まだ分からないんだろう」
雄一郎は、焦燥と高揚の狭間のような声で言った。
美晴がきゅっと唇を結ぶ。涙が出そうなのは、嬉しいからだ。この人も、この子が生まれてくるのを当然のように受け入れてくれたことが。
「うん、まだ……まだ、すっごくちっちゃいからね。どっちかなんて分からないよ」
「……分かった。名前を考えておくから、今日はもう身体を冷やさないように、まっすぐ帰りなさい。送っていこう」
帰り道、とんでもなく蒸し暑い中、雄一郎が何度も何度も「寒くないか」「体は冷えないか」と気にしているのがおかしくて、美晴は伝える前の不安が嘘のように笑った。
それからは、毎日が粉砂糖にまぶされたように甘い日々だった。
悪阻は辛かったけれど、雄一郎が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて乗り越えた。日に日に大きくなっていくお腹に何度も何度も「遥、遥」と声をかけていた。赤ん坊の向きが悪いとか何とかで性別が分からなかったから、どちらでも困らない名前にしたのだと雄一郎が言っていた。時折、雄一郎の家に残された正妻とその息子のことを考えて罪悪感でぼろぼろと涙がこぼれたが、雄一郎がそっとそばにいてくれたからなんとか耐えられた。
幸せだった。たしかに幸せだったのだ。
あの日までは。
遥は予定日を過ぎても生まれてこなかった。
最初は何日かずれるのは珍しくないと言われたしと気楽に構えていた美晴だったが、予定日から一週間も経ちそうになってくるとさすがに焦る。産科医に相談したら「じゃあ、陣痛促進剤使いましょうか」と軽い調子で言われた。
そうやって数時間の奮闘の末に生まれた我が子は、おぎゃあと元気よく泣いた後「どうして産まれるかどうか考えてたのにそれを邪魔して外に引っ張り出したのか」と言わんばかりに美晴を睨め付けた。その不満げな顔が雄一郎そっくりで、美晴は思わず分娩室で大笑いしてしまった。
少し眠って、落ち着いて、雄一郎に連絡した。無事に生まれた、と。そうすると雄一郎は話も終わっていないのに電話を切って、すぐに病院に駆けつけてくれた。
「美晴……っ遥!」
雄一郎がやってきたのは、ちょうどぐずる遥をあやしている時だった。遥は父親の来訪なんか気にもせず、不満そうに顔を顰めたままずっと美晴の腕に揺られていた。
「あ、ああ……無事に生まれたのか、よかった……よかった……」
雄一郎がよろよろと少し不安な足取りで近づいて来る。美晴は産んだのは自分なのにまるで雄一郎の方が産んだような顔をしているな、と思って頬が緩んだ。
「そう、今朝生まれたの。心配したよね、一週間も待たせるんだもん」
「そうか……遥、僕が分かるかい」
「まだ分かんないよ。あたしのこともよく見えてないんだって」
「なのにこんなに睨みつけてくるの」と雄一郎に見せてやると、雄一郎が目を細めて笑った。
美晴が遥を優しく揺すりながら。
「男の子は母親に似るって言うけど、この子は先生似だね」
そう言うと。
「…………男、だったか」
雄一郎が、ぽつりと呟くように、言った。
「うん。あ、大丈夫だよ。先生が買ってくれたベビー服、可愛いの多いけど、赤ちゃんのうちはちゃんと着せれるのばっかりだから」
「……そうか」
「でも新鮮だなあ、うち男兄弟いないから……大きくなったら二人でキャッチボールとかするのかな? ふふ、先生キャッチボール下手そう」
「…………そう、か」
その後、雄一郎は仕事がある、とふらふらと帰って行ってしまった。違和感はあったが、忙しいのだろうとさして気にもしていなかった。
それから数日。遥と共に退院した美晴の家に、雄一郎からの手紙が届いた。
遥を一緒には育てられないこと。金なら言い値を払うこと。もう一度子供を作るのであれば、また会えること。そんな、世迷言のような手紙を、美晴は破り捨てた。
「っ……遥、大丈夫。大丈夫だよ。あたしがちゃんと育ててあげる。寂しくないよ、大丈夫、大丈夫だからね……」
遥に言い聞かせてるのか、自分に言い聞かせてるのか、もはや分からなかった。
岐阜の実家に連絡をとってみたが、そんな子供は養子に出して実家に帰ってこいと言われたので縁を切った。遥に苦労をさせるとは分かっていたが、一瞬でも遥の存在を否定した人間のそばに遥を置きたくなかった。
至らない親だったと思う。プライドなんてかなぐり捨てて金をもらっておけばよかったと思う。それでも立派に育ってくれたことを、誰よりも遥に感謝している。だからこそ。
「……あたしは、先生のことが許せないの」
ビールの缶が潰れるほど強く掴んだ母の姿は、今まで見たことがないほどに弱々しかった。
聞き出してしまった。母の知られたくなかった部分をこじ開けてしまった。遥は罪悪感に揺れそうになったが、灯里が背筋を伸ばしたまま目を逸らさなかったのを見て、自分もそうした。
「……話しづらいことを、ありがとうございます」
灯里が深々と頭を下げると、母はようやく笑った。
「いいのいいの。あたしも、どっかで話さないとって思ってたの。それが、今日だったの」
母は「さて」と立ち上がると、遥の部屋の方に視線を向ける。
「布団敷こうか。もう遅いもんね」
気付けば、もう時計は零時を指していた。
「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡




