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きみが育った愛の中

 遥が玄関のドアノブを捻ると、今日は仕事が早上がりだったらしい母がすでに鍵を開けて待っていた。「ただいま」と声をかけると、奥の台所の方から母がひょこりと顔を出す。


「おかえりー、遥。その人がバイトで一緒だった友達?」


 灯里はびく、と肩を揺らすと、一瞬目を泳がせた後に「お邪魔します」と会釈した。


 なぜ灯里が遥の家にやってきたのか。話は数時間前に遡る。

 自分と父親の関係を洗いざらい話した灯里は、卓袱台に突っ伏して静かに泣いていた。それを見て、遥は迷った。迷ったが、決断した。


「……お前今日うち来い、泊まれ!」

「っへ」


 灯里が涙でぼろぼろの顔をあげるのと、遥が立ち上がるのが同時だった。遥は自分のスマートフォンを取り出すと手早く母親にメッセージを送り、まだ混乱している灯里に向き直った。


「ほら、さっさと準備しろ! 枕変わったら眠れないとか言うなよ」

「え、あ、いや、なんで」

「お前なんかこのままほっといたら死にそうなんだよ!」


 遥だって、本当に灯里が突発的に死ぬんじゃないかと思っているわけではない。しかしこのまま放っておくのは、どうしてもできなかった。理由はまったく分からないが。


「い、いや、俺は美晴さんに会うわけには」

「父親の正妻の子供です、なんて言って突き出すわけないだろ。俺のバイト先の友達って言ってあるから、話合わせろよ」

「えっ、でも親父が死んだ時電話したし、声でわかるかも」

「そんな一回話しただけの奴の声なんか覚えてるわけねえだろ!」


 遥は半ば強引に灯里を立たせると、げしげしと脛を蹴りながら無理やり準備させて家から連れ出した。

 灯里はずっと不安げに「本当にいいのかな」なんて言っていたくせに、結局こうして家に上がっているんだからきっと一人でいるのも嫌だったのだろう。涙の痕は残るもののすっかり赤みの引いた頬を見て、遥は安堵と呆れの中間のようなため息をついた。


「まあ、座って座って! 灯里くん、だっけ? 自分の家と思ってくつろいでいってね」

「は、はい」


 案の定、母は灯里の声なんてまったく覚えていなかった。何も気にしてないような様子で灯里に安物のお茶を出すと、遥一人でも狭い台所に「あたしが作るから」と乱入してくる。


「お友達遊びに来てるんでしょ? 今日は特別ね」

「いや、俺が当番だし……ああ、そうだ」


 台所からちょいちょい、と遥が手招きすると、灯里が恐る恐る寄ってきた。


「母ちゃんが休んでろよ。こいつと俺で作るから」

「えっ!?」

「ちょっと、あんた、お客さんよ!?」

「いんだよ、こいつ自炊覚えなきゃなんだから」


 遥が「ほい」と卵を渡す。


「それ割って混ぜといて」

「わ……分かった。この皿に出しといたらいい?」

「ちげえよ、こっちの計量カップ」


 ちんまりとした台所に灯里が来たことでやんわりと弾き出された母は、「ええ」と何か言いたげにしながらものそのそと居間に戻っていった。


「じゃあお任せするけど……灯里くん、この子口悪いからね。嫌なこと言われたら顔引っ叩いていいからね」

「えっ、ええ?」

「あー、気にすんな気にすんな。母ちゃん誰にでも言うから、それ」


 遥が手際よく冷蔵庫の中に残っていた野菜くずを切る隣で、灯里がもたもたと卵を割る。


「っわ、殻入ったかも、どうしよう」

「別にとれば食えるんだから大丈夫だって。混ぜ終わったら米と混ぜて」

「わ、分かった」


 二人の後ろ姿を見ながら、母が「なんか弟が出来たみたいね」と笑う。本当は逆なのだが。そう思って灯里の方を見ると、灯里もちょうど同じことを考えていたのか気まずそうに遥に「ごめん」と言うので思わず笑ってしまった。


 灯里の協力を得て……といっても子供の手を借りた程度だったが、それでも出来た炒飯は、いつもよりなんだか不恰好に見えた。


「ごめんなさいね〜、急だったから家に何もなくて。もっと早く知ってたらケーキくらい買ってきたんだけど」

「別にいいって!」

「は、はい。ほんと、お構いなく」


 嘘をついてる罪悪感からなのか、訃報の電話を入れた時によっぽど何か言われたのか。灯里はどの愛人を前にしている時より緊張しているように見えた。そっと手を合わせると「いただきます」と小さく呟くように言って、炒飯を一口食べる。


「あ、おいしい」


 思わず漏れたような一言に、母が「でしょう」と得意気に言った。


「遥は昔から炒飯作るのはあたしより上手いのよ! 将来は炒飯屋さんになるのかなって」

「炒飯屋ってなんだよ、限定的すぎるだろ」

「んはっ」


 何がそんなにおかしかったのか、灯里がくすくすと肩を震わせる。それを見て母が調子にのってまた変なことを言おうとしていたので、遥は慌てて止めた。


「えっ、灯里くんってあそこの大学の学生なの!? 遥、おいで! 皿洗ってないで、灯里くんに勉強教わりな!」

「うるせえな聞こえてたよ! ……お前そんな頭いいとこ通ってたの?」

「ま、まあ……家から近かったし……」


 たった数時間。夕食を食べてその片付けをするまでの間に、母は灯里のことをするすると引き出した。

 父がどうとか、過去がどうとかではない。灯里がどこの大学に通っていてどこに住んでいて、暇な時は何をして、将来は何をしたくて、何が好きで何が嫌いか。

 遥が知らなかった灯里の輪郭は、今日初めて会わせたはずの母親にすっかり暴かれてしまったのだった。


「へえ、じゃあ灯里くんは校正の仕事に就きたいって思ってるんだ。いいね、知り合いにも何人かいるけどフリーランスだと足取り軽くていい感じだよ。静岡とか三重とか静かなとこに住んで悠々と仕事してさ、憧れるなあ」

「いや……多分俺は東京から離れられないと思いますね、旅行とか以外で出たことないし」

「そうなの? まあ大学生なら……あ、もうこんな時間じゃん。灯里くん、お風呂入っちゃって」

「へっ、あ、はい」


 母の言葉に背中を押されるように灯里は浴室へ行って、居間にはもう風呂を済ませた遥と母だけが残された。


「……あんた、うんうん聞いてたけど灯里くんのこと何も知らなかったのねえ。なんで仲良くなったの」

「……バイトの話しかしなかったんだよ、基本」


 嘘はついていない、嘘は。母は「ふうん」と言うと、風呂上がり二本目のビールを冷蔵庫から取り出した。


「でも、あんたがあの子と仲良いの分かる気がする。あんたは昔からこう、頑固で考え込むタイプじゃない。それなのに急に爆発したりして、扱いづらいもん」

「悪かったな……」

「でも灯里くんは、良くも悪くもさらっと流してくれるっていうか、受け入れてくれるっていうか……大人なのね。大学生なのに」


 遥の脳裏に、父の幻影が浮かぶ。書影や遺影、そして話の中でしか知らない父は、遥と同じようにむっつりと黙って顔を顰めていた。


「……あいつからしたら、俺って怖いんじゃないか」

「怖くはないでしょ」


 母が即答で否定した。


「怖かったら家まで来ないだろうし、一緒に炒飯も作らないわよ」


 それもそうか。母の言葉は驚くほどすとんと腑に落ちた。


「最近こそこそ連絡してたの、あの子でしょ。変に隠さないで教えてくれたらよかったのに」

「……色々あんだよ」

「色々って何? 何のバイトで会ったのか、まだ教えてくれてないこととか?」


 遥は沈黙を選んだ。母は「いいけどね」と言うとビールを一口飲んだ。


「あんたに友達が出来たっていうのが嬉しいからね」

「……友達、っていうか……」


 遥が言い淀んでいると、灯里が「ありがとうございました」と濡れた髪のままおずおずと居間へやってきた。


「ああ、タオルの場所わかった? やっぱり遥のジャージじゃつんつるてんねえ、脚の長さが全然違うから」

「うるせえな……」

「お客さん用の布団ないから、遥の部屋に冬用の布団敷いてタオルケットかぶって寝てもらう感じになるけどいい?」


 灯里が「はい」と小さな声で頷くと、母は立ち上がって、今度はビールを二本持ってきた。


「灯里くんも大学二年なら飲めるでしょ」

「あ、はい。じゃあ、いただきます」

「遥は麦茶ね。自分で注ぎな」

「分かってるって……」


 かしゅ、と缶の蓋が開けられる音を背中で聞きながら、遥はととと、と麦茶を注ぐ。


「今ね、遥に灯里くんとどうやって会ったのかって聞いてたの。あの子まったく教えてくれないから」


 もう少し酔ってるのか、いつもより柔らかい口調でそう言う母に、灯里は。


「……俺から、息子さんに連絡を取ったんです」


 耐えきれなくなったように、漏らした。


「……父の……神崎雄一郎の、遺産と、遺作の件、で」


 遥は馬鹿、と言おうとしたが、灯里の震える肩を見ると何も言えなくなった。母は何でもないようにビールをまた一口飲むと。


「うん。なんとなくね、そうじゃないかなって思ってた」


 さっきと変わらない、優しい笑顔のままそう言った。

「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡

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