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月の裏側で君を待つ

作者: 月野 理緒
掲載日:2025/10/28

私が七瀬蒼ななせあおいと初めて会ったのは、誰もいない深夜の図書館だった。


午前二時。本来なら閉館しているはずの大学図書館の四階、天文学書架のコーナー。私は卒論のために忍び込んでいた――正確には、バイト先の先輩から借りた非常階段の合鍵を使って。


「あー、ダメダメ。この計算式、三行目で既に破綻してる」


突然聞こえた声に、私は心臓が止まりそうになった。


書架の影から現れたのは、見たこともない男子学生だった。黒い前髪が目にかかるくらい長く、白いシャツの袖は肘までまくられている。手には分厚い天文学の専門書を三冊も抱えていた。


「誰……?」


「質問を質問で返すのは、天文学的にも哲学的にもフェアじゃないよね」


彼は私の問いかけを無視して、書架に本を戻し始めた。その指先が本の背表紙をなぞる動きが、なぜか音楽を奏でているように見えた。


「ねえ、聞いてる? あなた、こんな時間に何してるの?」


「月の裏側を探してる」


「……は?」


「だから、月の裏側」


彼は振り返り、私の目をまっすぐ見た。その瞳は図書館の薄暗い照明の中でも、妙に透明で、吸い込まれそうだった。


「地球からは絶対に見えない、月の裏側。でも確実に存在している。そういうものを探してるんだ。ここには、そのヒントがあるかもしれないから」


意味が分からなかった。でも、彼の真剣な表情は、ふざけているようには見えなかった。


「あのさ、もしかして天文学専攻?」


「違う。音楽学部」


予想外の答えに、私は目を丸くした。


「音楽? でも天文学の本を……」


「音楽と天文学は、実は同じなんだよ」


そう言って彼は、指で空中に何かを描き始めた。その動きは、まるで見えない鍵盤を弾いているようだった。


「ピタゴラスは言った。『天体の運行には音楽がある』って。惑星の公転周期、恒星の脈動、銀河の回転――全部リズムとハーモニーでできてる。僕はそれを、音として聴きたいんだ」


彼の話す声には、不思議な響きがあった。低すぎず高すぎず、まるで波の音のように心に沁みてくる。


「あなた、変わってるね」


「よく言われる」


「名前は?」


「七瀬蒼。あおいって読む。君は?」


「私は星野ヒカリ。天文学専攻の二年生」


「星野、か。いい名前だ。君は星に選ばれてる」


その言葉に、私の心臓が変な音を立てた。別に特別な意味じゃないのに、なぜかドキドキする。


「それじゃ、僕は行くね。邪魔してごめん」


「え、もう帰るの?」


「うん。今日は満月だから、外で聴きたい音があるんだ」


そう言って彼は、書架の間を滑るように歩いていった。その後ろ姿は、まるで影のように静かで、でもどこか儚くて。


気づいたら、私は彼を追いかけていた。


翌日から、私は図書館で蒼を探すようになった。


でも彼は、いつも予測不可能な場所に現れた。ある時は楽器室で一人ピアノを弾いていて、ある時は屋上で空を見上げていて、ある時は食堂の隅で古い楽譜を読んでいた。


「あ、星野さん。また会ったね」


三日目に声をかけられたのは、音楽棟の中庭だった。彼は芝生に座り、ヘッドフォンをつけていた。


「何聴いてるの?」


「土星の音」


「……土星?」


「NASAが録音した、土星の電波を音に変換したやつ。聴いてみる?」


差し出されたヘッドフォンを耳につけると、不思議な音が聞こえてきた。低いうなり声のような、風が吹いているような、でもどこか音楽的なリズムがある。


「すごい……」


「でしょ。宇宙は、ずっと音楽を奏でてるんだ」


彼の横顔を見ながら、私は気づいた。蒼は、いつも少しだけ遠くを見ている。目の前にいるのに、心はどこか別の場所にあるような感じ。


「ねえ、蒼君はどうして音楽を?」


「んー、なんでだろうね」


彼は芝生に寝転がった。空を見上げて、小さく笑う。


「多分、音楽なら、見えないものも表現できるから。言葉にできないことも、伝えられるから」


「見えないもの?」


「うん。例えば、誰かの心の中とか。宇宙の果てとか。失われた時間とか。そういうの」


その瞬間、彼の表情が少しだけ影を帯びた気がした。


私たちは、そこから不思議な関係になった。


週に二、三回、どこかで偶然会う。いや、偶然じゃなかったかもしれない。私が意図的に彼がいそうな場所を探していたのかもしれないし、彼も私を探していたのかもしれない。


ある日、蒼は私を音楽棟の練習室に誘った。


「星野さんに聴かせたい曲があるんだ」


「私なんかが聴いても大丈夫?」


「大丈夫も何も、君のために作った曲だから」


その言葉に、また心臓が跳ねた。


練習室の古いピアノの前に座った蒼は、一度深呼吸をしてから、鍵盤に指を置いた。


流れてきたメロディは、この世のものとは思えないほど美しかった。


静かで、でも力強くて。悲しいようで、でもどこか希望に満ちていて。まるで星空を音にしたような、夜の海を音にしたような、そんな音楽。


私は涙が出そうになるのを必死に堪えた。


「これ、タイトルは?」


「『月の裏側で君を待つ』」


演奏を終えた蒼が、私を見ずに答えた。


「この曲、ずっと完成しなかったんだ。でも君と会ってから、最後のメロディが浮かんできた」


「どうして……私なんかが」


「分からない。でも、君と話してると、見えないものが見える気がするんだ」


彼はそう言って、初めて私の目をまっすぐ見た。その瞳には、何か言いたいことがあるような、でも言えないような、複雑な感情が渦巻いていた。


「蒼君は、何か探してるの?」


「うん」


「それは、見つかりそう?」


「分からない。でも、君といると、見つかるかもしれないって思える」


その日から、私たちはもっと頻繁に会うようになった。


蒼は私に、様々な「宇宙の音」を聴かせてくれた。木星の嵐の音、パルサーのビート、太陽風のざわめき。そして私は、彼に星座の物語や天文学の不思議を話した。


「星野さん、なんで天文学を選んだの?」


ある晩、大学の屋上で星を見ながら、彼が聞いてきた。


「小さい頃、母を亡くしたんだ。その時、父が言ったの。『お母さんは星になった』って」


蒼は黙って聞いていた。


「最初は子供騙しだと思った。でも、本当に天文学を勉強し始めたら分かったんだ。私たちの体を作ってる元素は、全部星の中で作られたものだって。つまり、私たちは本当に星の子供なんだって」


「そうだね。僕らは皆、星屑でできてる」


「だから、私は星を研究することで、母とつながってる気がするんだ。変かな?」


「変じゃないよ。それが、君にとっての『月の裏側』なんだね」


彼のその言葉で、私は初めて理解した。蒼が言っていた「月の裏側」の意味を。


それは、目には見えないけれど確実に存在するもの。失われたようで、でもずっとそこにあるもの。


「蒼君の『月の裏側』は何?」


その質問に、彼は少し躊躇した。夜風が吹いて、彼の前髪を揺らした。


「僕の妹だよ」


静かに、でもはっきりと、彼は言った。


「三年前に、病気で亡くなった。最後まで、ピアノを弾く僕の音を聴いてくれてた」


私は何も言えなかった。


「妹はいつも言ってたんだ。『お兄ちゃんの音楽には、星の音が入ってる』って。だから僕は、本物の星の音を聴きたくて、天文学を勉強し始めた」


「それで、図書館に……」


「うん。音楽だけじゃ足りない気がして。でも、星の音を知っても、まだ足りない気がしてた」


彼は空を見上げた。満天の星空。


「でも、君と会ってから、少しだけ変わった。妹が言ってた『星の音』の意味が、分かってきた気がするんだ」


「どんな意味?」


「多分、技術じゃなくて、心の問題。誰かを想う気持ちが、音楽に星を宿すんだと思う。君は、お母さんを想って星を見る。僕は、妹を想って音楽を作る。それが、『星の音』なんじゃないかな」


蒼の声は震えていた。でも、その表情はどこか穏やかだった。


私は、彼の手をそっと握った。彼の手は冷たくて、細くて、でも確かにそこにあった。


「ありがとう、聴かせてくれて」


「こちらこそ。話せて、楽な気がする」


それから一週間、蒼は姿を消した。


練習室にも、図書館にも、屋上にもいない。連絡先も知らない。私は焦った。


音楽学部の掲示板で、ようやく情報を見つけた。


「学部定期演奏会」


出演者の中に、七瀬蒼の名前があった。曲目は『月の裏側で君を待つ』。


演奏会の日、私は会場の音楽ホールに駆けつけた。


客席はほぼ満席。舞台には大きなグランドピアノが一台だけ、スポットライトを浴びていた。


「次は、オリジナル作品の演奏です。作曲・演奏、音楽学部三年、七瀬蒼」


アナウンスと共に、蒼が舞台に現れた。


いつもの白いシャツに、黒いスラックス。でも、その雰囲気はいつもと違っていた。もっと凛として、でもどこか壊れそうで。


彼はピアノの前に座り、一度客席を見渡した。


その視線が、私を捉えた。


彼は小さく笑って、鍵盤に指を置いた。


音楽が始まった。


練習室で聴いた曲と同じメロディ。でも、何かが違う。もっと深くて、もっと広がりがあって。


静かな導入部から、次第に盛り上がっていく。高音が星のように煌めき、低音が夜の深さを表現する。


そして中盤、一瞬の沈黙の後に流れてきたのは、新しいパート。


それは、まるで二人の会話のようだった。問いかけと応答。探求と発見。喪失と再生。


客席の誰もが、息を飲んで聴いていた。


私は、涙が止まらなかった。


この曲は、蒼の妹へのレクイエムだった。同時に、私の母へのオマージュでもあった。そして、失われたものを探し続ける全ての人への、希望の歌だった。


クライマックスで、メロディは天へと昇っていく。まるで魂が星になるように。でも、完全には消えない。余韻として、ずっと残り続ける。


最後の一音が、ホールに響き渡った。


数秒の沈黙。


そして、嵐のような拍手。


蒼は立ち上がり、深く礼をした。その表情は、涙で濡れていた。


演奏会が終わり、私はロビーで彼を待った。


「星野さん」


彼が現れた時、私は何も言えずに彼を抱きしめた。


「すごかった。本当に、すごかった」


「聴いてくれて、ありがとう」


「なんで言ってくれなかったの? 演奏会のこと」


「言えなかった。もし失敗したら、君をがっかりさせると思って」


「失敗なんかじゃない。あれは、奇跡だった」


私たちは、しばらくそのまま抱き合っていた。


「ねえ、星野さん」


「何?」


「僕、見つけられたと思う」


「何を?」


「月の裏側。妹が僕に残してくれたもの。そして、これから僕が進むべき道」


彼は私の手を取った。


「君がいてくれたから、見つけられた。君は、僕にとっての星なんだ」


その言葉を聞いた瞬間、私の心は決定的に動いた。


これは恋なのか、憧れなのか、それとも魂のつながりなのか。分からない。でも、確かなのは、この人をもっと知りたい、もっと近くにいたい、ということ。


「私も、蒼君のこと……」


言いかけて、私は止まった。


なぜなら、彼の表情に、また別の感情が浮かんでいたから。


それは、決意のような、諦めのような、複雑な何か。

「実は、僕、来月から留学するんだ」


彼はそう言った。


「ウィーンの音楽院。奨学金が取れたんだ。この演奏会も、その最終審査の一つだった」


言葉が出なかった。


「いつから決まってたの?」


「二ヶ月前。でも、君に会ってから、言えなくなった」


「どうして……」


「君を悲しませたくなかった。それに、僕自身、君と離れたくないと思い始めてた」


蒼は私の両手を握った。


「でも、行かなきゃいけない。これが、僕の『月の裏側』にたどり着く道だから」


「いつまで?」


「三年。でも、絶対に帰ってくる」


「待ってるって、保証できない」


「分かってる」


彼は笑った。寂しいような、でもどこか嬉しいような笑顔。


「だから、これは約束じゃない。僕の一方的な願い」


「どんな?」


「三年後、僕が帰ってきた時。もし君がまだ星を見上げていたら、その時は、君に新しい曲を聴かせたい」


「どんな曲?」


「それは、まだ分からない。でも、きっと今よりもっと良いものを作れるようになってる」


ロビーの大きな窓から、月が見えた。


少し欠けた月。でも美しい。


「ねえ、蒼君」


「うん?」


「月の裏側って、地球からは見えないけど、宇宙から見たら見えるんだよね」


「そうだね」


「じゃあ、いつか一緒に、宇宙から見に行こうよ。本物の月の裏側」


彼は目を丸くして、それから大きく笑った。


「それ、いいね。約束しよう」


私たちは小指を絡めた。


その夜、私たちは朝まで語り合った。星のこと、音楽のこと、これからのこと。


別れの日、空港で。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


「星野さん」


「何?」


「君は、僕の星だよ。どこにいても、君を見上げるから」


「私も、蒼君の音楽を、ずっと心で聴いてる」


彼は搭乗ゲートに向かった。


何度か振り返りながら、でも迷わずに。


私は、彼の後ろ姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。


三年後、彼は本当に帰ってくるのだろうか。


私たちは、また会えるのだろうか。


それは分からない。


でも、確かなのは、彼が私の中に残していった音楽は、これからもずっと鳴り続けるということ。


そして、私が彼に見せた星空は、彼の音楽の中で輝き続けるということ。


月の裏側は、まだ見えない。


でも、いつか必ず、辿り着ける。


空港の窓から見える空は、今日も無限に広がっていた。


私はスマートフォンを取り出して、夜空の写真を撮った。


そして呟く。


「また明日も、星を見上げよう」


彼はその星を、遠い異国の地から見ているだろうか。


それとも、彼の音楽の中に、私の星は既に存在しているのだろうか。


答えは出ない。


でも、それでいい。


なぜなら、見えないものにこそ、価値があるから。


月の裏側で、君を待つ。


そして私も、星の向こうで、君を待っている。

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