空を飛ぶタチアナは、しかしDCは未だ走らない
12時間以上働き詰めのタチアナに休息を。
滑走路の誘導灯が頭上に見える。戦闘機に乗っていた時の姿勢のまま地球の反対側に転位したためだった。
このまま何もしなければ10数秒後には地上に激突してしまう。両脚を前に振り、その反動で上体は背中の方へと振られ、身体全体が地上に正対した処で両手両足をゆっくりと拡げていく。ウイングスーツの両腕の間、両脚の間に展開された膜が、次第に大気を掴んでいく。
わたしはダーレス空港上空を東の方へとダイブしていくのだった。
わたしが貸与を望んだウイングスーツは、実は推進機付きのものだ。ジェットの様な大掛かりなエンジンではない。吸気口から取り込んだ空気を圧縮し加熱、排気口から吹き出すだけの簡単な魔導エンジンだ。加熱と噴射に魔法を使用している。ただし対気速度が大きくなればなる程エンジン内の空気は圧縮されるため、排気される空気の速度を上げる事ができ、より速くより遠くまで滑空できる仕組みになっている。
高度が下るとともに益々速度が上がっていく身一つのフライトは、恐怖、の一言でしか言い表わせない。もう一言付け加えていいのなら、寒い、だろう。頭からつま先まで、全身を包むスーツの断熱性能をもってしても、厳しい寒さだ。おまけに煩い。大気を切り裂く自身が生み出す、風切り音がとても煩い。一言では無く三言になってしまった。
そんな恐怖と苦痛の時間を耐えた先にポトマック河が見えてきた。高度は100mくらいだろうか。わたしはエンジンを停止した。もう推力はいらない。しばらくは河沿いに飛行する。
あの河のもう少し下流には桜並木があるのだろうな、などという感慨に耽る間も無く河は後方へと流れていったのだった。
遠方にかなり大きい公園が見えてきた。そこ迄に速度を落さないといけない。パラシュートの開傘速度は毎秒80m以下。毎秒100mを越える今の速度をどうやって落すか。上昇するしか減速方法は無いのだ。
揚力を得られる姿勢をとるため両脚を下げる。大きく張った膜の上下を流れる空気の相対速度が大きくなり、僅かずつ上昇していく。公園手前で安全速度に達したと判断したわたしは、パラシュートを開いた。グンっと身体が前に投げ出される。そのまま速度が落ちて行き、ゆっくりと落下していく。足下に見えるのは暗く境界のはっきりしない地平線だ。
前方に投げ出された身体が、ゆっくりとだが下へと向い始めた。それにつれて地面が足下にやってくる。
充分に下方の様子が分ってくると、着地できそうな区画が判別できるようなにった。あそこはゴルフ場だろうか。充分広い空き地だ。わたしはそこを着地地点に定め静に降りて行くのだった。
公園のゴルフ場へ無事着地したわたしは、一つの問題に頭を悩ませていた。目の前にあるのは、きちんと折り畳んだパラシュートとウイングスーツ。これらをどうしようか。ダグラス少尉はフェデックスでなんて冗談を言ってたけれど。
わたしはもう少しだけ悩んで、書き置きと共に、そっと装備を残したのだった。
″TO:ジャパン、ウサ空軍ミサワ基地、テツオ・ダグラス少尉。FROM:貴方のお嬢ちゃん。備考:着払い″
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この公園はDCの北西側に位置する。公園を出たわたしは今、東へと進んでいる。DCの中央ではなく北東側へ進んでいるのは、そこにETO軍情報部のセーフハウスがあるからだ。そこへ向う目的は三つある。
一つ目は、そこに居る幻影魔法の使い手に、わたしの変装をお願いする事。
二つ目は、ETO軍DC支局への繋ぎをつけてもらう事。
三つ目は、今背中に重みを感じさせている、ウサ空軍ミサワ基地から借りた装備の返却手続きをする事、だ。
そう、一度は捨て置いた装備だが、結局持ってきてしまった。わたしは罪に問われそうな事はしたくはないのだ。
月明かりのある深夜の街路の中、一軒の民家が見えてきた。通りに面したポストにはクロードの名が見える。玄関までのアプローチを歩くわたしから見る窓からは、部屋の灯りは見えなかった。もう真夜中だ、起きている者など誰もいるまい。と、周囲に思わせるのがこの手の組織の常識だ。中には24時間体制で誰かが起きている。だから、わたしは躊躇せずドアをノックした。
「誰だぁ、こんな時間に。迷惑を考えろよ」
少しだけ待たされた後に、眠たげで迷惑そうな口ぶりの男性が玄関を開ける。想定通りの対応だ。
「夜分遅くにすみません。わたしユピテル叔父さんの使いでやってきたターニャと言います。道に迷ってこんな時間になってしまいましたが、叔父さんから内緒のメッセージを預って来ました。ちょっとだけお話しさせてもらえませんか?」
相手は迷惑そうな顔を崩さないまま、ユピテルからか、と鋭く呟き
「しょうがねえな、ちょっとだぞ、入れ」
とわたしを中へと入れてくれたのだ。
玄関を閉じた彼は、先程とは打って変わって引き締めた表情でわたしに、ついて来い、と指示した。廊下を進んで、一つの部屋で室内の照明を着けそのまま放置。更に進んで、キッチンの床下収納を開け、地下へと降りていった。収納庫には更に地下へと続く階段があり、彼はその階段を降りていった。わたしは、収納庫の扉を下し、彼に続いて降りて行ったのだった。
ほの暗い照明の灯った階段を降り切ると、そこは様々な電子機器に囲まれた部屋だった。部屋の中央にはテーブルと椅子が置かれていた。椅子の一脚には女性が座っている。彼女の手にはハンドガンが握られていて、銃口はわたしに向けられていた。
「身分証を確認させてもらえるか?」
と言って手を差し出す彼にわたしは、急な動きをしないよう注意しながら取り出した身分証を渡す。受け取った彼は幾つもある装置の一つに身分証を翳し照合していった。
この手の照合データは、ETO本局での変更差分を各支局・セーフハウスに配布する形式を取っているため、リアルタイムでの本局への照会はしなくて済むようになっているのだ。だから、わたしが今DCに居る事は、何処にも漏れない。難点は、支局・セーフハウスのデータベース容量を圧迫する事だろう。
続いて、生体認証のための各種採取を行なった彼は、張り詰めていた緊張を解すかのように、肩を大きく下した。
「ETO軍情報部アーフ支局配属タチアナ・ポポフ君で間違いなし。エリー、銃を下していいぞ」
「わかったわ、ケビン」
エリーと呼ばれた女性もほっと一息吐いてハンドガンを持つ手を、腕毎下した。
「ありがとうございます。わたしは今確認してくださった通り、ETO軍情報部アーフ支局配属タチアナ・ポポフ。現在特殊任務を遂行中で、それを成功させるため、このセーフハウスを訪れました」
「俺はケビン・クロード。こちらはエリー・ネーター。便宜上、夫婦で通している」
ケビンに紹介された女性は軽く頷いた。
「それで、任務内容とここでやって欲しい事を教えてくれ」
わたしは、RTO軍の情報戦争とその目的、それに対するETOの対応方法、その為に必要な事を、なるべく簡潔に彼等に伝える。彼等は流石にこの道のプロらしく、眉一つ動かさずに聞き終えた。
「その役はエリーが適任だな。装備の事は俺がやっておこう。エリー、エミリとしてDC支局のジョンソン支局長に渡りを着けて。ポポフ君を彼に会わせよう。ウロボロスへの面会は、支局長から手配してもらおう。これでいいかい? ポポフ君」
わたしは大きく頷いた。もう少しで肩の荷が降りそうだ。なるべく気にしないようにはしていたが、矢張り責任の重さに、身も心も押し潰されそうだったのだ。
「ところで、疲れたんじゃないか? アーフを出てどれ位経つんだ?」
暫く考えたわたしは
「12時間位、ですかね。真夜中に向こうを脱出して、今はまた真夜中になってしまいましたが」
「食事は?」
「向こうの19時に夕食を。だから17時間前ですが、今は兎に角眠いです」
カーリ宇宙基地を発ってから10時間近く、ヴェロニカ隊長の宣言通りなら、後38時間以内に通信を何とかしなくてはならないが、これ以上のオーバーワークは、逆にミスを招くだろう。致命的なミスを犯さないためにも今は休む可きだ。
彼等の勧めでわたしは久し振りにベッドでの一時の休息をとったのだった。




