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月面を走るタチアナ

 コンテナの二重扉を潜る前、上を見上げると首が痛くなる程高い塔が見えた。その先端は湾曲を描いている。この中空の塔が発射台だ。その向こうに少し欠けた月が見える。


「中へどうぞ」


 男性に声を掛けられ、扉を潜ったわたしは幾つものきっちりと固定された貨物の間を歩いていく。


 辿り着いた一角には、あまり使われていない様子のベッド状のシートがあった。


「こちらに横になって下さい。これから固定用プロテクション魔法を掛けます。若干身体が浮きますが、全方向の衝撃を吸収するためです。さあ、どうぞ」


 ベッドに横たわるわたしを確認した男性は、ベッドに魔力を流していく。次第に透明なジェルに包まれていく感覚が全身に感じられた。


「呼吸は苦しくないですか。よかったです。向こうへ到着したら、自動解除されますのでご心配無く。自分はこれで退出しますね。あ、音声アナウンスはオンにして行きますね。無事を祈ってます。では」


 そう言って男性はコンテナを出ていった。


 ガガガ、ガコン、キンキンキン


 二重扉が閉じ、ロックされる音がコンテナ内に響く。


 辺りを見回しながら発射を待っていると、合成音とは思えない女性のアナウンスが聞こえてきた。


「打ち上げ5分前。これより打ち上げ位置までリフトアップします」


 エレベーターに乗った時の、あの押し付けられる感覚がきて暫くして浮遊する感覚がくる。打ち上げ位置に着いたのだろう。

 ひとつ深呼吸をする。ありがとう、心の準備が出来るようにアナウンスをオンにしてくれたあの男性にお礼を言う。


「打ち上げ1分前。これより重力魔法による段階的浮揚を開始します」


 最初は気付かない程の上昇の仕方をしていたが、次第に身体が軽くなってきた。たぶん100m程浮上して、毎秒数mの速度を得たのだろう。


「打ち上げを開始します。これより電磁加速を開始します。最終速度は凡そ毎秒600m、加速時間は約30秒の予定です」


 浮遊感覚が一転、全身が背中側へ押し付けられる。その力は段々と強なっていき、最終的には2Gから3Gの加速がかかる筈。


「これより最終シーケンスに入ります。電磁加速装置の偏向により最終速度ベクターを月面基地の速度ベクターに合せます。ベクターが一致した処で加速を終了、転位魔方陣を起動します」


 そう。転位魔法があるのに何故こんな打ち上げが必要なのか、の答えがここにある。あの魔法は、速度差を埋められない。必要な加速をしないで月面基地まで転位すれば、毎約秒600mの速度で基地内を疾駆してしまう。音速の2倍近い速度で基地内を移動すれば、死亡一直線間違い無し。転位魔法で速度差を埋める術式を、今だ人類が発見できていないのが、実に惜しいと思う。


「偏向に入ります。偏向終了後加速を停止します」


 ぐぐっと頭の方向へ引っ張られる。が、それも数秒で終わる。背後へと押し付ける力が少しづつ柔らぐ。


「電磁加速を終了します。終了後転位を起動します」


 アナウンス終了後直ぐ、浮遊感覚が身体を襲った。と、思う間もなくアナウンス。


「転位起動……当機は目的地、月面基地9番滑走路に着陸しました。牽引車が到着する迄、今暫くお待ち下さい」


 姿勢を一度も変えていないにも拘わらず、わたしの身体は足下へと引っ張られている。月の重力が働いているのだった。約30秒の旅程はこうして終りを迎えたのだった。


 プロテクション魔法の消えたベッド、いや、今や立台となったそれを離れたわたしは、貨物の箱の上に降り立った。乗り込んだ時は前後左右だった貨物は今は上下左右に。

 ちょっとした方向感覚のずれを修正するのに苦労しながら、わたしは扉が再び開かれるの待つ。ガコンっという音がし、コンテナが移動するのを感じる。

 そして……


 シュー、ガガ、コン

 コンテナが解体される音が聞こえる。

 天井が上に持ち上げられ、前後左右の壁が遠ざかる。


「おーし。皆、貨物を運び出せ。うん? 目が可笑しくなったのか? 人が居るように見えるんだが」


 予想外の荷物(わたし)を見付けた男性の声が、わたしの耳に届いた。


「えーと。密航者、な訳ないよな。あんた誰?」


 呆気にとられた彼に、わたしは挨拶と目的を告げる。


「わたしはタチアナ・ポポフ。ETO軍情報部所属でカーリ宇宙基地配属のヴェロニカ・ベガ隊長の指示で月面基地グラショウ司令への伝令を言付かっています」


 ふたりの高官の名前を聞いた彼の表情は一瞬にして引き締まり、わたしへの目付きを鋭くする。


「何か、身を証すものを所持しているか?」


 わたしは、胸のポケットから一枚の書状を取り出し、彼に差し出した。それは、管制室で彼女から預かったものだった。


「ちょっと待て。今照合する」


 何時もは使用する事の無いだろうスキャナを、書状の差出人バーコードに(かざ)した彼は納得の表情を見せた。


「確認は取れた。えーと、タチアナ君? 俺についてきてくれ。おーい、お前ら。荷は何時もの通りにやってくれ。後で俺も確認するからな! 手を抜くなよ!」


 作業員に声を掛けた男性は、顎をしゃくって、わたしについて来るように合図したのだった。


 男性の後をついて行く。地球の重力に慣れたわたしにとって、月面基地のそれは普通に歩くのさえちょっとした苦労だった。一歩の歩幅が大きいし、直ぐに浮かび上がってしまうのだ。普通に歩いているつもりでいると空中ウォークを晒してしまう。

 時折わたしを振り返り様子を伺っていた男性は、笑いを堪えるのに必死だった。わたしの機嫌は急降下する。


「すまん。ここに来た者は、誰もが通る事なんだ。俺も数か月前はそんなだったよ。暫くすれば慣れるさ」


 謝罪を受けた処で、馬鹿にされたようなこの気分は回復する事は無かった。


 幾つかの角を曲り、幾つかの階段を降りた先にその部屋はあった。男性がインターホンへと話しかける。


「ボブ・サラームです。今宜しいでしょうか」


 男性の名前はボブと言うらしい。インターホンからは入室を許可する声が聞こえた。


「入ってくれたまえ」


 ロックが解除される音が聞こえると、ボブはドアを開け、わたしに入るよう促す。

 部屋に入ったわたしは、目の前の人物に驚きの声を上げた。同様にその人も声を上げる。


「シェルダン叔父さん!」

「ターニャ!」


 目の前の人物は、わたしの母方の叔父、シェルダン・グラショウその人だったのだ。

 叔父は、過去の世界的物理学賞を受賞した偉人と同姓同名な所為で、若い頃は苦労したようだが、今やETO月面基地司令に迄登り詰めた人だった。


「司令、彼女とお知りあいですか?」


「ああ、私の姉の娘だ。タチアナ・ポポフと言う。今はETO軍情報部に所属している」


 身内に出会えた事でほっとしたわたしは叔父さんに情報を伝える事にした。


「叔父さん、いえ、グラショウ司令。情報部とヴェロニカ・ベガ特殊部隊隊長からの伝令を伝えたいのですが宜しいでしょうか」


 急に引き締まった表情を取り戻した司令は、ボブに視線を向ける。


「ボブ、いやロバート・サラーム中尉。君も聞くように。タチアナ君。報告してくれたまえ」


 わたしは、情報部の得たエニグマの詳細と、ヴェロニカ隊長の伝言を司令に伝える。聞く内に険しい縦皺を眉間に寄せた司令は、考えを纏めるためか、しばし無言になる。

 やがて徐に口を開いた司令は、わたしに問い質す。


「最大48時間。そうヴェロニカ君は言ったのだな?」


 肯定の返事を返したわたしに司令は新たな命令を下した。


「タチアナ・ポポフ君。ロバート・サラーム中尉。君達に命令する。今から1時間後、L4宙域にあるスペースコロニー・ケルンへ行き、ウーレンベック研究主任に会ってくれ。彼は情報工学、特に量子コンピュータと暗号に関するスペシャリストだ。彼にエニグマへの対抗手段を開発してもらうよう要請する。彼なら直ぐにでも解決方法を見付けだすだろう」


 そう言った司令は、ふと気付いたように付け加えた。非常に気不味そうな面持ちだった。


「あー、その、申し訳無いんだが。予定に無い転位用マスドライバーまでの車両を出す事は、無理なんだが……。ほら、監視の目は常にあるのでね……だから……」


「あー、はい。走って行け、という事ですね……それも遠回りしてですね……」


「う、うむ。ま、ひとつ、よろしく頼む」


 何とも締まらない命令に、力の無い返事をわたしは返したのだった。


 30分後。司令の指示書を携えたわたしは、宇宙服を着込んでボブと共に月面基地の与圧室の一つに居た。


 シュー


 空気の抜ける音が小くなっていく与圧室内で、ボブに最終確認をとる。


「この北側ハッチから1Km程北上。その後、東へ転進。更に1Km進んだ後、月基地の南1Kmにある9番マスドライバーへ向けて走る、でよろしいですね」


「ああ、そうだな」


 接触通信越しに聞こえるボブの声は、いささか情けないものになっていた。多分わたしに対する同情が込められているのだろう。或いは、貧乏(くじ)を引いた自分への憐憫だったのかもしれないが。


 サー


 ハッチが開く。

 わたしたち二人は、真空の月面へと歩きだした。


 月面を走るのは、矢張り大きく勝手が違う。速く走ろうと力を込めると高く宙に浮き上がってしまうのだ。宙にある間は何もできない。そして着地した反動で再び高く宙に上がってしまう。


 前へ前へと速度を上げるためには、地球上での感覚より前のめりにならないといけないようだった。ただ、月面基地の周辺は、どうも細かい砂が堆積しているようで、宇宙服の靴底は上手く地面を蹴ってくれなかった。


 そう、それに宇宙服が身体の動きをいたく制限してくるのが非常に鬱陶しかった。脚を上げるにも、腕を振るにも一々邪魔してくるのだ。かといって身体強化を使おうものなら、服を壊してしまいそうなのだ。上手く強化できたとして、結局足下はずるずる滑ってしまうので前へ進める力は半減してしまう。


 全力を出しても報われない成果。それは肉体的な疲労以上に、精神的な疲労を覚える苦行であり、わたしのストレスはどんどんと溜って行くのだった。


 わたしは心の中で叫んだ。

 誰か! 重力魔法で普通に走れる、身体強化に耐える宇宙服を作ってちょうだい!


 そんな破裂寸前のストレスを抱えながら、北へ、東へ、南南西へと走っていった先に、9番マスドライバーの長大な滑走プラットフォームが見えてきたのだった。


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