第7話 絶望の選択
目が覚めた。
午前零時ちょうど。八度目のループ。
こめかみの痛みは、もはや日常の一部だ。鈍く、重く、絶え間なく。
だが、今回は違う感覚がある。
使命感。前回のループで掴んだ手がかりが、俺を前へ押し出す。
窓辺に立ち、学院を見下ろす。
淡い青白い光。六割超が霧に包まれている。
残り時間は少ない。
前回、俺たちは地下で重要な発見をした。
ヴェスパーは犯人ではない。リセアを救おうとしている。
グレゴールも、学院を守ろうとしている。
では、誰が呪いをかけたのか。
そして、どうすれば解除できるのか。
その答えは、グレゴール学院長が知っているはずだ。
今回は、彼に全てを話す。
そして、真実を聞き出す。
鐘楼の鐘が六回鳴る。
八度目の月曜日。
身支度を整え、寮を出る。
ノエルが駆け寄ってくる。
「おはよう、エリオット!」
「おはよう」
いつもの会話。だが今日は、違う覚悟がある。
大食堂へ向かう。朝食を取りながら、俺はリセアの方を見た。
今日の午後、彼女はまた俺の協力者になる。
そして今回は、二人で学院長に会いに行く。
午後三時。俺は中庭へ向かった。
始祖の泉のほとりで、リセアが瞑想している。
俺は彼女に近づいた。
「話がある」
リセアが目を開けた。
「エリオット君?」
俺は、もう慣れた説明を始めた。
時間のループ。記憶の保持。未来の予言。
リセアは戸惑ったが、訓話の内容を暗記していることを示すと、彼女は信じた。
「明日、証明してみせる」
火曜日。
ノエルのトラブルが予言通りに起きた。
リセアは驚き、俺を信じた。
その日の夕方、俺は彼女に全てを話した。
前回のループで地下へ行ったこと。
巨大な魔法陣を見たこと。
ヴェスパーがリセアを救おうとしていること。
グレゴールが学院を守ろうとしていること。
リセアは真剣な表情で聞いていた。
「では、明日、学院長に会いましょう」
彼女は決意した表情で頷いた。
「ええ。全てを話して、真実を聞き出す」
俺も頷いた。
水曜日。
午後二時。自由研究の時間。
俺とリセアは、学院長室へ向かった。
中央塔の五階。学院長室の前で、俺たちは深呼吸をした。
「準備はいい?」
リセアが尋ねる。
「ああ」
俺はノックした。
「どうぞ」
グレゴール学院長の声が聞こえる。
扉を開けて中に入る。
広い部屋。壁一面に本棚が並び、奥に大きな机がある。
机の前に、グレゴール学院長が座っていた。
「何の用か、生徒諸君」
学院長は俺たちを見る。その目は厳しいが、どこか疲れている。
「学院長、お話があります」
俺は勇気を振り絞った。
「重要な話です」
学院長は眉をひそめた。
「重要な話?」
「はい」
俺は深呼吸をした。
「学院が、時間のループに囚われています」
沈黙。
学院長の表情が、わずかに変わった。
「…何を言っている」
「同じ一週間を何度も繰り返している。そして、俺だけが記憶を保持しています」
学院長は俺をじっと見つめた。
「お前が…」
彼は何かを悟ったように、深く息を吸った。
「座りなさい」
学院長は椅子を勧めた。
俺とリセアは、学院長の前に座った。
「詳しく話してくれ」
学院長の声は、静かだった。
俺は、これまでの経緯を全て話した。
七回のループ。
旧校舎地下での発見。
ヴェスパーの行動。
そして、学院長自身の土曜夜の儀式。
学院長は黙って聞いていた。
話し終えると、学院長は深いため息をついた。
「…薄々気づいていた」
学院長は机に手をついた。
「お前が『アンカー』だったのか」
「アンカー…?」
「記憶を保持する者だ。術式の副産物として、稀に発生する」
学院長は俺を見つめた。
「お前の能力が、術式の穴となった」
俺は頷いた。
「そうです。だから、俺は全てを覚えている」
「では、お前は知っているのか」
学院長は真剣な表情で尋ねた。
「旧校舎地下の術式を」
「はい。創設者アリウス・クロノスの時間魔法。七日環の術式」
学院長は頷いた。
「そうだ。あの術式が、このループの原因だ」
リセアが口を開いた。
「学院長、なぜこんなことになったんですか」
学院長は深く息を吸った。
「話そう。全てを」
彼は立ち上がり、窓の外を見つめた。
「旧校舎地下の術式は、創設者アリウスが遺したものだ」
「時間を巻き戻す力を持つ。だが、制御が困難で、危険だ」
「だから封印されていた」
学院長は振り返った。
「だが、何者かがそれを起動した」
「誰が?」
俺は尋ねた。
学院長は少し躊躇したが、やがて答えた。
「ヴェスパー・ラーシュだ」
俺とリセアは顔を見合わせた。やはり。
「だが」
学院長は続けた。
「彼女に悪意はない」
「むしろ逆だ。誰かを救おうとして、術式を起動した」
「誰を?」
リセアが尋ねた。
学院長は、リセアを見つめた。
「おそらく…お前だ、リセア」
リセアは息を呑んだ。
「私を…?」
「ヴェスパーは、お前の未来を視た。そして、それを変えようとした」
学院長は説明した。
「彼女には未来視の能力がある。そして、ある日、お前が死ぬ未来を視てしまった」
「死ぬ…?」
リセアは青ざめた。
「いつ?どうやって?」
「七日目。日曜日だ」
学院長は答えた。
「お前が実家へ帰省する途中、馬車事故で命を落とす」
リセアは震えていた。
「そんな…」
「ヴェスパーは、お前を救いたかった」
学院長は続ける。
「彼女にとって、お前は特別な存在だ」
「どうして?」
「お前の母親は、ヴェスパーの親戚だ。彼女はお前の母方の血縁にあたる」
リセアは驚いた顔をした。
「母の…?」
「そうだ。ヴェスパーは過去に、別の弟子を事故で失っている」
学院長の声が沈む。
「その罪悪感から、お前を守ろうとした」
「だから、時間魔法を使った」
俺は理解した。
「リセアが死ぬ未来を変えるために」
「そうだ」
学院長は頷いた。
「彼女は術式を起動し、時間を巻き戻そうとした」
「だが、術式は制御を失った」
「暴走した」
「そうだ。そして、学院全体が七日間のループに囚われた」
沈黙が部屋を満たした。
俺は考えを整理した。
ヴェスパーがリセアを救うために術式を起動。
だが制御に失敗し、学院全体を巻き込んだ。
「では、学院長」
俺は尋ねた。
「どうすれば、このループを止められるんですか」
学院長は深く息を吸った。
「方法は…ある」
「本当ですか!」
リセアが身を乗り出す。
だが、学院長の表情は暗かった。
「だが、代償が必要だ」
「代償…?」
「術式の核を破壊するには…」
学院長は言葉を選んだ。
「管理者である私の命が必要だ」
俺は息を呑んだ。
「学院長の…命?」
「そうだ」
学院長は淡々と答えた。
「私は学院長として、旧校舎地下の封印を管理している」
「術式は学院と結びつき、私の魔力で維持されている」
「それを破壊するには、私の生命力を全て注ぎ込む必要がある」
「そんな…」
リセアが震える声で言った。
「他に方法は?」
「もう一つある」
学院長は答えた。
「術式を起動した者の命」
「ヴェスパー先生…」
リセアが呟いた。
「そうだ。彼女が命を捧げれば、術式は消える」
「それ以外に?」
俺は必死に尋ねた。
学院長は、俺を見つめた。
「お前だ、エリオット」
「俺…?」
「お前は術式の『アンカー』になっている」
学院長は説明した。
「お前の記憶が、術式を安定させている」
「お前の記憶を完全に消せば、術式は崩壊する」
俺は愕然とした。
「記憶を…消す?」
「そうだ。全ての記憶。お前という存在そのものを」
それは、死ぬのと同じだ。
沈黙。
三つの選択肢。
グレゴールの命。
ヴェスパーの命。
エリオットの記憶消去。
どれも、受け入れられない。
「他に…他に方法はないんですか」
リセアが懇願する。
学院長は首を振った。
「わからない。私も、ヴェスパーも、必死に探している」
「だが、見つからない」
学院長は窓の外を見た。
「残り時間は少ない」
「ループを重ねるごとに、霧が拡大している」
「あと数回で、学院全体が飲み込まれる」
「そうなれば…」
「学院ごと、時の狭間に消える」
俺とリセアは、言葉を失った。
絶望的な状況。
誰かの犠牲が必要だ。
「考えさせてください」
俺は言った。
「必ず、別の方法を見つけます」
学院長は俺を見つめた。
「わかった。だが、時間がない」
「次のループまでに、答えを出さなければならない」
俺たちは、学院長室を出た。
廊下で、リセアが俺に言った。
「エリオット…」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「学院長も、ヴェスパー先生も、あなたも…誰も犠牲にしたくない」
「ああ」
俺も同じ気持ちだった。
「絶対に、別の方法を見つける」
その後の数日間、俺たちは必死に調査を続けた。
木曜日、金曜日。
図書館で資料を漁る。
地下へ再び行き、術式を調べる。
だが、答えは見つからなかった。
金曜日の魔法実技試験。
今回も、ゼファーが一位、リセアが二位。
だが、俺の心は試験どころではなかった。
試験後、ヴェスパーがリセアに近づいた。
「リセア、少し話せるかしら」
リセアは警戒しながらも、頷いた。
「何でしょうか」
ヴェスパーは周囲を見回し、小声で言った。
「あなたは…日曜日、実家に帰るのね?」
リセアは少し躊躇したが、答えた。
「…いいえ。今回は学院に残るつもりです」
ヴェスパーの表情が変わった。
「本当に?」
「はい」
ヴェスパーは安堵したような、それでいて複雑な表情を浮かべた。
「そう…それなら…」
彼女は何か言いかけて、黙った。
「気をつけて」
それだけ言って、立ち去った。
土曜日の夜。
俺とリセアは、再び学院長室の周辺で待機した。
「学院長の儀式を確認しよう」
午後十時。
学院長室から、強い光が漏れ始めた。
窓から覗くと、グレゴールが魔法陣の前に立っている。
「儀式をしているわ」
リセアが囁く。
学院長は両手を広げ、魔力を注いでいる。
「あれは…防御魔法ね」
リセアが分析する。
「学院を守る大結界。週に一度、更新している」
約二時間後、儀式が終わった。
学院長は疲れ切った様子で、椅子に座り込んだ。
俺たちは窓から離れた。
「学院長、毎週命を削って学院を守っている」
リセアが言う。
「それなのに、彼が犠牲になるなんて…」
俺も同じ気持ちだった。
日曜日。
多くの生徒が外出した。
俺とリセアは、学院に残った。
午後三時頃。
中庭を歩いていると、ヴェスパー教師と遭遇した。
「あら…」
ヴェスパーは俺たちを見て、驚いたような表情を浮かべた。
「エリオット君とリセア」
「ヴェスパー先生」
俺は呼び止めた。
「お話があります」
ヴェスパーは少し躊躇したが、頷いた。
「…わかったわ」
人目のない場所へ移動する。
旧校舎の陰。
「先生、俺たちは知っています」
俺は言った。
「全てを」
ヴェスパーの顔色が変わった。
「何を…」
「ループのこと。術式のこと」
リセアも言った。
「そして、先生が私を救おうとしていること」
ヴェスパーは息を呑んだ。
「あなたたち…どうして…」
「学院長から聞きました」
俺は説明した。
ヴェスパーは蒼白になった。
「学院長が…」
彼女は壁に手をついた。
「そう…もう、隠せないのね」
沈黙。
やがて、ヴェスパーが口を開いた。
「そうよ。私が術式を起動した」
彼女の声は震えていた。
「リセアを救うために」
「私は未来視で、あなたが死ぬのを視てしまった」
ヴェスパーはリセアを見た。
「日曜日、実家への帰省中。馬車事故で」
リセアは頷いた。
「学院長から聞きました」
「私は…もう二度と、弟子を失いたくなかった」
ヴェスパーの目に涙が浮かぶ。
「過去に、別の弟子を事故で失った」
「その罪悪感が、私を追い詰めた」
「だから、禁術を使った」
彼女は自分を責めるように呟く。
「時間を巻き戻せば、あなたを救えると思った」
「でも…」
「制御に失敗した」
俺が言った。
ヴェスパーは頷いた。
「そうよ。術式は予想以上に強力だった」
「暴走して、学院全体を巻き込んだ」
「そして、十回のループ後には…」
「学院ごと消える」
リセアが呟いた。
「ええ」
ヴェスパーは頷いた。
「だから、私は毎晩地下へ行っている」
「術式を止めようと」
「でも、できない」
沈黙。
やがて、ヴェスパーが決意したような表情で言った。
「次のループで、私は決着をつける」
「決着…?」
「術式の核に、自分の命を捧げる」
リセアが叫んだ。
「そんな!」
「これは私が始めたこと。私が終わらせる」
ヴェスパーは静かに言った。
「待ってください」
俺は言った。
「他に方法があるはずです」
「ないわ」
ヴェスパーは首を振った。
「学院長の命か、私の命か、あなたの記憶消去」
「それ以外にない」
「そんなこと…」
リセアが涙を流す。
「私のせいで、誰かが死ぬなんて」
「あなたのせいじゃないわ」
ヴェスパーは優しく言った。
「これは私の選択。私の責任」
ヴェスパーは俺たちに背を向けた。
「次のループで、終わらせる」
「待って!」
リセアが叫んだが、ヴェスパーは立ち去った。
俺とリセアは、呆然と立ち尽くした。
「どうすれば…」
リセアが呟く。
「絶対に、別の方法を見つける」
俺は拳を握りしめた。
「誰も犠牲にしない」
午後十一時。
窓から外を見る。
霧が、さらに拡大している。
学院の八割近くが霧に包まれている。
「残り時間は、わずかだ」
俺は呟いた。
午前零時。
リセット。
目が覚めた。
午前零時ちょうど。九度目のループ。
こめかみの痛みは、限界に近づいている。
視界が時折ぼやける。吐き気が常にある。
だが、諦めるわけにはいかない。
窓辺に立ち、学院を見下ろす。
ヴェスパーは、次のループで自分の命を捧げると言った。
グレゴールも、自分の命を差し出す覚悟がある。
だが、俺は受け入れられない。
誰も犠牲にしたくない。
全員で、このループから抜け出したい。
そのためには…
俺の能力だ。
記録魔法。そして、暗黒系の潜在能力。
これが、術式の穴となった。
ならば、これを使えば…
新しい可能性が見えるかもしれない。
鐘楼の鐘が六回鳴る。
九度目の月曜日。
今度こそ、別の方法を見つける。
自分の能力を、深く掘り下げる。
そして、誰も犠牲にならない解決策を探す。
俺は決意を新たにした。




