第3話:お金はありますか…? 後編
椅子に座る事が恐ろしい。
戌亥沢はすっかりと元どおりに修繕された椅子を──机を目前にそんな感想を抱く。
思い返してみれば、どうにも着席するタイミングを見計らったかのように。椅子に腰を下ろす度に妙な出来事が立て続けに起こっているではないか。
一度目は平原への移行。
二度目は怪竜との対峙。
そして。イルロラに着席を促された今この瞬間こそが三度目。
パブロフの犬──もとい、パブロフの戌亥沢といえばいくらなんでも洒落が効きすぎかもしれないけれど、戌亥沢は注意深く辺りを見渡しつつ椅子を睨み付ける。
もしも再三の着席が何らかの異常事態へのトリガーとなってしまったらどうしよう、と恐怖する。二度あることは三度ある、というし十全な警戒こそが今の戌亥沢には必要だった。
端倪すべからざる事ばかりが起こる平原にて、立て続けに起きるアクシデントを全て突破するメンタルやフィジカルを戌亥沢は持ち合わせてはいない。だからこそ、注意深く辺りを睥睨する。
非常事態に備える。
とうの神様、イルロラはというと位置的には教卓──教壇が存在していた箇所に(教壇や教卓は付いてこなかったらしい)陣取って、椅子に座るか座るまいかを逡巡する生徒たちを楽しげな笑顔で眺めていた。
「まあ……大丈夫か……」
戌亥沢は呟く。
例えドラゴンが舞い降りようが、天変地異に見舞われようが、神の御前だというのならば安心──大抵の問題は対処してくれるだろう、と一種の神頼みじみた心境に準拠した独り言だったけれど。その独り言に背中を押される形で戌亥沢は椅子に座る事を決意する。
椅子の脚が地面を削ることも厭わず、ぐっと背凭れを掴んで引き寄せて──戌亥沢は着席した。三度目の着席。
次は。何も起こらなかった。
「はい! 皆さんが揃ったので早速、改めて自己紹介します!」
イルロラは笑みを浮かべる。
「まず初めに……我らが世界、『ルトリフア』へようこそ。わたしはこの世界の神──イルロラです」
ルトリフア?
聞き慣れない単語に、戌亥沢含む生徒たちは首を傾げる。そんな国名が存在しない事くらいは義務教育をとうに終えている彼らにとって、疑問符を浮かべて然るべき事であった。
いや、或いはどこかの地名であるという可能性は否めなくはない。
百九十六ヶ国もある国の全ての地名を憶えるというのは、土台不可能な話であるからして、知らない地名くらいはあって当然なのだけれども。
その仮定を採用するには、やや厳しい現実を受け入れなくてはならない。
日本の地名は殆どが漢字とひらがなによって成っているのだ。特殊な読み方をする地名はあれど、そんな異国の地のような語感を持つ地名を戌亥沢は知らない。それに、なによりもまず。
「……ルトリフアとは何だろうか?」
出席番号6番、犬鳴が噛み付いた。
万感の意が込められた質問である。犬鳴は普段から知的な女性(少女ではなく、女性という表現が似合うクラスメイトなのである)らしい振る舞いをしているだけあって、こんな状況下でも実に卒のない端的でピンポイントな質問を投げかけるのであった。
そうだ。
まずは知らなくてはならない。この牧歌的な平原が、いったいどこに位置しているのかを。
日本のどこか──学校の近隣であることはきっと間違いがないのだから、歩いて帰れる距離かどうかを。最悪の場合、タクシー代が5桁を越えない位置に属しているのかどうかを尋ねなければならない。
対して、少女イルロラのアンサーは。
「はい! 平たくいえば、ここは『異世界』です! あなた達が住む惑星──地球とは別の世界だと答えておきましょう」
「は?」
一瞬にして空気が変わる──凍る。
何だって? 『地球とは別の世界』?
「んん……? 説明不足ですか……?」
不足しているのは説明ではない。経緯と変遷である。
どうして(イルロラの言葉を借りるならば)異世界へとクラスメイト共々、知らずの内に──どうやってこんな所に来たのか。それが知りたいのである。故に、イルロラの解には満点はつけ難い。
精々、与えられて部分点くらいなものだろうか。
「えっと……そうですね。順を追ってお話しします。まずは──どこから話そうかな……」
と、頼りなく教卓付近を右往左往するイルロラ。その姿は神の割にはあまりに情けないが……。
「……はい。まず、あなた方をルトリフアに召還した理由についてお話ししましょう」
やがて、思考の整理を終えたらしいイルロラが手をぽんと打って向きなおる。召還、なんてあまりに仰々しい──神々しい言葉が飛び出た事に少しだけ驚いたけれど。
一刻も早く状況を知りたい彼らにとって、そんな言葉を俎上に乗せる暇はないのだろう。全員が、静かに頷いた。
「わたしが統べていたこの世界、ルトリフアは現在危機に瀕しているんです。その危機は、かつては唯一神であったわたしの力が四人の神に奪われた事に端を発します」
イルロラが俯く。統べていた、という言葉から察することは多い。
「以前のわたしは万物の神というやつで……この世界における物事や事象の殆ど全てを一人で司っていたんです。ですが、ある日ある時、その力は計五つの『石』に分けられて──砕かれてしまいました。
「他の神々はその力をわたしから『石』という形で奪ってしまいました。性質はそれぞれ『奸計と正義』、『憎悪と友愛』、『闘争と不信』、『放縦と自制』を司る力です。……そして、わたしには彼らにとって必要のない力だけが残されました」
と。言葉を区切ったイルロラが俯いた顔を正面に向けた。
その小さな両手は、どことなく安っぽい印象を受けるパーティードレスのような上着の裾を掴んでいて。一体何をするつもりなのだろう、と逡巡する間も無く。
「!?」
上着を捲り上げた。
細く華奢で──見ようによっては痛々しい印象すら覚える少女の上半身が露わになる。素肌が露出する。
僅かに肋骨の浮いた胸は性差を感じさせないものではあったけれど、なによりも目を引くのは正中線──鳩尾に位置する箇所に迫り出した、真っ青に輝く歪な形状をした『石』である。
歪、と形容したけれど、切片が荒々しく砕けているだけであり。表面はガラスを磨き上げたかのような美しい光沢を放っていた。
「それが……その『残った力』の欠片ってことなのか?」
「ええ。如何にも」
イルロラは居住まいを正して、深く頷く。次いで、再び視線を落として言葉を紡いだ。
「皆さんにお見せした通り、これがわたしの生命源にして神たる証──イミカ石の原盤です。性質は『平和と安寧』……きっと、他の神々には必要なかったんでしょうね。そしてこれら危険な性質がわたしから奪われた──失われた今、世界は破滅へと向かっています。
「ここで漸く、回答を提出できますね。皆さんをこの異世界、ルトリフアに喚んだのはあなた方に四人の神を倒していただき、ひいてはこの世界を救ってほしいからなんです」
長い沈黙であった。そんな大義の下に喚ばれたとなれば、その責任や使命の大きさは最早言うまでもない。
だって、イルロラの話を聞く限りでは四人の神との大立ち回りを演じなければならないのだから。ドラゴンと戦うのとはあまりに話の飛躍度が違いすぎる。
いっそ暴力的と換言しても差し支えないイルロラの話を聞き終え、戌亥沢一同は固唾を飲んだ。
「神と戦えっていうのかよ! 馬鹿言うな、殺されるに決まってるだろ!」
憤ったのは刃連町。
確かに、刃連町の怒りは正当でいて順当である。我々、非力な──平凡な一人間が雲の上の存在である神と戦うなんてあまりにも烏滸がましく。
恐ろしくも不届きな話であるのだから。蟷螂の斧とすら言い難い実力差が、そこにはある。
「確かに皆さんが、生身で戦うなんてあまりに無謀──無防備です。なので、わたしから皆さんに二つばかりプレゼントを用意してあります」
イルロラは笑った。限りなく不敵に、笑んだ。
「神や、その僕と戦うに当たって、皆さんに防具と武器──異世界能力。略して異能を授けます……ああ、そうだ。皆さん、お金は持っていますか……?」
「お金? ……あるにはあるけど……?」
唐突に投げかけられた質問に対して、戸惑いを隠せない。お金?
まさか神が日本銀行券を欲しているとでもいうのだろうか。確かに日本では神にお布施する際に喜捨を行うけれど、まさかイルロラは神よろしく硬貨を──紙幣を求めているのだろうか。
無くはない──心許ない額面しか手元にない生徒たちは、ややあって首を横に振った。そもそも何に使われるか分からない、使途の不明な投資は行うべきではないだろう。それが人間そっくりな神となれば、尚更。
まあ……現実世界の喜捨は寺社への布施であって、祀られている神様のポケットマネーでない事くらい戌亥沢は知っている。そういう意味でも、安易に彼女にお金を与えるという選択肢は眼中になかった。
「うーん……ちょっとだけ余裕があったんで『イミカ石』を買っていただきたかったのですが……お金がないのならば仕方がありませんね」
と、あっさり気持ちをシフトするイルロラ。強引に押し売るつもりはないらしかった。
「それでは気を取り直して、異能の説明を再開します。異能とは所謂……魔法というか、そんな能力です。……実は既に配布済みの方もいるんですがね」
てへぺろ。
現実でそんな動作を見たのはこれが初めてであった。少々あざとい少女と称される上猫実だって、そんなアクションを見せたことはないというのに。神の少女は、見事にそんなポーズを決めてみせた。
「この世界へとあなた方を召還するに辺り、丸腰ではまずいだろうと判断しての処置──配布だったのですが、わたしの読み通り功を奏したようですね、投刀塚さん?」
不意に名を呼ばれた投刀塚が目の前でびくりと跳ねる。思い当たる節があって動揺したのか、それとも不意打ち気味な名指しに驚いただけなのか──しかし、戌亥沢には見当がついていた。
ああ、そうか。
ドラゴンを食い止めたのは投刀塚の異能だったのか、と。
あのドラゴンが投刀塚に喰らいつくことなく退散したのは、イルロラに配布されたという異世界能力が文字通りの意味で一枚噛んでいたのか、と納得する。
「配布したと言えど、どんな能力が誰に配られたのかはわたし自身も把握していません。そして、配られていない方は誰なのかということすらも把握できていないので……皆さん、ご起立願えますか?」
着席の次は起立を乞うイルロラ。なんだか忙しい印象を受けるけれど、いつまでも座っているわけにはいかない以上、起立を拒む理由もなくクラスメイト三十五人、全員が立ち上がる。
何が始まるのか、と腰をあげる。
「順番は問いませんので、わたしの前に一列で並んでもらって良いですか? これから異能と防具を皆さんにお渡しします──あっ、既に異能を持ってる人は防具しかあげないですからね?」
なんて。ややすれば一文惜しみじみた言葉を受けて、それぞれの生徒が彼女の前に──神の御前に並び始める。
異能と防具。なんだかいよいよ非現実的な言葉が並び始めた感は否めないけれど、貰えるものがあるならば貰っておきたいというのがドラゴンとの戦いを経た戌亥沢の心境である。
投刀塚のように、自身を──仲間を守れるに値する力が得られるというのであれば両手離しで喜べる話ではないか。素直に受け取るのが吉だろう。
そうやって列の中程に並んだ戌亥沢は、最前列の生徒の様子を窺う──能力を得る代わりに酷い苦痛を受けるというのは、漫画やゲームにおいては半ば必定となっている設定である。だから異能とやらを受け取るに際して苦痛を受けるようならば、せめて心の準備だけでもしておきたいというスタンスに基づいた行動であったのだけれども。
「……はい、次の方! ……はい、次の方! …………はい、どうぞ!」
見る見るうちに捌けていく列を見て、そんな杞憂は吹き飛ぶ。列を離れる生徒の中に苦しみのたうち回るクラスメイトは一人もいなかった。
しかし、あれではまるで流れ作業のそれである。
能力を授けるというのだから、戴冠式──は言い過ぎかもしれないけれど、叙任式くらいの荘厳さくらいは欲しいものである。
やがて、目の前の生徒が列を離れ戌亥沢の番がやってくる。
「……はい」
と。戌亥沢の掌に青い光が宿る。それは冷たく澄んだ輝きを残し、戌亥沢の手の上で溶けて行き──消え去ってしまった。
これで能力が手に入ったのだろうか、と拳を握りしめる戌亥沢にイルロラの手が重なる。その手は何かの紙片を握っていて。
「次の方!」
渡された紙片を検分する暇もなく、退出を促された。あまりに呆気のない授与式に戌亥沢は面食らったように列を離れる。
列から抜けた先行組が待機する場所へと移動しながら、戌亥沢は渡された小さな紙片を裏表検め、そして呟く。
「『衣装ガチャチケット』?」
背面は真っ白。紙面には低コストで作ったかのような印象を受ける安っぽい飾り絵とともに、妙にやるせないフォントでそんな言葉が書かれていた──。