エマのとある一日 ・パート②
“勇者”ノアはバァンと扉を開け放った。
「エマ、次長知らねぇ…………っと」
開かれた扉は特魔局内のエマに与えられた研究室のもので、入り口正面に置いてある机に向かってエマは何やら作業中だった。
そのエマの隣に探し人である特魔局次長であるシンがいる。
シン・アズドラド・タリスマンは「美麗」という言葉を具現化したかのような容姿をした青年である。容姿のみならず、生まれ育ちに能力に財産に経歴にと、神様が贔屓しまくったとしか思えないほど恵まれている。特魔局においては、特魔局次長という肩書きではありはするものの、局長は実務を担っておらず次長が事実上のトップに等しい。
シンは机を挟んだ向かい側にもう一脚椅子があるにも関わらず、エマにぴったりと寄り添ったポジションに位置取っている。そこで何をしているかと言えば、エマを愛でているのである。具体的にはエマの流れるようにサラサラとした髪に熱心に櫛を通しているのだ。
シンはエマの髪を自分好みに結おうとしたところ(この何でもできる男は、女の髪を結うテクニックにおいても玄人はだしなのだ)エマの無精によって髪が傷んでいるのに気付き、手入れに精を出すことにしたのである。
ノアに対して反応を示したのはシンだった。手を休めずに、じろりとノアに目をやる。
ちなみにエマは作業に集中しており、シンのことを頓着していないのはもちろん、ノアの訪れにも気づいていないようだ。
「あのねぇ、仮にもレディの部屋だよ?ノックも許可も無しに扉を開くのはいただけない。特に駄目なのはね……」
ビシィっとノアを指差すシン。
「ノア、君がエマを呼び捨てにしていることだ!誰の許可を得てエマを呼び捨てにしているんだい?私は許可した覚えはないよ?!」
「えぇ~……」
面倒くさいの一言に尽きる。ここではっきりとしておきたいのは、シンはエマの恋人ではない、ということである。恋人ではないし、夫婦でもない。単なる職場の上司と部下だ。加えるなら、シンとノアだって上司と部下だ。
エマとノアは年も近く、特に付き合いにくい相手でもないので、お互い割と気安く接している。
「前から気になってはいたんだよ。君たち、ちょっと仲良くしすぎじゃないか?もしかして、その、つ、付き合っちゃっていたり」
「しませんって。オレとしては、もっとこう、むちむちばいーんと出るとこ出てる感じの女が好みです」
「そうか。それは安心……ではないだろ!ノア、エマを貶したな?エマのこの自己主張の少ないあっさりとした魅力をわからないとは何たることだ!」
「イヤ次長もさりげなく酷い」
「酷いわけあるか。私ほどエマの魅力をわかっている男はいないぞ!」
「あーそーですか。ところで次長、次長のサインが必要な書類がたまっているとかで、矢のような催促が来てるんスけど。どうにかしてくださいよ」
「代わりに君がサインしておいてくれたまえ。私がしても君がしても大差あるまい」
「やですよ。大差あるに決まってます。何かあったときに責任取りきれませんからね」
シンのやる気は皆無である。
しかしいつもの事なので、ノアの対応も慣れたものだ。
「ここでサインすればいいじゃないですか。実は書類、持ってきてるんですよ」
「…………」
「エマの顔を見ながらサインすればいいんですよ」
「それは名案だ!……いや、駄目だ。書類に視線をやっている間、エマの顔が見れないではないか。私は今この瞬間を宝物にしたいのだ」
最早意味不明。
ノアは我関せずと、自分の作業に集中しているエマの頬をみにょーんと引っ張った。
「ひゃひ?!(なに?!)」
「!!こらノア!私のエマの柔らかな頬に触れるなんて!しかもまた呼び捨て」
「おいエマ、こないだの借りを返せ」
「ふぇ?ふぁふぁっふぁ(わかった)」
ノアはシンの前にバサバサと書類を積んだ。
「エマ、次長を見て、にっこり笑え」
エマは言われるまま、にっこりというよりもニヤリに近い顔をした。
シンは至近距離でのエマの視線に狼狽えてオロオロと目線を泳がせている。
「次にちょっと首をかしげろ。そうだ。で、こう言え。お仕事頑張ってる次長ってカッコいい~。わたし、好きになっちゃいそう~。はい、どうぞ」
「おしごとがんばってるジチョーってカッコいい~。わたし、すきになっちゃいそう~(棒)」
「えぇっ?そう?そうなのかい?エマが私のことをそんなに思ってくれていたなんて知らなかったよ」
「おしごとできるおとこはすてきー(棒)」
「じゃ、じゃあ、エマに私の本気を見せちゃおっかなぁ」
いそいそと書類に向き合うシン。
エマはノアに視線で「これで貸し借り無しだからね」と伝えた。ノアは軽く親指を立てて了解の意を示した後にジェスチャーで「後で書類を回収にくる」と伝えて去っていった。
しばらく書類をめくる音とペンを走らせる音が室内に響いた。
エマは散乱している机の上を片付けはじめる。
そう時間が経たないうちに、シンが書類を纏めた。どうやら終わったらしい。書類の量から考えると、信じられないくらいの処理速度である。本気を出しさえすれば、できる男なのだ。
「で、次長、今日の目的は?」
「何の事かな」
「しらばっくれても無駄ですよ。何か私に修理させたいんでしょ」
「そんなことはないよ。私はただ、エマの顔が見たくて」
「あーはいはい。用事がないなら、私、お腹が減ったんでこのまま食事に出かけますけど。もう今日の仕事も終わってるんで、そのまま直帰します」
「えっ!…………………………じ、実は」
ほーらやっぱりね、と呆れ顔のエマは、ずいっとシンに向かって手を差し出した。シンがこうやってエマに与えられている部屋にやって来て鬱陶しい振る舞いをするときは、エマの能力に用事があるときなのだ。いつものことである。
シンはバツの悪そうな顔をして懐の隠しから布の包みを取り出した。
「知り合いからプレゼントされたカフスボタンを昨夜破損してしまったんだよ」
包みを開くと、台座は曲がり宝石は外れてしまっている。しかも宝石は欠けているようだ。
……宝石ってそんなに簡単に欠けたりするものだったっけ、とエマは胡乱な目で見た。
「その知り合いと今夜一緒にディナーに行くことになっていてね。相手への手前、贈ってもらったカフスボタンを着けないで行く訳にもいかず」
シンの目線はあっちに行き、こっちに行きしている。
エマは全てを悟った。呆れた目でシンを見ても仕方ないだろう。
「はぁ。またですか。いい加減に学習したらどうなんです?」
「な、なんのことやら」
「これで何回目だと思ってるんですか」
「いやいや、何回目って」
「どうせ新しい彼女の一人からプレゼントされたソレを、デート前の昨夜になってアマリエッタ様に壊されたんでしょ。普通に修理に出したら間に合わないですもんね、今夜のデートに」
「…………ぐっっ」
「私と次長の仲ですしー。業務外ではありますがー、幸い忙しくもないですしー、時と場合によってはちょちょいと直してもいいですよ」
「本当かい?!」
「あーでも私、そこそこお腹減ってきたんですよね。集中力が要る細かな作業はちょっと辛いかなー。こんな時に心踊るようなスイーツがあればなぁ~」
エマは机の脇から愛読書である「これで貴方も食通になれる!老舗からニューオープンまで王都のお店を完全網羅☆あのお店に行ったことのない貴方はモグリ」を取りだし、折り目をつけておいたページを開いた。
「まぁなんて偶然かしら。ちょうど今日は水の曜日で、もうすぐ一四の刻じゃないの!」
「エマに求めてもらえるなんて、そのスイーツはなんて幸せ者なんだ!エマのために買い占めてくるよ!」
シンは一瞬で姿を消した。
賢者クラスの魔術師でないと使用できない転移魔術の無駄遣いである。
「…………なんであんな人があんなに色々と恵まれてるんだろ。いや、恵まれてるからこそ、あんなんなのかな……」
エマは手のひらの上でカフスボタンのなれの果てを転がした。
シンくらいの使い手になれば、わざわざエマに頼まずとも自力で何とかできそうな気もする。それはそれでイラッとするが、専門外ではあるので完璧にはできないのかもしれない。
「さーて、次長が帰ってくるまでに復元しときますか!」
まだ見ぬ大量のスイーツを想像してニヤつきながら、魔力をその掌に集めた。
「次長、昨日のディナーどうでした?……って、どうしたんです、ソレ」
シンの艶やかな頬に真っ赤な手形がついていた。
「いやいや、たいしたことはないんだけどね」
「ははぁ。私が当ててみせますよ。どうせデート中にいい感じの雰囲気になったところでアマリエッタ様から呼び出しがあったんでしょ」
「……ぐっっ」
「的中かよ」
エマはシンより、昨夜のディナーの相手に同情した。
同時に「私だったらこんな男とデートするなんて真っ平ごめんだ」と思っていたことを、幸いにも(?)シンは知らない。