三話、奈良編
おはようございます。
今回は奈良時代でやってみようかな。奈良時代で有名といったら中大兄皇子や大海人皇子でしょうか。中大兄皇子は本来の名を葛城皇子と言いました。
名に「中」がつく事から彼は嫡男ではなかったのではと言っている学者の先生もおられます。という事は兄がいたとなりますね。けど兄は誰だったのか?
これについて一番有力なのが弟だったと思われていた大海人皇子です。大海人皇子の実父が高向王であるとか。つまりは中大兄皇子と大海人皇子は異父兄弟となりますね。
また、大海人皇子は朝鮮系のいわゆる渡来人であったとか諸説ありまして。さて。中大兄皇子の両親は舒明天皇と斉明天皇になります。
舒明天皇はまたの名を田村皇子と言いました。斉明天皇は宝皇女と言います。皇位を巡る権力争いにより高向王が暗殺され、舒明天皇はその妃であった宝皇女を自身の妻にしました。その二人の間に生まれたのが中大兄皇子――葛城皇子です。
ちなみに宝皇女は高向王との間にも一子をもうけていました。この一子が漢皇子――後の大海人皇子です。
とある小説で大海人皇子はかの厩戸皇子の孫に当たるとありましたが。本当かどうかは定かではありません。
大海人皇子の実父であるらしい高向王は厩戸皇子と酢香手姫皇女の間に生まれた一人息子であったらしいのですが。酢香手姫皇女は実は伊勢斎宮であったので不義の子ということになります。高向王はそれを知った推古天皇により暗殺されたと言います。
残されたのが宝皇女と漢皇子でした。宝皇女は漢皇子までが命を狙われると危惧し、早産で亡くなった息子と取り替えをします。これにより漢皇子は大海人皇子として育ちました。
大海人皇子は生前の厩戸皇子にそっくりな容貌に育ちます。これにより舒明天皇は大海人皇子が自身の子ではないと気づきました。彼は暗殺されかかります。いち早く気づいた家臣により一命は取り留めましたが。大怪我を負い、生死の境をさまよいました。
無事に怪我は治り大海人皇子は健康な生活には戻れましたが。父の舒明天皇が間もなく崩御します。次に即位したのが母の宝皇女でした。後の斉明天皇です。大海人皇子はやっと都に呼ばれました。ところが母からは「暗愚のふりをしなさい」と命じられます。その通りにした大海人皇子でしたが。
……これが私の読んだ小説のおおまかなストーリーです。中大兄皇子は娘である大田皇女と鵜野皇女の二人を弟の大海人皇子(実は異父兄)の妃にさせます。
大田皇女は後に大来皇女と大津皇子を生みましたが。若くして亡くなります。大来皇女は史実上の初代の伊勢斎宮になった女性として知られていますね。
大津皇子は明るく朗らかで文武両道の美青年に育ちますが。それにより鵜野皇女――後の持統天皇に目をつけられて悲運の最期を遂げます。
鵜野皇女は大海人皇子――天武天皇との間に一人息子をもうけました。草壁皇子がそうです。草壁皇子は皇太子になりましたが。気が弱く神経が細い青年であった彼はいとこで異母兄弟であった大津皇子の死をきっかけに精神を病みます。妻である安倍皇女は苦労をしたと思います。
草壁皇子は二十七歳の若さで亡くなりました。まだ息子の軽皇子は幼かったので安倍皇女が即位します。元明天皇として彼女は執政を行いました。
次代も女性で即位したのが娘で軽皇子の姉の元正天皇です。氷高皇女と実名は言いました。
いかがだったでしょうか。次回はどの時代にしようかな。
お読みいただき、ありがとうございました。