物が多すぎるあの家
「刑務所みたい」
部屋を見回してつぶやいた。光が屈折する障害物もなく、床に窓の形の日向ができている。死角のない空間が心地よい。新しく引っ越してきた部屋は何もない。何も置かないことにした。
あの家は物が多すぎた。
「お母さん、お母さん」
ドア越しに、か細い泣き声がして目を覚ました。傍らに寝息を立てている男の顔があった。六年半ぶりに再会した成田君。同じ年なのに童顔でずっと年下に見える。まだ独身と聞いて、懐かしさを言い訳して部屋に連れこんでしまった。四十過ぎの女が酔った勢いですることではないと思いながら、時間が巻き戻されたようで楽しかった。
成田君はすやすやと寝ている。わたしは彼を起こさないようにそっとベッドを出た。ドアを開けると、鼻にツンとくる匂いがして、濡れたパジャマのズボンが目に入った。三歩先、トイレの前の床に小さな水たまりができている。
「もう勘弁してよ」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
華奢な肩を震わせて泣きじゃくるその存在に、怒りがこみ上げてくる。巻き戻すことのできない現実の日々がそこにあった。
「もう自分でやって。洗濯はしてあげるから、着替えてかごに入れておいて。それぐらいはできるでしょ」
「うん。ごめんなさい」
ため息をつきながら閉めたドアの音に成田君が目を覚ましてしまった。
「何? 誰かいたの」
「ちょっとね」
「俺、聞いてないよ。真依さん独りだと思ったから」
「あれは」
「ごめん。無理」
寝てると思ったら二人の会話を最初からちゃんと聞いてた。成田君は逃げるように服を着て出ていった。追いかける気力はなかった。説明するにも面倒臭い。違うと反論しようとしたが、何も違わない。この家にいるのは一人じゃないという事実はどんな説明をしようとも変わらない。玄関はトイレとは反対側だ。成田君は水たまりには触れずに出られただろう。
もう、うんざりだ。
この小動物に縛られる毎日。こんな生活になる前に出会った成田君に再会して、あの頃に戻ってもう一度人生やり直せるような気持ちになっていた。けど、そんなに甘くなかった。過去に戻った分、過去から現在に至るまでにたどった道までちゃんとおさらいしてる。そんなに甘くないという諦めの感情までも再確認してしまった。トイレの前の床をフローラルアロマのフロアシートで拭きながら涙がこぼれた。この花の匂いを何回嗅いだだろうか。
ただ惨めだ。ただ、ただ、惨めだ。
床に涙が落ちた。アロマシートでまたそれを拭いた。
床をぬらさないように顔を上げると、一部がガラスになっているドアに絵本に出てくるような老婆が映った。髪にも肌にもつやがない枯れ果てたわたしだった。わたしはこんなに老け込んでしまったのかとガラスに映る自分に近づくと、奥の部屋にいる小動物の姿が見えた。水槽の中にいる気持ち悪い生物を見ているみたいに不快な気持ちがこみ上げてきた。
「あいつさえ、いなければ……」
わたしは、フロアシートを捨ててドアの向こうへ行き、自分を「お母さん」と呼ぶ存在の細い首に手をかけた。
「助けて」と泣き叫ぶ声が届き、二人は引き離され、小動物は施設に入れられて生きている。