二話、飛鳥編
おはようございます。もしくはこんにちは。
入江の歴史談話も二回目になりました。今回は飛鳥時代についてお話したいと思います。
飛鳥時代で有名といったら推古帝や聖徳太子――厩戸皇子でしょうか。
まずは推古帝について。本名を額田部皇女と言いました。かつては天皇――当時は大王でしたが。敏達天皇の妃であったと言われています。後に竹田皇子や菟道貝蛸皇女などをもうけていますが。竹田皇子は若くして亡くなっていました。そのために彼女が蘇我家の勧めもあり大王になります。皇太子には甥に当たる厩戸皇子を指名したのでした。
あまり知られていませんが。厩戸皇子は正妃に菟道貝蛸皇女を迎えています。けれど子供には恵まれなかったようです。他にも蘇我刀自古郎女、膳部菩岐々美郎女と数人は妃がいました。
蘇我刀自古郎女には山背大兄王が生まれており彼が厩戸皇子の後継者になっています。膳部妃が子沢山で七人の子の母となっていますね。
……さて。厩戸皇子は政治改革を色々としています。十七条憲法などを制定し仏教を取り入れたりと柔軟性のある政治家としての一面もありました。遣隋使を遣わして大陸の文化などを取り入れる事にも積極的でした。
血筋や身分にこだわらずに個人個人の能力などを見て徴用するというやり方も当時としては斬新ではありましたが。厩戸皇子は現代にも通ずる考え方を持っていたのには驚かされます。
さて。推古帝にもふれてみようと思いますが。推古帝は日本で最初の女帝としてよく知られていますね。彼女は先に述べた通り敏達天皇の妃の一人でありました。ところが先の皇后であった広姫(蘇我家の出身)が亡くなった事により次代の皇后に選ばれます。十数年後に敏達天皇が崩御しました。推古帝――額田部皇女も殯宮もとい現代でいう喪に服します。ところがそんな彼女の元に闖入者が現れました。親戚筋である穴穂部皇子が押し入ってきたのです。無理に関係を迫られ、危うい目にあいました。三輪逆という家臣が間に割って入り皇女は事なきを得ますが。逆は腹を立てた穴穂部皇子の家臣により殺されてしまいました。皇女はこの一件には複雑であったろうなと思います。
後に額田部皇女は三十九歳にして大王になりました。女帝の中でも一番在位期間が長く長命であったと言われています。
享年は六十代であったとか。ちなみに厩戸皇子は四十九歳だったと伝えられていますが。
子の山背大兄王は蘇我入鹿により追い詰められて命を落とします。厩戸皇子の血筋はこれにより途絶えてしまいますが。そのさらに十数年後に蘇我家の血筋も途絶えました。
大化の改新により当主であった入鹿が中大兄皇子達の手で暗殺されたせいでした。
物部守屋の娘が蘇我入鹿の祖父である馬子の妻であった事はあまり知られていませんね。馬子の妻は太媛といったとか。敵対関係にあった蘇我家と物部家ですが。意外にも親戚関係にあったと知った時は驚いたものです。ちなみに妻の太媛は蝦夷の母でもありました。蝦夷の妻も物部布都姫といい、入鹿の実母であったと言います。
それではこれくらいにします。お読みいただき、ありがとうございました。