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第9話 真実の代償

 

 目が覚めた。


 午前零時ちょうど。十度目のループ。最後の、そして決定的な七日間が始まる。こめかみの痛みは限界を超えている。視界が時折歪み、吐き気が襲ってくる。だが、それでも俺は立ち上がった。


 窓辺へ向かう。外を見下ろすと、学院が淡い青白い光に包まれている。霧の範囲は──広がっているだろうか。それとも、前回の作戦で少し押し戻せただろうか。判断は難しい。だが、何かが変わった気はする。空気が、少しだけ軽い。


 前回のループで、俺は術式の核に触れた。新しい未来を記録し、術式に上書きを試みた。リセアが生きている未来を。成功したのか、それとも失敗したのか。答えは、この七日間で判明する。


 鐘楼の鐘が六回鳴る。十度目の月曜日。最後のチャンスだ。もう次はない。今回で全てを終わらせなければならない。


 身支度を整え、寮を出る。廊下を歩きながら、俺は考えていた。今回は、ヴェスパーと直接話す必要がある。全ての真実を確認し、そして最終的な解決策を見つける。誰も犠牲にならない方法を。


 ノエルが駆け寄ってくる。


「おはよう、エリオット!」

「おはよう」


 いつもの会話。だが今日は、最後の月曜日だ。大食堂へ向かう。朝食を取りながら、俺はリセアの方を見た。今は、まだ俺のことを覚えていない。だが、今日の午後には彼女はまた俺の協力者になる。そして今回こそ、全てを終わらせる。



 午後三時。俺は中庭へ向かった。


 始祖の泉のほとりで、リセアが瞑想している。もう何度も繰り返した光景だ。俺は彼女に近づいた。


「話がある」


 リセアが目を開けた。


「エリオット君?」


 俺は、もう慣れ切った説明を始めた。時間のループ。記憶の保持。未来の予言。リセアは戸惑ったが、訓話の内容を暗記していることを示すと、彼女は信じた。


「明日、証明してみせる」



 火曜日。予言は的中し、リセアは完全に俺を信じた。その日の夕方、俺は彼女に全てを話した。九回のループで起きたこと。ヴェスパーがリセアを救おうとしていること。グレゴールも学院を守ろうとしていること。そして、前回の術式への介入。


 リセアは真剣な表情で聞いていた。


「では、今回はどうするの?」


 彼女が尋ねる。


「ヴェスパー先生と直接話す。全ての真実を確認して、最終的な解決策を決める」


 俺は答えた。


「グレゴール学院長も交えて、四人で話し合う」


 リセアは頷いた。


「わかったわ。一緒に行きましょう」



 水曜日の午後、自由研究の時間。俺とリセアは学院長室を訪れた。グレゴールは俺たちを見て、ため息をついた。


「また来たか。十回目だな」


 彼は既に全てを知っていた。前回のループで、俺たちは協力体制を築いている。


「はい。今回が最後です」


 俺は言った。


「ヴェスパー先生を呼んでください。四人で話し合いたい」


 グレゴールは頷き、ヴェスパーに伝書を送った。約三十分後、ヴェスパーが学院長室に現れた。彼女は俺たちを見て、複雑な表情を浮かべた。


「呼ばれたので来たけれど…これは?」


「座りなさい、ヴェスパー」


 グレゴールが椅子を勧める。ヴェスパーは戸惑いながらも座った。俺とリセアも席に着く。


「ヴェスパー先生」


 俺は静かに言った。


「俺たちは、全てを知っています」


 ヴェスパーの顔色が変わった。


「全て…?」


「はい。ループのこと。術式のこと。そして、先生がリセアを救おうとしていること」


 リセアも言った。


「先生、もう隠さないでください。全てを話してください」


 沈黙が部屋を満たした。ヴェスパーは深く息を吸い、やがて観念したように口を開いた。


「…そうね。もう隠せないわね」


 彼女は机に手をついた。


「全て話すわ。私が、この呪いの始まりだから」



 ヴェスパーは語り始めた。


「私は、未来視の能力を持っている。稀にだけれど、重要な出来事の未来が視えることがある」


 彼女の声は震えていた。


「そして三ヶ月前、恐ろしい未来を視てしまった。リセアが、日曜日の帰省中に馬車事故で死ぬ未来を」


 リセアは息を呑んだ。


「私は…どうして私が?」


「あなたは、私の亡き弟子の娘だから」


 ヴェスパーは続けた。


「あなたの母親は、私の親戚だった。母方の血縁にあたる。そして、私はかつてあなたの母親を教えていた」


 リセアは驚いた顔をした。


「母を…?」


「ええ。彼女は優秀な生徒だった。だが、十五年前、魔法事故で命を落とした」


 ヴェスパーの目に涙が浮かぶ。


「私の指導不足が原因だった。私は彼女を守れなかった」


「それから、ずっと後悔していた。もう二度と、弟子を失いたくないと」


 ヴェスパーは顔を覆った。


「だから、あなたの死の未来を視たとき、私は耐えられなかった」


「何としてでも、あなたを救いたかった」


「だから、禁術に手を出した」


 グレゴールが補足した。


「彼女は旧校舎地下の術式を起動した。創設者アリウスが遺した時間逆行の術式を」


「時間を巻き戻せば、リセアが死ぬ未来を変えられると思った」


 俺は尋ねた。


「でも、制御に失敗した?」


「そうだ」


 ヴェスパーが答えた。


「術式は予想以上に強力だった。私の魔力では制御しきれず、暴走した」


「そして、学院全体が七日間のループに囚われた」


「十回のループ後には、学院ごと時の狭間に消える」


 リセアが震える声で尋ねた。


「では、どうすれば止められるんですか?」


 沈黙。


 やがて、グレゴールが重々しく答えた。


「方法は、三つある」


 彼は指を立てた。


「一つ、術式を起動したヴェスパーが命を捧げる」


「二つ、封印を管理する私が命を捧げる」


「三つ、記憶のアンカーであるエリオットの存在を消す」


 俺とリセアは顔を見合わせた。前回のループと同じ答えだ。やはり、誰かの犠牲が必要なのか。


「他に方法はないんですか」


 リセアが懇願する。


「前回のループで、エリオットが術式に介入を試みた」


 グレゴールが言った。


「記録魔法で新しい未来を上書きしようとした。だが…」


「完全には成功していない」


 ヴェスパーが続けた。


「術式は少し安定したが、まだ暴走は止まっていない」


「では、どうすれば…」


 俺は考え込んだ。前回の作戦は不十分だった。何かが足りない。何を見落としているのか。


 ヴェスパーが立ち上がった。


「もう決めたわ。私が命を捧げる」


「待って!」


 リセアが叫んだ。


「先生を犠牲にはできません」


「でも、他に…」


「必ず、別の方法があるはずです」


 俺も言った。


「もう少し時間をください。考えさせてください」


 ヴェスパーは俺を見つめた。


「時間はないわ。今回が最後のループよ」


「わかっています。でも、諦めたくない」


 俺は拳を握りしめた。


「誰も犠牲にしたくない」



 その後の数日間、俺たちは必死に考え続けた。木曜日、金曜日。図書館で資料を漁り、地下で術式を調べ、様々な可能性を検討した。


 金曜日の魔法実技試験。ゼファーが一位、リセアが二位。いつもと同じ結果だ。だが、今回は試験後、ゼファーが俺に話しかけてきた。


「なあ、お前」


 ゼファーは珍しく真剣な顔をしていた。


「何か大変なことが起きてるんだろう」


 俺は驚いた。


「どうして…」


「わからないが、感じるんだ。お前もリセアも、ヴェスパー先生も、学院長も…みんな何かと戦ってる」


 ゼファーは俺の肩を叩いた。


「詳しいことは聞かない。でも、頑張れよ。お前なりのやり方で」


 彼は立ち去った。俺は呆然としていた。ゼファーが、気づいていた。何が起きているかは知らないが、何かがおかしいと。


 その夜、俺は一人で考え込んでいた。ゼファーの言葉が引っかかっていた。「お前なりのやり方で」。俺なりのやり方。俺にしかできないこと。それは…


 記録魔法。


 だが、前回の試みは不完全だった。新しい未来を上書きしようとしたが、足りなかった。何が足りないのか。


 俺は気づいた。


 リセアだ。


 リセアが、日曜日に学院に残ると決意すること。それが鍵だ。未来は、人の意志で変わる。リセアが自分の意志で運命を変える。その決意が、術式に届けば…



 土曜日の昼、俺はリセアに話しかけた。


「リセア、お前は日曜日、どうするつもりだ?」


 リセアは少し躊躇したが、答えた。


「学院に残るわ」


「本当に?」


「ええ。家族と…少し距離を置きたいの」


 リセアは続けた。


「姉たちと比較されるのが辛い。完璧であることを求められて、疲れてしまった」


 彼女は泉を見つめた。


「だから、今回は学院に残る。自分のために」


 俺は頷いた。それだ。リセアの意志。彼女が自分で選んだ未来。


「それを、術式に伝えなければならない」


 俺は呟いた。


「え?」


「いや、何でもない」


 俺は立ち上がった。


「今夜、学院長室に集まろう。最後の作戦会議だ」



 土曜日の夜、学院長室。俺、リセア、グレゴール、ヴェスパーの四人が集まった。


「明日、決行する」


 俺は言った。


「リセアは日曜日、学院に残る。これは彼女自身の意志だ」


「そして、俺は再び術式に介入する。だが、今回は違う」


「何が違うんだ?」


 グレゴールが尋ねる。


「前回は、俺が記録した未来を上書きしようとした。でも、それでは足りなかった」


 俺は説明した。


「今回は、リセアの意志を直接術式に伝える。彼女が生きると決めた。その決意を、術式に刻み込む」


「そして、ヴェスパー先生とグレゴール学院長の力を借りて、術式を安定させる」


「理論上は可能だ」


 グレゴールが頷いた。


「だが、リスクは高い」


「わかっています」


 俺は決意した。


「でも、これが最後のチャンスです」


 リセアが俺の手を握った。


「一緒に、やりましょう」


 ヴェスパーも頷いた。


「私も、全力で協力するわ」


 グレゴールは深く息を吸った。


「わかった。明日、午後十一時。地下で作戦を実行する」



 日曜日。多くの生徒が外出した。学院は静かだ。俺たちは学院に残り、準備を整えた。


 午前中、俺は記録魔法の訓練をした。リセアの意志を記録する練習。彼女の決意、彼女の未来への希望。それを感じ取り、記憶に刻む。


 午後、俺たちは地下へ向かった。巨大な魔法陣。中心の核。最後の戦いの場だ。


「準備はいいか?」


 グレゴールが尋ねる。


「はい」


 俺は頷いた。


 リセアが俺の前に立った。


「エリオット、私の決意を受け取って」


 彼女は真剣な目で俺を見つめた。


「私は、生きる。日曜日、学院に残る。家族との問題は、自分で向き合う」


「もう逃げない。自分の人生は、自分で決める」


 彼女の言葉に、強い意志が込められていた。俺はそれを記録魔法で受け取った。リセアの決意が、俺の記憶に刻まれる。


「受け取った」


 俺は言った。


「それじゃあ、始めよう」



 午後十一時。俺たち四人は、魔法陣の前に立った。時の霧が迫ってくる。学院のほぼ全域が霧に包まれている。最後の瞬間だ。


「始めよう」


 グレゴールが言った。俺は深呼吸をして、魔法陣の中心へ歩いた。核が、宙に浮いている。前回と同じ光景。だが、今回は違う。リセアの意志を携えている。


「エリオット、気をつけて」


 リセアの声が聞こえる。俺は核に手を触れた。


 瞬間、圧倒的な情報が流れ込んできた。だが、今回は耐えられる。前回の経験があるからだ。俺は術式と対話する。


「聞いてくれ」


 俺は術式に語りかけた。


「リセアは生きている。彼女は自分の意志で、運命を変えた」


「日曜日、学院に残る。馬車事故は起こらない」


「お前の目的は達成された。もう、時間を巻き戻す必要はない」


 術式が反応する。だが、まだ不十分だ。


 リセアが魔法陣に近づいた。


「私からも伝えるわ」


 彼女は核に向かって言った。


「私は、生きる。自分の未来を、自分で切り開く」


「もう、誰かに守ってもらう必要はない」


 リセアの言葉が、術式に届く。核が激しく光り輝いた。


 ヴェスパーが暗黒系の魔法を発動する。術式を安定させる魔法だ。グレゴールも光明系の大結界を展開する。学院を守る力だ。


 四人の力が、術式に集中する。


「これで…」


 俺は叫んだ。


「終わらせる!」


 術式が激しく振動した。核の光が、一気に膨れ上がる。そして──


 消えた。


 核が、消失した。術式の光が失われ、魔法陣が沈黙する。


「成功…したのか?」


 グレゴールが呟いた。


 ヴェスパーが魔法陣を調べる。


「術式が…停止している」


 彼女は驚いた顔をした。


「本当に…止まった」


 リセアが俺に駆け寄った。


「エリオット、成功したのね」


 俺は頷いた。だが、まだ確信が持てない。


「リセットが来なければ、成功だ」


 俺たちは、午前零時を待った。



 午後十一時五十分。


 地下で、俺たち四人は固唾を飲んで待っていた。あと十分。リセットの時刻まで、あと十分。


「もし成功していれば…」


 リセアが呟く。


「リセットは来ない。本当の月曜日を迎える」


 俺も祈るような気持ちだった。


 午後十一時五十九分。


 あと一分。長い、長い一分だ。俺たちは時計を見つめた。


 秒針が、ゆっくりと進む。


 五十秒。


 四十秒。


 三十秒。


 二十秒。


 十秒。


 そして──


 午前零時。


 何も起こらなかった。


 リセットは来なかった。


 俺たちは、顔を見合わせた。


「成功…した?」


 リセアが信じられないという顔をしている。


「ああ」


 グレゴールが頷いた。


「成功したようだ」


 ヴェスパーは泣いていた。


「本当に…本当に終わったのね」


 俺は力が抜けて、その場に座り込んだ。終わった。本当に終わったんだ。十回のループ。長い、長い戦いが。


 リセアが俺の隣に座った。


「ありがとう、エリオット」


 彼女は涙を流していた。


「あなたがいなければ、私は死んでいた」


「いや」


 俺は首を振った。


「みんなで助け合ったんだ。一人じゃ、絶対に成功しなかった」


 グレゴールが俺たちに手を差し伸べた。


「よくやった。お前たちは、学院を救った」


 ヴェスパーも微笑んだ。


「本当に、ありがとう」



 地上へ戻る階段を上りながら、俺はふと気づいた。霧が消えている。学院を包んでいた時の霧が、完全に消失していた。


「霧が…」


 リセアも気づいた。


「消えてる」


 俺たちは外へ出た。夜空には星が輝いている。美しい、普通の夜空だ。学院は静かで、平和だ。


「終わったんだな」


 俺は呟いた。


「ええ」


 リセアが頷いた。


「これから、新しい日々が始まる」



 寮へ戻る道すがら、リセアが俺に言った。


「エリオット、あなたはこのループの記憶を全て持っているのよね」


「ああ」


「それは…消えないの?」


 俺は考えた。確かに、術式が停止したら、俺の記憶も影響を受けるかもしれない。


「わからない。でも、今のところは全部覚えている」


「もし忘れても」


 リセアが俺の手を握った。


「私が覚えているわ。最後の七日間のことは」


 俺は微笑んだ。


「ありがとう」


 寮の前で、俺たちは別れた。


「おやすみなさい、エリオット」


「おやすみ、リセア」


 俺は自室へ戻った。ベッドに倒れ込む。疲労が、一気に襲ってきた。だが、それは心地よい疲労だった。


 戦いは終わった。


 誰も犠牲にならなかった。


 全員で、未来を勝ち取った。


 俺は安心して、眠りについた。



 目が覚めた。


 午前六時。鐘楼の鐘が六回鳴る。


 月曜日の朝。本当の月曜日。


 俺はベッドから起き上がり、窓の外を見た。朝日が昇っている。美しい朝だ。いつもの朝だ。だが、この朝は特別だ。


 ループは終わった。


 俺は身支度を整え、寮を出た。廊下を歩く。ノエルが駆け寄ってくる。


「おはよう、エリオット!」


「おはよう、ノエル」


 いつもの会話。だが、今日は違う。これは本当の月曜日だ。次の火曜日が来る。水曜日が来る。未来が、開けている。


 大食堂へ向かう。朝食を取る。リセアが遠くの席にいる。彼女と目が合う。彼女は微笑んだ。俺も微笑み返す。


 学院長の週次訓話。グレゴールが壇上に立つ。


「諸君、新しい週が始まった」


 彼は言った。


「努力と規律を忘れず、前へ進みなさい」


 いつもの訓話。だが、グレゴールは俺を見て、わずかに頷いた。俺も頷き返す。


 訓話が終わり、授業が始まる。


 本当の日々が、始まった。

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