コロニー内は未だ走らないタチアナ
今話のタチアナは走らせられませんでした。残念。
「それじゃ、この小型艇に乗ってくれ」
そう言ったのはこのマスドライバーの運行責任者だ。予定外の運行にちょっと顔を顰めているが、月面基地司令の命令書があるのだから我慢してもらいたい。
「なあ、タチアナさんだったか。予定外だから気分を悪くしるんじゃないんだよ。想定外の運行だから苦り切ってんだ」
どういう事?
「規定以上の加速を掛けなきゃいかん。それに、滑走路内で転位させなきゃいかん。そういう命令だからな。どれも、運用設計に無い事だ。お前らが如何なろうと知ったこっちゃないが、ここの施設に何かあったらやり切れんという事だ」
「……すいません……ご迷惑をお掛けします」
はー、と溜息を一つ零した責任者は諦め顔で俯いた。
「お前らが悪いんじゃないのは分ってるんだがな。愚痴の一つも吐きたくなる……まあ、乗ってくれ。滑走路まで牽引する」
わたしとボブは大人しく小型艇に乗り込んみ対Gシートに身体を固定した。例のプロテクション付きのものだ。
そのまま小型艇は牽引されて行き、マスドライバーの発射位置に乗せかえられた。
「ボブ。わかってると思うが向こうに飛行計画は通告されてない。しくじるなよ」
艇内のスピーカーから責任者の声が聞こえる。うん? これって、密入国? 相手は国じゃないけど、そういう事になるのか?
「ええ、分ってますよ。潜入訓練通り向こうのバックドアまで保安に見付からないよう、上手くやります」
あー、有事を想定した訓練があるんだ。
「幸運を祈る。発射シーケンス開始」
スピーカーの音が、ブツっと途絶えた。と同時に急激な加速が身体全体を後ろへと押し付けた。コロニーの速度ベクターに合せるようベンドされた滑走路は更にわたしの身体をシートの座面に押し付ける。
周囲はまだ滑走路の壁面に囲まれているのに、不意に加速感が消えた。
「転位開始」
眼前の景色が巨大な壁に、一瞬にして切り替わる。右には緩やかなカーブが星景を断ち切っている。左には巨大な湾曲した壁が星景に突き出していた。全体を想像してみると取っ手無しのカップが轆轤に乗っている図になるのではないだろうか。
対Gシートから操縦席へと移ったボブは、何やら色々とスイッチを操作し、スティックを動かしていた。すると徐々に目の前にあった壁が頭上に移動していく。いや、この小型艇がピッチ方向に回転しているのか。壁と平行になった処で艇の回転が止まった。と同時に、体重が少しだけ蘇えったような気がした。
ボブはまた何かのスイッチを操作していた。何をしているのか聞きたかったが、彼の邪魔をしないよう黙っていた。
「よし。これからバックドアの一つに接近する」
次第に細部が見えてきた壁の一角がスライドし、艇が通れる程度の開口部が現れる。その開口部を、艇は減速しながらゆっくりと通り抜ける。そして柔らかな何かに包まれる様にして艇は停止したのだった。
「ところで、成行とは言え、わたしがバックドアの位置を知るのは不味いんじゃないですか?」
「いや、この位置は軍の借り上げている施設として公開されているから、知ってても可笑しい事じゃないよ。ただ、平時に計画書の提出も無くこういう使い方をすると、こういう風に熱烈に歓迎されるって言うだけで」
艇を降りたわたしとボブの目の前には、銃口をわたし達に向け取り囲む兵達が居るのだった。わたし達は無抵抗の証として両腕を上げている処だった。
ちなみに、開口部は既に閉じられ、この空間は与圧済みだ。
「この歓迎は何時迄続くの? サラーム中尉」
「俺が確認する迄だ」
兵達の後ろから渋い男性の声が聞こえてきた。彼は兵達の間を縫ってわたしたちに近付いて来る。
「俺はケイン。ETO軍スペースコロニー・ケルン駐屯地司令だ。久し振りだなサラーム中尉。だが知りあいではあるが、確認が取れるまでは、この歓迎は続けさせてもらう」
「承知しております。ケイン司令」
ボブは、両腕を上げながら自分の簡易宇宙服の腰部を見る。
「自分の腰に付けているバッグに、グラショウ月面基地司令からの指示書が入っていますので確認願います」
兵士の一人が、司令の合図によってボブのウエストバッグから一枚のカードを取り出し改めた。そして、軍の標準規格のカードでありグラショウ司令が発行したものである事を確認すると、スキャナ毎ケイン司令に手渡す。
「ふん、こういう風に事態が展開している、と。だから君達を潜入させたという訳だな。宜しい。ここにウーレンベック主任を呼ぼう」
漸く両腕を卸す事ができ、ほっとしたわたしにケイン司令は声を掛けてきた。
「タチアナ・ポポフ君と言ったか。グラショウ司令の姪御さんという事で身許確認は取れている訳だが、念の為ここのデータベースとの照合をさせてもらえなだろうか」
「勿論、構いません。ただ、その後で結構ですのでシャワーを使わせてもらえませんでしょうか」
怪訝な顔をしたケイン司令に続けて言い訳をする。
「ここ迄、ちょっと走り詰だったので、汗を流したくて」
「あぁ、そういう事か。良いだろう。後で案内させる。まずは照合だ。ついて来てくれ」
連れて行かれた一室で、虹彩、指紋、声紋、皮膚組織による照合をパスしたわたしは、シャワールームを使わせてもらった。今居る、軍が借り上げている区画というのは遠心力による人工重力の無い区画だった。無重量でのシャワーは、ミストによる洗濯だ。洗濯物はわたし。攪拌されるのはミスト。風魔法と水魔法の応用だそうだ。
シャワー後、女性兵士に案内され、辿りついたのは10人程度が入れる広さの一室だった。室内にはケイン司令とボブ、そして見知らぬ女性が一人居た。
「遅くなりました」
「いや、問題無い。紹介しよう、今入室したのがタチアナ・ポポフ君、そしてこちらはジェーン・ウーレンベック主任だ」
わたしとジェーンさんは互いに挨拶を交した。全員が席に着いた処でケイン司令が口火を切る。
「さて、先程も少し説明したが、RTO軍が最新型量子コンピュータを用いてカーリ宇宙基地に情報戦を仕掛けて来た。目的は同基地の打ち上げ施設の占領。次段が月面基地の制圧・占領だ。ここ迄は良いな」
皆を見回すケイン司令にわたし達は頷いた。
「現状は、カーリ宇宙基地に駐留中のヴェロニカ・ベガ隊長の判断により、最大48時間、宇宙基地は使用不能の状態にあるものと見られる。間違い無いか、タチアナ君」
「はい、ヴェロニカ隊長が基地管制官にそう指示しているのを聞きました。今から約……2時間程前の事になります。それが成功したかどうか迄は確認が取れていません」
そうか、と呟くケイン司令。
沈黙が室内に降りる。
再びケイン司令はわたしに訊ねてきた。
「最終目的はここだと思うか?」
「情報部ではその様に判断しています。RTOは月の裏側に基地を構えています。あの地のマスドライバーはL5への輸送がメインとなります。対してETO月面基地は月の表側にありL4が近い。RTOは両方を得る事で地球近傍の宇宙空間の独占を狙っていると予想されます」
転位魔法が使える現状、地球から低軌道や静止衛星軌道へ物資を運ぶよりも月軌道への方が低コストで済む。何故なら月軌道の周回速度が他の内側の軌道速度より小さいから。
速度差が小さい方が地球上での加速に掛けるコストが少くてすむ。わたしの場合だって2〜3Gで30秒程度の加速度で月までやってこれたのだ。
「確かに、月資源、コロニーという環境資源や位置的優位を独占されるのは厳しい」
「後、彼の機構の加盟国に於ける人口問題の早期解消もあると予想しています」
「コロニー移住か……」
RTO加盟国では人口増加による貧困が社会的問題となっている。ETO側への難民の増加など、こちら側でも座視してはいられない問題なのだ。彼等は我々に借りを作る事なく、人口問題を解消するため、L4を狙っているというのが情報部の見解だった。
「現状は大体理解しました。それで、私が呼ばれたのはどういう理由からでしょうか」
ジェーン・ウーレンベック主任は徐に口を開いたのだった。




