卑屈な令嬢の転落人生1 後編
古びた離れに住みはじめた美しい令嬢をコメリ男爵家の使用人達は恐れていた。横暴なウルマ伯爵家を知る使用人達はどんな無茶な要求をされるかと2日間は警戒していた。ただ3日目には全く存在感がなく自分達に接触しないことに気付きいつもの日常に戻った。
輝かしい金髪のオレンジ色の瞳の美少年と水色の瞳の美少女を見かけても、シャーロットは姿を見せない。シャーロットが訪問する前と変わらない時間が流れ存在を忘れられていた。
だがシャーロットの存在を忘れていない者もいた。
執事長はミズノを見つけて声を掛ける。
「不自由はありませんか?お食事の手配をしましょうか」
「お気遣いありがとうございます。お嬢様は満足した生活を送られており、深く感謝しております。食事は私が用意致しますので、心配いりません。失礼いたします」
綺麗に礼をして、ミズノは呼び止める隙を与えずに立ち去る。執事長はレイモンドがシャーロットの存在を忘れているので現実に戻すために、片付けた婚姻証明書をレイモンドの執務机に置いた。
昼食から戻ったレイモンドは机の上の婚姻証明書を音読した。そして補佐官にも音読させ、ようやく現実を認め力なく椅子に腰かけた。
「俺は彼女をどうすればいいんだ・・・」
頭を抱えて呆然と呟くレイモンドに補佐官は苦笑する。
「坊ちゃんが決められないと私達は動けません。様子を見にいかれてはいかがですか?」
婚姻して5日目だった。本人の希望でも未成年の令嬢に古びた離れを与えて様子を見に行かないのは大人としても夫としても非常識である。
補佐官もシャーロットの生存が心配になり金髪の少年に声を掛けると、満足に暮らしているので干渉不要と丁寧な言葉で言われた。正直、邪魔するなと言われた気がしていた。
唯一干渉が許される人間はずっと現実逃避していたが、大人としていつまでも付き合っていられなかった。
補佐官に背中を押されてレイモンドは離れに足を運ぶ。使われていない離れは古く建て直しはシャーロットに断られ、必要な物もないと綺麗な笑顔で断言され何も言えなかった。レイモンドはシャーロットの笑みに免疫がなく逆らえなかったが家賃にと大量の金貨を渡されたのは必死に断った。
使用人宿舎よりも古く雨漏りしそうな離れは何度見ても公爵令嬢が住む場所には見えない。レイモンドさえ住みたくなかった。
意を決してレイモンドがノックをしても声がなく、古びた扉を開けて中に入ると小さいテーブルがあり、床には大量のクッションが敷き詰めてある。部屋の隅でクッションに囲まれて犬のヒノトを抱いて眠っているシャーロットがいた。
ミズノは魔法で必要なものをモール公爵邸から運んでいた。王都に足を運ぶなと言われているのはシャーロットだけである。シャーロットは断罪が怖いので離れから出るつもりはなかった。兄が用意してミズノに持たせた好物の苺を食べ、レイモンドからの呼び出しもなく恐怖を忘れたシャーロットはヒノトを抱いて惰眠を貪っていた。
レイモンドはあどけない顔で眠るシャーロットを凝視した。レイモンドの知るシャーロットはいつも堂々としていた。美人で独特の空気感を持つ高嶺の花は目の保養で憧れている男友達も多くレイモンドの友人もその一人だった。
シャーロットはゆっくりと目を開けた。
「お兄様も一緒にお昼寝?」
ぼんやりとあどけない声で誘い、無防備に笑う顔にレイモンドは目を奪われる。シャーロットはいつもは頭を撫でる兄の反応がないことに首を傾げて、目を擦る。
「お兄様?」
シャーロットは見覚えのない瞳と目が合い、兄ではなくレイモンドと気付き恐怖に襲われた。
「どうしよう。ヒノト、起きて。男爵様が・・。逃げないと、やっぱり殺される。お兄様達にお手紙を書いておけばよかった。ヒノト、」
真っ青な顔のシャーロットは眠っているヒノトを強く抱きしめて混乱していた。レイモンドも真っ直ぐな黒髪の声も口調も別人のようなシャーロットに混乱し固まっていた。
先に動いたのはシャーロットだった。起き上がり、慌てて逃げようとするとクッションに足を取られて転んだ。
「痛い・・・」
シャーロットは涙を我慢した。ヒノトは勢いよく潰されてもぐっすりと眠っていた。転んで起き上がらない震えているシャーロットにレイモンドが近づいた。
「大丈夫ですか?」
シャーロットは逃げ遅れたことに絶望し耐えきれず、ヒノトに顔を埋めてポロポロと涙を流した。
「私が悪いの。わかってます。この婚姻も婚約破棄も。全部私が。ヒノトは殺さないで。お願いです。私はどうなってもいいです。ヒノト達だけはどうか」
レイモンドはシャーロットが幼い子供に見え、床に伏せたまま涙を流す頭にそっと手を伸ばすとビクッと緊張した頭を優しく撫でた。
「俺は君を恨んでないよ。もともと押し付けられた婚約だった。殺すつもりはないよ」
「こんな、優しい男爵様にご迷惑を。もう私の命をもって」
「待って。落ち着いて。死なれても困るよ。君は本当にあのシャーロット・モール公爵令嬢?」
「大変差し出がましいですが、今はシャーロット・コメリです。婚姻と同時に私の籍はモール公爵家から抜けています」
泣きながら顔を上げずに答える姿にレイモンドの庇護欲がそそられていた。レイモンドは令嬢は苦手でも動物は好きだった。また子供の相手も得意だった。
シャーロットの脇に手を入れて抱き起こし、座らせ、頬を濡らす涙をハンカチで拭う。シャーロットは人見知りだが、兄に似た仕草にされるがままだった。
シャーロットには秘密がある。重度のブラコンだった。レイモンドはシャーロットの隣に座った。
「俺は君を恨んでも嫌ってもいない。公爵令嬢の君に満足した暮らしをさせてあげられる自信はない。でも、妻となった女性には誠実にありたいと思っているよ」
シャーロットは深呼吸した。抱いているヒノトをクッションの上に寝かせた。
胸に手を当てて目を閉じて意識を切り替え、シャーロットは貴族の仮面を被る。
レイモンドは瞳の潤みがなくなり、泣き顔からいきなり綺麗な笑みを纏ったシャーロットに息を飲む。
「私も精一杯お役に立てるように努力致します。ですが、男爵夫人とはどのようなものでしょうか?」
子供から美しい令嬢に豹変したシャーロットに見つめられ、レイモンドはほのかに染まった頬を掻く。
「成人するまでは求めるつもりはない。うちで好きに、君、学園は?」
「私は王都に行けません。卒業資格はすでに持っておりますので学園に通う必要もありません。きっと殿下は男爵領と王都に見張りを置いています。私が男爵領から出れば殺すでしょう。王族の命に背いたと」
「モール嬢、」
レイモンドも婚姻については王家から通達があったが、詳しい事情は知らなかった。涼しい顔で元婚約者に殺されると語るシャーロットにかける言葉がわからない。
レイモンドには学園や行事で見かけたシャーロットと王子は親しそうに見えていた。シャーロットは王子の側でしか見せない表情があると噂されていた。
荒事には田舎男爵のレイモンドよりも王子の婚約者のシャーロットのほうが慣れていた。不敬罪で殺される者を何度も見ていたためシャーロットは自分が生きているのが不思議だった。
「男爵様、シャーロットとお呼びください。私には敬称をつける価値はありません。男爵様の望む夫人像を教えてくださいませ」
レイモンドはどこから突っ込むか悩んだ。学園生徒の憧れのシャーロットでも今は、一応、自分の妻である。
「え?夫人像って・・・。領民や家臣に不当な扱いさえしないでもらえればそれだけでいいよ」
「かしこまりました」
レイモンドは静かに頷くシャーロットとゆっくり話したくても、この後の予定が詰まっていた。
「何か不便があればいつでも。自由に出歩いて構わないよ。また来るよ」
「男爵様、どうか次はコクで先触れをお願いします。このような姿でお迎えするのは・・」
「確かに突然訪問してすまなかった。仕事があるからこれで」
「いえ、お気遣いいただきありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
レイモンドはゆっくりと立ち上がって離れから出て行った。立ち上がり綺麗な所作で礼をして自分を見送るシャーロットに照れて頬を掻きながら、不自由なく生活している様子にほっと息をついて仕事に戻った。
シャーロットは自分に謝ったレイモンドを不思議に思いながら出て行く背中を見送り扉が閉まったので、ヒノトを抱きしめ長いため息を溢した。
今は殺されないことがわかったので方針変更だった。
当初はレイモンドの邪魔にならないように息を潜めてひっそりと暮らす予定だった。
男爵夫人として立ち位置が望まれるなら勉強しないといけなかった。無能な役立たずの貴族夫人に生きる価値はない。シャーロットはヒノトとミズノと生きるためには今のままではいけないとわかっていた。
レイモンドから外出許可が出たので男爵領をこっそり歩き、領民を調べることにした。シャーロットは王妃教育は受けていても男爵夫人教育は受けていない。
他国や公爵家の知識はあっても王都から離れたコメリ男爵家のことは男爵の名前と地理しか知らなかった。
熟睡しているヒノトをギュッと抱きしめてフワフワの毛に顔を埋めしばらくして顔をあげた。ベッドに寝かせて毛布をかけたヒノトの寝顔を眺めて、シャーロットは頷いた。ローブを着て外出の支度を整えた。
「ヒノト、行ってくるね」
熟睡するヒノトに小声で囁き頭を撫でて、離れから出て行った。ミズノはモール公爵家に出掛けているため留守だった。シャーロットが初めて離れから外に出た日だった。




