第10話 最後の七日間
目が覚めた。
午前六時。鐘楼の鐘が六回鳴る。月曜日の朝だ。本当の月曜日。ループではない、前へ進む時間。
窓辺に立ち、外を見下ろす。朝日が学院を照らしている。霧はない。時の呪いはない。ただ、穏やかな朝があるだけだ。こめかみの痛みも、もうない。十回のループで蓄積した疲労が、嘘のように消えている。
身支度を整えながら、俺は考えていた。昨夜、術式を止めた。リセアの意志と、俺の記録魔法と、ヴェスパーとグレゴールの力を合わせて。誰も犠牲にならず、全員で未来を勝ち取った。だが、これで本当に終わったのだろうか。何か代償があるのではないか。
寮を出ると、廊下でノエルと会った。
「おはよう、エリオット!」
ノエルが笑顔で駆け寄ってくる。
「おはよう」
いつもの会話。だが、この当たり前の光景が、どれほど尊いか。俺は身に染みて知っている。
「なあ、今日は何だか気分がいいな」
ノエルが空を見上げた。
「空気が軽い気がするんだよ」
俺も頷いた。そうだ、空気が軽い。重苦しい何かが消えた。
「そうだな。いい朝だ」
大食堂で朝食を取る。リセアが遠くの席にいる。彼女と目が合い、微笑み合う。昨夜のことを覚えている。彼女も、最後のループの記憶を持っているはずだ。
午前八時、週次訓話。グレゴール学院長が壇上に立った。彼の表情は、以前より穏やかに見える。
「諸君、新しい週が始まった」
グレゴールは言った。
「努力と規律を忘れず、前へ進みなさい」
いつもの訓話。だが、グレゴールは俺とリセアの方を見て、わずかに頷いた。俺も頷き返す。彼も覚えている。あの戦いを。
訓話が終わり、授業が始まる。魔法理論、実技訓練。全てが、いつも通りだ。だが、この「いつも通り」が、どれほど素晴らしいか。もう繰り返さない。明日が来る。未来が開けている。
火曜日の夜、図書館夜間開放。俺はリセアと約束していた。二人で話をする約束。
図書館の奥、古書のコーナー。人目のない場所で、俺たちは向かい合った。
「ループの記憶、まだ残ってる?」
リセアが尋ねる。
「ああ。全部覚えている」
俺は答えた。
「お前は?」
「私も。最後の七日間は、鮮明に覚えているわ」
リセアは微笑んだ。
「でも…少しずつ、薄れてきている気がする」
俺もそれを感じていた。ループの記憶が、少しずつ曖昧になってきている。細部が思い出せなくなっている。
「グレゴール学院長が言っていた」
リセアが続けた。
「記憶は徐々に薄れるだろう、と」
「代償なのかもしれない」
俺は呟いた。
「誰も命を失わなかった代わりに、記憶が薄れる」
「でも」
リセアが俺の手を取った。
「大切なことは忘れないわ。あなたと過ごした時間。みんなで戦ったこと」
「ああ」
俺も頷いた。
「それだけで十分だ」
水曜日の午後、自由研究の時間。俺は学院長室を訪れた。
「入りなさい」
グレゴールの声が聞こえる。扉を開けて中に入ると、グレゴールが窓際に立っていた。
「エリオット。来ると思っていたよ」
彼は振り返った。
「記憶のことか?」
「はい」
俺は頷いた。
「少しずつ、ループの記憶が薄れてきています」
「正常なことだ」
グレゴールは椅子を勧めた。俺は座る。
「術式が停止したことで、時間の歪みが修正されている。その過程で、ループの記憶も影響を受ける」
「全部忘れてしまうんですか」
「いや」
グレゴールは首を振った。
「完全に消えることはない。だが、夢のように曖昧になるだろう」
彼は窓の外を見つめた。
「それでいいのだ。お前たちは、前を向いて生きるべきだ」
「過去に囚われず、未来を見据えて」
俺は考え込んだ。記憶が薄れることは、寂しい。だが、グレゴールの言う通りかもしれない。
「学院長」
俺は尋ねた。
「あなたも、記憶が薄れるんですか」
「ああ」
グレゴールは微笑んだ。
「だが、お前たちが学院を救ったという事実は忘れない」
「ありがとう」
水曜日の夕方、中庭を歩いていると、ヴェスパー教師と会った。
「エリオット君」
彼女が声をかけてくる。
「ヴェスパー先生」
俺は立ち止まった。
「少し話せるかしら」
ヴェスパーは始祖の泉のほとりへ向かった。俺も後に続く。泉の前で、彼女は俺に向き直った。
「ありがとう」
ヴェスパーは深く頭を下げた。
「あなたがいなければ、私は…学院は…」
「顔を上げてください」
俺は言った。
「先生は、リセアを救おうとしただけです」
「それでも、私の身勝手で多くを巻き込んだ」
ヴェスパーは顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。
「償いきれない」
「もう自分を責めないでください」
俺は言った。
「終わったんです。前を向きましょう」
ヴェスパーは微笑んだ。
「そうね。前を向かなければ」
彼女は空を見上げた。
「リセアが、自分の意志で未来を選んだ。私はそれを見守るだけでいい」
「はい」
俺も頷いた。
ヴェスパーは俺の肩に手を置いた。
「あなたは強いわね。十回もループして、諦めなかった」
「一人じゃなかったから」
俺は答えた。
「みんながいたから」
ヴェスパーは頷いた。
「そうね。一人では何もできない」
木曜日の昼休み、俺は図書館にいた。オレン書記官が書架を整理している。
「あ、エリオット君」
オレンが声をかけてきた。
「何か探し物?」
「いえ、ちょっと調べ物を」
俺は答えた。
オレンは微笑んだ。
「最近、よく勉強しているね。成長したようだ」
彼の言葉に、俺は少し驚いた。オレンはループのことを知らない。だが、何かを感じ取っているのかもしれない。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
オレンは書架の整理を続けながら言った。
「学院には、長い歴史がある。様々な出来事があった」
「でも、いつも乗り越えてきた」
「それは、生徒たちと教師たちが協力したからだ」
彼は俺を見た。
「これからも、そうやって学院を守っていくんだよ」
俺は頷いた。オレンは、何かを知っているのかもしれない。あるいは、感じているのかもしれない。学院に起きた危機を。
金曜日。魔法実技試験。今回も、ゼファーが一位、リセアが二位。だが、試験後、ゼファーが俺に話しかけてきた。
「なあ、エリオット」
ゼファーは珍しく真剣な顔をしていた。
「何か終わったんだろう」
俺は驚いた。
「どうして…」
「わからない。でも感じるんだ」
ゼファーは空を見上げた。
「何か大きなものが消えた。学院が軽くなった」
彼は俺の肩を叩いた。
「お前が何をしたのか知らないが、ありがとうな」
「俺一人じゃない。みんなで…」
「そうか」
ゼファーは微笑んだ。
「なら、みんなに感謝だな」
彼は立ち去った。俺は呆然としていた。ゼファーは、何も知らないはずなのに。だが、彼の直感が、何かを感じ取ったのだろう。
リセアが近づいてきた。
「ゼファー、何か言ってた?」
「ああ。感謝してるって」
リセアは微笑んだ。
「彼も、気づいているのね」
土曜日の昼、俺とリセアは中庭で話していた。
「そういえば」
リセアが思い出したように言った。
「私、日曜日に実家へ帰るわ」
俺は驚いた。
「大丈夫なのか?」
「ええ」
リセアは頷いた。
「もう逃げない。家族と向き合う」
彼女は決意した表情をしていた。
「姉たちと比較されても、もう気にしない」
「私は私。自分のペースで頑張る」
俺は微笑んだ。
「そうか。頑張れよ」
「ありがとう、エリオット」
リセアは俺の手を握った。
「あなたがいなければ、私は死んでいた」
「そんなこと…」
「本当よ」
リセアは真剣な目で俺を見つめた。
「あなたが諦めなかったから、私は生きている」
「感謝しても、しきれない」
俺は照れくさくて、視線を逸らした。
「俺も、お前がいなければ諦めていた」
「だから、お互い様だ」
リセアは微笑んだ。
「そうね。お互い様」
日曜日の朝。多くの生徒が外出の準備をしている。リセアも実家へ帰る支度をしていた。
正門で、俺は彼女を見送った。
「気をつけて」
「ええ」
リセアは微笑んだ。
「また来週」
「ああ、また来週」
馬車が出発する。リセアが手を振る。俺も手を振り返す。馬車が遠ざかっていく。
彼女は、無事に実家へ着くだろう。事故は起こらない。未来は変わった。ヴェスパーが恐れた未来は、もう来ない。
俺は学院へ戻った。静かな学院。多くの生徒が外出し、残っているのは数名だけだ。俺は図書館へ向かった。一人で、ゆっくりと本を読みたかった。
図書館の奥、いつもの席。窓際の静かな場所。俺は本を開いた。だが、文字を追いながら、考えていた。
ループの記憶が、薄れてきている。
一回目のループ。初めてリセットを経験した時の驚き。
二回目のループ。旧校舎の地下を知った時。
三回目のループ。ゼファーを疑った時。
四回目のループ。リセアと初めて協力した時。
五回目のループ。ヴェスパーへの疑念が深まった時。
六回目のループ。地下で術式を見た時。
七回目のループ。グレゴールから真実を聞いた時。
八回目のループ。自分の能力を知った時。
九回目のループ。全員で協力することを決めた時。
十回目のループ。そして、呪いを解いた時。
全てが、少しずつ曖昧になっていく。まるで夢のように。
だが、大切なことは覚えている。
リセアの笑顔。
ヴェスパーの涙。
グレゴールの決意。
そして、みんなで未来を勝ち取ったこと。
それだけで、十分だ。
夕方、図書館を出ると、中庭でミラベル先輩と会った。
「あら、エリオット」
ミラベルが微笑む。
「一人で勉強してたの?」
「はい」
「熱心ね」
ミラベルは俺の隣を歩いた。
「そういえば、最近リセアと仲良くなったわね」
「まあ、少し」
「いいことよ」
ミラベルは優しく言った。
「友達は大切にしなさい」
「はい」
「それに」
ミラベルは俺を見た。
「あなた、成長したわね」
「え?」
「前より、目に力がある。何か大きなことを成し遂げたような」
ミラベルは微笑んだ。
「何があったか知らないけれど、頑張ったのね」
俺は驚いた。ミラベルも、何かを感じ取っているのか。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
日曜日の夜。俺は自室で、窓の外を見ていた。夜空には星が輝いている。美しい夜空だ。
午後十一時。かつてのリセット時刻が近づく。だが、もう何も起こらない。時間は前へ進む。
午前零時。日付が変わる。
月曜日。新しい週が始まる。
何も起こらなかった。
俺は安心して、ベッドに入った。
一週間後。
月曜日の朝。俺は目覚めた。いつもの朝だ。身支度を整え、寮を出る。
廊下でノエルと会った。
「おはよう、エリオット!」
「おはよう」
大食堂で朝食を取る。リセアが遠くの席にいる。彼女は無事に実家から戻ってきた。目が合い、微笑み合う。
週次訓話。グレゴール学院長が壇上に立つ。
「諸君、新しい週が始まった」
いつもの訓話。だが、俺の中で何かが変わっている。
ループの記憶が、さらに薄れている。細かいことは思い出せなくなった。だが、大切なことは覚えている。
リセアと過ごした時間。
ヴェスパーの決意。
グレゴールの支え。
そして、みんなで未来を勝ち取ったこと。
昼休み、俺はリセアと中庭で話していた。
「実家、どうだった?」
「大変だったわ」
リセアは苦笑した。
「姉たちに色々言われた」
「でも、もう気にしない。私は私のペースで頑張る」
「そうか」
俺は微笑んだ。
「それでいい」
リセアは泉を見つめた。
「ねえ、エリオット」
「ん?」
「ループの記憶、薄れてきてるわね」
「ああ」
俺も頷いた。
「細かいことは思い出せなくなった」
「私も」
リセアは微笑んだ。
「でも、あなたと過ごした時間は覚えているわ」
「俺も」
俺は答えた。
「お前との約束は忘れない」
「約束?」
「一緒に、前に進もう」
リセアは微笑んだ。
「ええ、約束よ」
夕方、俺は旧校舎へ向かった。地下への階段。かつて何度も降りた階段。
扉の前に立つ。鍵はかかっている。もう、ここに入ることはないだろう。
だが、俺はこの場所を忘れない。ここで、全てが始まり、全てが終わった。
「ありがとう」
俺は扉に向かって呟いた。
「あの七日間を」
俺は踵を返し、学院へ戻った。
その夜、俺は自室で日記を書いていた。
「十回のループを経験した」
「リセアを救った」
「ヴェスパーとグレゴールと協力した」
「そして、誰も犠牲にせず、未来を勝ち取った」
「記憶は薄れていく」
「でも、大切なことは忘れない」
「俺は、あの七日間で変わった」
「弱い自分を乗り越えた」
「そして、仲間の大切さを知った」
日記を閉じる。窓の外を見る。星が輝いている。
明日が来る。
未来が開けている。
俺は、前へ進む。
数週間後。
授業の合間、俺はリセアと廊下で話していた。
「ねえ、エリオット」
リセアが不思議そうに言った。
「何だか夢を見ていた気がするの」
「夢?」
「ええ。あなたと一緒に、何か大変なことをしていた夢」
リセアは首を傾げた。
「でも、詳しくは思い出せないの」
俺は微笑んだ。
「きっと、いい夢だったんだろう」
「そうね」
リセアも微笑んだ。
「とても大切な夢だった気がする」
記憶は、ほとんど薄れた。だが、感覚は残っている。何か大切なことがあった。誰かと一緒に戦った。その感覚だけが、心に残っている。
それでいい。
過去に囚われず、前を向く。
それが、俺たちが選んだ道だ。
ある日の夕暮れ。俺とリセアは、中庭の始祖の泉の前にいた。
「ここ、好きなのよね」
リセアが泉を見つめた。
「静かで、落ち着く」
「ああ」
俺も頷いた。
「いい場所だ」
水面に映る夕日。穏やかな風。静かな時間。
リセアが俺を見た。
「ねえ、エリオット」
「ん?」
「私たち、何か大切なことを忘れている気がするの」
「そうか?」
「ええ。でも、思い出せない」
リセアは微笑んだ。
「でも、いいの。今が幸せだから」
俺も微笑んだ。
「そうだな」
「ありがとう」
リセアが突然言った。
「何が?」
「わからないけれど、感謝したい気持ちがあるの」
彼女は俺の手を取った。
「あなたがいてくれて、ありがとう」
俺は照れくさくなった。
「俺も、お前がいてくれて良かった」
二人で泉を見つめる。水面に映る空が、少しずつ暗くなっていく。
鐘楼の鐘が鳴る。夕刻を告げる鐘だ。
「行こう」
俺は立ち上がった。
「ええ」
リセアも立ち上がる。
二人で、並んで歩き出す。学院の建物へ向かう。
俺は空を見上げた。夕焼けが美しい。
「ありがとう、あの七日間」
心の中で呟く。
「俺は、忘れない」
リセアが俺を見た。
「何か言った?」
「いや、何でもない」
俺は微笑んだ。
「ただ、これからも頑張ろうって思っただけだ」
「そうね」
リセアも微笑んだ。
「一緒に、頑張りましょう」
二人で歩く。夕暮れの学院を。
未来へ向かって。
そして、時は流れる。
季節が変わり、学年が進む。
俺とリセアは、共に学院で学び続けた。ノエルやゼファー、ミラベルたちとも、良い関係を築いた。ヴェスパー教師は、以前より穏やかな表情で生徒たちを見守っている。グレゴール学院長は、変わらず厳格だが、時折優しい笑みを見せるようになった。
ループの記憶は、ほとんど消えた。
だが、心の奥底に、何かが残っている。
大切な何かを守った。
仲間と共に戦った。
そして、未来を勝ち取った。
その感覚だけが、消えずに残っている。
それで十分だ。
俺たちは、前を向いて生きている。
過去に囚われず、未来を見据えて。
クロノス魔法学院は、今日も変わらず、生徒たちの成長を見守っている。
そして、俺たちの物語は、これからも続いていく。
【終】




