犬の名は。 ~老犬、覚醒~
森を抜けて吹き抜ける風は、土の匂いをたっぷり含んでいる。
鼻をくすぐる緑の匂い。
うとうと……と心地よいまどろみ。
エミリアは、ひんやり冷たいシーツの上で寝がえりをうつ。
遠くから、「きゃいっわふっ」と楽しげな声が聞こえてきた。
「……あっ、わんちゃんが来た」
むくりと起き上がって、畑に駆け出す。
全自動収穫機や、種まき機、自動みず撒き機が忙しく動くなかで、涼しげなワンピースを着こなしたアビゲイルが風に吹かれて佇んでいた。
「アビゲイルさーん!」
「エミリア、起きたのか」
「はい、わんちゃんの声が聞こえたので」
「ああ、今日も今日とて元気だぞー。あいつは」
老犬はこの数日ですっかり元気を取り戻して、畑を走り回っている。
ときおりエミリアの近くで座り込んで、ぽけっとした顔をしている。
人に慣れていないのか、エミリアたちに一定の距離以上に近づくことはないけれど、日に日に距離は縮まっているような気がする。
アビゲイルの予想では、「エミリアから漏れる清浄な魔力を浴びている」そうだ。
それで元気になるならいいけれど。
「アビゲイルさん、わんちゃんの名前ってもう決めたんですか?」
「迷っている。知的な名前であればスフィア、デルタ、ガンマなど数理に関係のあるものがいい。詩的な名前なら……そうだな、トリアナやフィリスなど偉人の名前からとるのもいいな」
「あはは、難しそうな名前ですねぇ」
「笑うな。真剣に考えてるんだ。いや、まあ、まだ飼うとは決めていないが。エミリアだったらどういう名前にするんだ?」
「え? うーん……ジョン」
「ジョ……ン……?」
「あ、いや! アビゲイルさんみたいに素敵な名前は思いつかなくて! おっきくって、もっふもふで、優しい子で、ちょっと男の子っぽいし、ジョンがいいかなーって思っただけですよ!?」
「エミリア……君ってやつは……ジョンって……」
「うわーん、 笑わないでくださいねっ!」
「いや、素晴らしいぞ……! 優美で、それでいて知性を感じさせる名前だ……ジョン……!」
「えええ! アビゲイルさん、意外とそういうのが好きなんですか……!?」
――とても穏やかな時間だ。
エミリアは、しっぽを振ってすたすたと、ときによたよたと走り回る老犬を眺めながら思う。
修道院にいたころには、こんな世界があるとは夢にも思わなかった。
いつでもお腹が空いていて、いつでも頭痛がするほど眠たかった。
貴族の令嬢たちが18才になる直前の3年間だけやってきては、『聖女』の称号だけを手にして修道院を去っていく。
『聖女』として認定されるもののなかで、天歌教が定める清く貧しい施しの旅を続ける者は一握りもいないことを、エミリアは知っていた。そして、その一握りの聖女たちが、なぜかとても短命なことも、なんとなく、わかっていた。
「……平和ですね、ここは」
エミリアは思う。平和が好きだ。
世界の平和と、人々の幸せのために、世界を旅する『聖女』になろう――それは、エミリアが当代でいちばん偉大な聖職者として知られている天歌教の『大聖女』に拾ってもらった日から心に決めていることである。
けれど。
アビゲイルに、美味しい料理と素敵な生活でもてなされて、涼しい風に吹かれて眠り、日の光にきらきらと輝く畑を眺めていると、気づいてしまう。
(私、修道院で意地悪されてたんだよなぁ……しかも、あんなふうに追い出されて……)
少しだけ、心がしょぼしょぼしてしまう。
「わふっ! わんっ!」
「……わんちゃん。慰めてくれるの?」
「きゃんっ!」
少しくたびれた毛並みの老犬が、エミリアのすぐそばに座っていた。
ぱたぱたと尾っぽで地面をたたいている。
「ありがとう、ジョン」
思わず、エミリアは老犬に抱きついた。
もふもふ。手のひらから伝わる、温かい体温とトクトクとときめく鼓動。
毛皮からは、ほのかにお日様の匂い。
「きゃん……!」
「はわぁ……もふもふしてる……」
「お、おい! これはどういうことだ!?」
「なんですかぁ、アビゲイルさん……ジョンのもふもふをもう少しだけ堪能したいです……」
「いや……こいつ……犬じゃないぞ!」
「へ? たしかに……なんか大きく……?」
エミリアは、もふもふの毛皮から顔をあげる。
そこにいたのは――よぼよぼの老犬ジョンではなかった。
見上げるほどに大きい、美しい生き物がそこにいた。
背中は、エミリアとアビゲイルが乗っても、まだまだ余裕がありそうに広く大きい。
――美しい獣だ。
白銀色に輝くつややかな毛並み。
太陽の下で眩しいほどに白く輝いている。
サファイアのように澄んだ瞳には理知的な光が宿っている。
「え……? じょ、ジョン……?」
「――気高き魔力の持ち主の名付けに応じて覚醒した。我が名はジョン。――世界樹に仕えし四柱の幻想獣がひとつ、氷狼フェンリルなり」
「しゃ、しゃべったーー!」
「ふぇ、フェンリル……だと……!?」
老犬ジョン、とんでもない『存在』だった。
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