未だざらりと胸を刺す
夏本番を目前に控えた朝。神崎灯里はいつも、肌膚を撫でる不快感で目が覚める。
冷房をきかせてるのに誤魔化せない、生温い空気。身体中にべっとりとまとわりついた汗の感触。やけに遠くに聞こえる蝉の声と、頭の裏に反響する息遣い。
もう父親はいないのに、何年も前にあれは終わったのに、未だ何かが身体に残っているような気がして胃液が込み上げた。
昔はいちいちトイレで吐いていたが、今はそんなことしなくたって大丈夫と知っている。のそりと起き上がって、すっかり大人の男らしくなった胸板に手を置いて、深呼吸を一回、二回、三回。脳と肺が徐々に酸素を取り戻し、寝起きの頭が冴えていく。
自室の時計に目をやると、もう11時だった。二限には間に合いそうにない。必修ではない講義だから別にいいかという気持ちと、学費を出してくれている祖父母に申し訳ないという気持ちを天秤にかけ、前者が買った。別に卒業さえしてしまえば誰からも文句を言われる筋合いはないのだ。
伸びをして、枕元のスマホを手に取る。「菫田出版・木更津」と書いた人物から着信が入っているのに気付いて、一瞬迷ったが掛け直した。前から何度かやり取りはメッセージアプリかメールがいいと伝えているが、五十を超えた彼にそれを強いるのは酷な気がしたからだ。
二回のコール音の後、「ああ、灯里くん?」と編集者特有の朗らかなのに若干こちらを見定めるような声音が聞こえてきた。
「木更津さん。お世話になってます」
「折り返しありがとう。今日は大学は?」
「休講なんです。それで、かけてきたのってもしかして親父のスマホのことですか?」
灯里の問いに木更津は少し気まずそうに「ああ」と答えた。
「業者に問い合わせてみたんだが無理だった。パスコードを無理やり開く、なんてことはシステム的にもプライバシー的に出来ないらしい」
「はは、変な話ですよね。もう親父死んでるのにプライバシーって」
明るい声を咎めるように、木更津が重々しく「灯里くん」と言った。
「……とにかく、先生のスマホは一度君に返すよ。パスコードは十回間違えたらデータが初期化されるそうだから、もし中身を見たいなら慎重にね」
「やっぱり気になりますか? 親父の遺作」
「そりゃあ、僕は神崎雄一郎のファンだから。先生が『自分の人生における最高の女に捧げる』って宣言した小説なんて、読みたいに決まってるよ」
灯里の口元から乾いた笑いが漏れる。
「……分かりました、色々ありがとうございます。それじゃあ今日、そっちに伺ってもいいですか?」
「ああ。昼には会社に戻れるから、カフェテラスで待ってるよ。君の家からしたら大したことない豆だろうけど、珈琲くらいならご馳走してあげられるからさ」
「そんな、いいのに」
「いいのいいの。これはご愁傷様って意味もあるんだ。大変だったね、灯里くん。急にお父さんが亡くなって、喪主までして……」
可哀想だと言いたげな声に、灯里はもう一度深呼吸を繰り返してから。
「……大丈夫ですよ」
そう答えた。
「好きだな」って思ってくれたらお好みの形で好き♡を伝えてくれるとうれしいです♡




